第6話

「鈴木さん、いったい誰のことでしょうか? その男の人に、何か心当たりがあるんでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

 鈴木陽子さんは、体が少し震えているように見えた。

「鈴木さん、大丈夫ですか?」

 と、僕は聞いた。

「あの……、すみません。お水を――お水を、一杯いただけますか?」


 明日菜ちゃんが、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、コップに入れて、鈴木陽子さんに手渡した。

「ありがとうございます」

 鈴木陽子さんは、ゆっくりとミネラルウォーターを飲んで一息つくと、話し始めた。

「たぶん、ここを見ていたのは――お二人も、知っている人じゃないかと思います」

「えっ? 僕たちもですか?」

 と、僕は聞き返した。

 いったい、誰のことだろう?

 鈴木陽子さんが知っていて、僕と明日香さんも知っている人物。

 それは――

「きっと、坂本っていう人だと思います」

 と、鈴木陽子さんが言った。

「――坂本って、さっきの目撃者のことですか?」

「はい」

 と、鈴木陽子さんは、静かに頷いた。

「鈴木さん、その男の人がどうして坂本さんだと思うんでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「――それは、私が痴漢をされたと、嘘をついたことと関係があるんです」

「えっ? それは、どういう意味ですか?」

 と、僕は聞いた。

「実は、あの坂本っていう人は――」

 鈴木陽子さんが続けた言葉は、僕も明日香さんも、おそらく明日菜ちゃんも、まったく想像していなかった言葉だった――

なんです」

「ス、ストーカー!?」

 僕は驚きのあまり、声が裏返ってしまった。

「それはつまり、坂本さんが鈴木さんに、つきまとったりしているということでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「はい、そうです」

 と、鈴木陽子さんは頷いた。

「でも、ストーカーと明宏さんが痴漢をやったことと、どういう関係があるの?」

 と、明日菜ちゃんが、素朴な疑問を口にした――っていうか、明日菜ちゃんは、まだ僕が痴漢をしたと思っているのだろうか?

「それは、あのとき電車の中で、あの男がいるのを見つけて――私は怖くなって、どうしたらいいか分からなくなったんです。それで、ここで何か騒ぎを起こせば、逃げていくんじゃないかと思って……」

「それで、僕に痴漢されたと、嘘をついたんですか?」

「は、はい……。たまたま近くに、坂井さんがいらっしゃったので……。本当に、申し訳ありませんでした」

 鈴木陽子さんは、僕に頭を下げると、泣き出してしまった。


 鈴木陽子さんは、もう一杯ミネラルウォーターを飲むと、落ち着きを取り戻していた。

「でも、まさか目撃者のふりをして、ずっといるなんて思いもしなくて。それで、私も引くに引けなくなってしまって……。本当に、申し訳ありませんでした」

 鈴木陽子さんは、再び頭を下げた。

「そうですか、分かりました」

 と、明日香さんは頷いた。

 まさか、あの坂本さんがストーカーだったとは――確かに、ずっと挙動不審だったからな。

「たぶん、坂本さんは、鈴木さんに有利な証言をして、あなたを助けようとしたのね」

 と、明日香さんが言った。

「それで、自分のことを好きになってくれるとでも、考えたんでしょうかね?」

 と、僕は言った。

「そんなこと、あるわけないよ。ストーカーのことを、好きになるなんて」

 と、明日菜ちゃんは、怒っている。

「でも、坂本は(ストーカーに、さん付けなんて必要ない!)、どうしてここが分かったんでしょうか? 探偵事務所に移動することを決めたときには、もう坂本はいませんでしたよね」

 と、僕は言った。

「どこかで、隠れて見ていたんじゃないの?」

 と、明日菜ちゃんが言った。

「うーん……。ストーカーだったら、そういうことも、あり得るのか」

 と、僕は頷いた。

「明宏さん、痴漢だけじゃなくて、ストーカーの経験もあるの?」

「いや、あるわけないでしょ……」

 やっぱり明日菜ちゃんは、まだ僕が痴漢をやったと思っているのだろうか?

「あっ、明宏さんは、お姉ちゃんのストーカーか」

 ある意味、それは否定できない。

「私たちは、事務所までバスで来たけれど、坂本さんは同じバスには乗っていなかったと思うわ」

 と、明日香さんが言った。

「明日香さん、他の乗客のことも見ていたんですか?」

「もちろんよ。同じバス停で降りたのは、女性が二人だけだったわ。本当に、事務所を見ていたのは、坂本さんなのかしら?」

「鈴木さん、坂本の写真とかって、持っていませんか?」

 と、僕は聞いた。

「いいえ、持っていません。あんな男の写真なんて」

 と、鈴木陽子さんは、全力で首を横に振った。

 それもそうか、ストーカーの写真なんて、持っているわけないか。明日菜ちゃんに、男の顔を確認してもらおうかと思ったんだけど。

「一本後のバスで、来たのかもしれませんね。確か次のバスは、10分くらい後だったと思いますから」

「まあ、その可能性は否定できないわね」

 と、明日香さんは頷いた。

「そうかぁ、あの人ストーカーだったんだ。追いかけていって、捕まえればよかったな」

 と、明日菜ちゃんが残念そうに言った。

「明日菜ちゃん、そんな危険なことしなくてもいいよ。ストーカーなんて、何をするか分からないから」

「ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」

 と、鈴木陽子さんは、明日菜ちゃんにも頭を下げた。


「鈴木さん、そもそも、いつ頃からストーカーに? 私でよろしければ、相談にのりますよ」

 と、明日香さんが言った。

「たぶん、ここ2、3ヶ月くらい前からだと思います」

「2、3ヶ月くらいですか。けっこう最近ですね」

 と、僕は言った。

「何か、きっかけがあったんですか? ストーカーをされるようになった、きっかけが」

 と、明日香さんが聞いた。

「それが――私にも、よく分からないんです。気がついたら、つきまとわれていたっていう感じで……」

「具体的に、何かされたということはないですか?」

「それは、今のところ何もありません。ただ、少し離れたところから、じっと私のことを見ているだけで」

「鈴木さんは、坂本さんにまったく心当たりがないんですよね?」

「はい」

 と、鈴木陽子さんは頷いた。

「おそらく、どこかで鈴木さんのことを見かけて、一目惚れでもしちゃったんじゃないでしょうか?」

 と、僕は言った。

「そうね。自宅や職場の周辺や、電車の中とか。鈴木さん、どうですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「いえ、まったく心当たりがないです」

「そうですか。もしよろしければ、私が調べてみましょうか? もちろん、調査料はかかりますが」

「いえ、大丈夫です。具体的に、何かされたわけではないので」

「何かされてからじゃ、遅いんじゃないの?」

 と、明日菜ちゃんが、もっともなことを言った。

「いえ、本当に大丈夫です。もう、知り合いの弁護士さんに、相談をしているところなので」

「そうですか、分かりました」

 と、明日香さんが言った。


「あの……。私の方から、こんなことを言うのも、あれなんですけど。もう、失礼してもよろしいでしょうか? これから、行くところがあるので――」

 と、鈴木陽子さんが、申し訳なさそうに言った。

 気がつけば、もうお昼近い時間だ。

「明宏君、どうする? あなたが大変な目にあったんだから、明宏君が決めて。それとも警察に連絡をして、鞘師警部にでも来てもらう?」

 と、明日香さんが、僕に聞いた。

「いえ、警察には――」

 警察に連絡しても、こういうのは鞘師警部の担当ではないだろうし、他の警察官に説明するのも面倒だ。

 それに、潤んだ瞳で僕を見つめる鈴木陽子さんを見ていると、警察に連絡するのは、かわいそうに思えてくる。

 僕は、甘いのかもしれないが。

「それじゃあ、鈴木さんには帰ってもらうわよ」

「大変ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした。また改めて、お詫びさせていただきます」

 と、鈴木陽子さんは、深々と頭を下げた。

「それでは、連絡先だけ聞かせてもらってもよろしいでしょうか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「――分かりました」

 鈴木陽子さんは、一瞬だけ躊躇う素振りを見せたが、明日香さんが差し出したメモ用紙に、携帯電話の番号を書いた。

「できれば、住所もお願いできますか?」

「住所もですか?」

「はい。何か、不都合でもありますか?」

「いえ、分かりました」

 鈴木陽子さんは、電話番号の下に住所を書いた。

「ありがとうございます。それでは、こちらも」

 と、明日香さんは、鈴木陽子さんに名刺を渡した。

「ちなみに、これからどちらへ行かれるんですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「ちょっと、友達と約束があって」

「ボーイフレンドですか?」

「いえ、女友達です」

「よかったら、その辺まで車でお送りしましょうか?」

「いえ、大丈夫です。バスと電車で、行きますから」

「それじゃあ、駅まででも送りますよ」

 と、明日香さんは微笑んだ。

「いえ、本当に大丈夫ですから。こちらがご迷惑をおかけしたのに、これ以上のご迷惑は――」

「そうですか、分かりました」

「それじゃあ、失礼します」

 と、鈴木陽子さんは頭を下げると、探偵事務所を後にした。

 明日香さんが窓の外を覗いているので、僕も覗くと、バス停の方に向かって歩く、鈴木陽子さんの姿が見えた。

 鈴木陽子さんが立ち止まると、探偵事務所の方を振り返った。鈴木陽子さんは、窓越しの明日香さんと目が合ったようで、そのまま小走りに立ち去ったのだった。


「明宏君、今の鈴木さんの話を、どう思った?」

 と、明日香さんが僕に聞いた。

「そうですね――あの、坂本っていう男が、最低な男だなって思いましたね」

「それだけなの?」

「えっ? 他にですか? そうですね――」

 まあ、腹が立たないといったら嘘になるけど、鈴木さんの話に不自然なところはなかったような――

「そもそも、鈴木さんの話は――どこまで、本当なのかしら?」

「どういうことですか? 鈴木さんの話が、嘘だっていうことですか? 特に、おかしな点は、なかったと思いますけど」

「一応、話の辻褄は合っているとは思うけれど……」

「何か、ひっかかることでも?」

「いくら、騒ぎを起こそうと思ったからって、痴漢騒ぎなんて起こすものかしら? それに、鈴木さんのあの服装よ。朝早くから、あんな服装で女友達に会いに行くのかしら?」

「もともと、ああいう服装が趣味なんじゃないですか?」

「そうね。私の考えすぎかもね」

「ねえ、お姉ちゃん。みんなで、お昼ご飯食べに行かない? お姉ちゃんの、おごりで」

 と、明日菜ちゃんが言った。

「いやよ。お昼ご飯を食べに行くのはいいけど、明日菜の方が稼いでいるんだから、自分の分は自分で払いなさい」

「えぇー。ケチなんだから。それじゃあ、明宏さんは――」

「えっ? 僕?」

 正直、この中で一番稼いでいないのは僕だ。

「いいわよ。私が出すから、行きましょう」

 と、明日香さんが言った。

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