第5話

「鈴木さん、お待たせしました。さっそくですが、お話を聞かせていただけますか?」

 と、明日香さんが優しく言った。

 鈴木陽子さんは、探偵事務所というものが珍しいのだろうか、室内をキョロキョロと見ていた。

 自分の部屋ではないけど、あんまりじろじろと見られると、なんか恥ずかしいな。

 今度暇な時間に、もっと綺麗に片付けておくか(えっ? 暇な時間の方が多いだろうって? そんなことはない。コーヒーを飲んでコーヒーの味をしっかりと覚えて、もし犯人にコーヒーに睡眠薬や毒を入れられても、この味はおかしい! と、すぐに吐き出せるように勉強したり、次はこんな事件を調査してみたいなとか、考えるのが忙しいのだ)。

「――はい、分かりました」

 と、鈴木陽子さんは頷いた。

「でも、その前に、何か飲み物でも入れましょうか? 鈴木さんは、先ほどコーヒーを飲まれていましたから、何か違うものがいいでしょうか? 紅茶とか、ココアとかもありますよ」

「いえ、私コーヒーが好きなので、コーヒーをお願いします」

「コーヒーですね、分かりました。明宏君、コーヒーをお願い。私の分もね」

「はい」


 僕は、手早く三人分のコーヒーを入れた。

 そういえば鈴木陽子さんは、さっき大きめのスティックタイプの砂糖を3本入れていたな。それじゃあ鈴木陽子さんの分は、同じ分だけ付けておくか。

「お待たせしました」

 僕は、みんなの前にコーヒーカップを置いた。

「ありがとうございます」

 と、鈴木陽子さんは言うと、ミルクと3本のスティックタイプの砂糖を、またまた躊躇することなく、一気に全部入れてしまった。

「鈴木さん、さっき駅で見ていたときも思ったんですけど、コーヒーに随分たくさん砂糖を入れるんですね。甘すぎないですか?」

 と、僕は聞いた。

 余計なお世話かもしれないけど、気になったのだ。

「じゅ――いえ、知り合いの人にも言われたんですけど、やっぱり、おかしいですか?」

「いえ、人それぞれだと思いますけど」

 さっき、鈴木陽子さんは何か言おうとして、慌て知り合いの人と言い直したみたいだったけど。気のせいかな?

「私、コーヒーが好きなんですけど、砂糖をたくさん入れないと飲めないんです」

「そうなんですね」

 僕は、1本でいいけど。

「それじゃあ、鈴木さん。お話を――」

 と、明日香さんが言いかけたとき、探偵事務所のドアが開いた。


「お姉ちゃん、明宏さん、おはよう。あっ、コーヒー飲んでるの? 私にも、ちょうだい」

 と、元気よく探偵事務所に入ってきたのは――

明日菜あすな、悪いけど、仕事中なのよ。帰ってくれる?」

 と、明日香さんが言った。

 探偵事務所に入ってきたのは、明日香さんの妹の明日菜ちゃんだった。

 明日菜ちゃんは、アスナというカタカナの芸名でモデルをやっている。

 身長が僕よりも5センチも高い174センチもあって、本当にうらやましい。可能ならば、少しだけでも僕に分けてほしいくらいだ。

 最近では、テレビにもたくさん出ていて、クイズ番組での珍解答や、バラエティー番組などで活躍している。

 ドラマにも出たことがあったけど、その演技の評判は――本人の名誉の為にも、黙っておいたほうがいいだろう(本人は、すごく自信があるみたいだけど)。明日菜ちゃんは、決められた演技よりも、素の言動や行動が面白いのだ。

 そんな明日菜ちゃんは、姉の明日香さんのことを、とても尊敬していて、探偵事務所にもよくやって来る。

 明日香さんは、テレビで変なことを言う明日菜ちゃんを、恥ずかしいと言っているけれど、本当は明日菜ちゃんのことを、誰よりも応援しているのだ。

「せっかく寒い中を来たのに、追い返すの?」

 と、明日菜ちゃんは寂しそうに言った。

「私なら、別にいいですよ。居ていただいても」

 と、鈴木陽子さんが言った。

「鈴木さんが、そうおっしゃるなら」

 と、明日香さんは言った。

「モデルの、アスナさんですよね? 私、大ファンです。テレビや雑誌で、よく見ています。やっぱり、本物はかわいいですね」

 と、鈴木陽子さんは嬉しそうに言った。

 鈴木陽子さんは、自分の立場を分かっているのだろうか? さっきまでと違って、何か楽しそうだ。

「本当ですか? 嬉しい! どうも、ありがとうございます」

 と、明日菜ちゃんは微笑んだ。

「明宏さん、私もコーヒーが飲みたいな」

「コーヒー? ちょっと待ってね」

 僕が席を立とうとすると、「明日菜、私たちは仕事中だから、自分で入れなさい。それで、隅っこの方でおとなしくしていなさい」と、明日香さんが言った。

「えっ? 明宏さんも、仕事をしているの?」

「一応、しているわよ」

「…………」

 最後の会話は、聞かなかったことにしよう……。

 ――もっと、仕事がんばろう。

 明日菜ちゃんは、自分でコーヒーを入れると、事務所の一番奥(一番奥なんて言うと、すごく広そうだけど、実際にはそんなに広くはない)の椅子に腰を下ろした。


「鈴木さん、大変失礼しました。とんだ邪魔が入って。それじゃあ、聞かせてもらえますか。どうして、あなたが明宏君に痴漢をされたなんて、言い出したのか」

 と、明日香さんが、鈴木陽子さんに聞いた。

 しかし、その質問に答えたのは鈴木陽子さんではなかった――

「えっ!? あ、明宏さん、痴漢をしたの? お姉ちゃんという人が、ありながら……。そうか、お姉ちゃんが相手にしてくれないから、欲求不満だったのね。明宏さん、最低だよ……」

 と、明日菜ちゃんが涙ながらに言い出した。

「ちょっ、ちょっと明日菜ちゃん。違うから。僕は、痴漢なんてやっていないから」

 急に、何を言い出すんだ明日菜ちゃんは。

「せめて、私に言ってくれたら、よかったのに……。よりによって、赤の他人になんて――」

 と、明日菜ちゃんは、まるで触るんだったら、自分を触ってくれれば的なことを言い出した。

「明日菜ちゃん、聞いてる? だから、僕はやっていないから」

 そのとき、誰かの携帯電話が鳴った。

「すみません。メールが――」

 と、鈴木陽子さんが、携帯電話を取り出した。

「明宏さん……。鞘師さんには、私からも頼んであげるから。少しでも、明宏さんの罪が軽くなるようにって……。鞘師さんだったら、きっと分かってくれるはずだから……」

「…………」

 駄目だ。明日菜ちゃんは、僕の言うことを全然聞いていない。

「だけど、お姉ちゃんも悪いんだよ……。お姉ちゃんだって、本当は明宏さんのことを――」

 えっ?

 明日香さんが、僕のことを?

 いったい何だろう?

「明日菜! うるさいわよ!」

 突然、明日香さんが怒りだした。

「明宏君は、痴漢なんてやっていないわよっ!」

 明日香さんは怒ってるし、明日菜ちゃんは泣いてるし、鈴木陽子さんは無言で、携帯電話のメールをチェックしているし――

 いったい、どういう状況だ。三人の間に挟まれた僕は、いったいどうすればいいんだ?

 こんなときこそ、鞘師警部が来てくれたら――

 いっそのこと、鞘師警部に電話を掛けようかと本気で思ったけれど、やっぱり止めておいた。明日菜ちゃんが、僕が自首しようとしていると、勘違いをするかもしれない。

 そうだ、ここは待とう。こういうときこそ、時間が解決してくれるんだ。

 僕は悟ったように、そっと目を閉じたのだった――


 そして、数分後――

 明日菜ちゃんも、ようやく僕が痴漢をやっていないということを理解してくれた。

「そうだよね。明宏さんが痴漢なんて酷いことを、するわけがないもんね。私も、そうじゃないかなって思っていたよ」

 と、明日菜ちゃんは笑顔で言った。

「よく言うわよ。あんなに、泣いていたくせに」

 と、明日香さんは呆れている。

「お姉ちゃんという人がありながら、そんなことしないよね」

 いや、そんなこと関係なく、痴漢なんて絶対にやってはいけないのだけど。

「そうだ、明日菜ちゃん。さっき、『お姉ちゃんだって、本当は明宏さんのことを』って、言おうとしたよね? あれって、どういう意味?」

「それは、ここだけの話だけど――」

 明日菜ちゃんが、小声で僕にそっと耳打ちしようとしたが――

「明宏さん。私、そんなこと言ったっけ?」

「えっ?」

「明宏さんの、聞き間違いだよ。私、そんなこと言った覚えがないから」

 そのとき、僕は背後から殺気のようなものを感じた。

 僕は、恐る恐る後ろを振り返った。

 そこには、笑顔で僕たちを見つめる明日香さんの顔があった――


「鈴木さん、全然話が進まなくてすみません。それでは、あなたが明宏君に痴漢をされたと嘘をついた理由を、教えていただけますか?」

「それは――」

 と、鈴木陽子さんが、話そうとした瞬間――

「あっ! お姉ちゃんに、一つ言うことがあったんだ」

 と、明日菜ちゃんが言った。

「何よ? どうでもいいことなら、後にしてちょうだい。明日菜が来てから、全然話が進まないのよ」

「どうでもいいことかどうかは分からないんだけど、さっき私がここに来たときに、誰かが階段の下から、事務所の方を見上げていたの」

「事務所を? 誰が?」

「誰かは分からないけど、若い男の人だったよ。若いとはいっても、たぶん私よりは上かなぁ? もしかしたら、明宏さんと同じくらいかも」

「僕と同じくらい? いったい、誰でしょうか?」

「明日菜、どんな人だったか、他には何か覚えていないの?」

 と、明日香さんが聞いた。

「うーん――サングラスを掛けていたから、よく分からないんだけど。私が見ているのに気が付いたら、すぐに駅の方角に歩いて行っちゃった」

「顔の特徴とか体格とか、何でもいいから覚えていないの?」

「さっきも言ったけど、サングラスを掛けていたし。すぐに行っちゃったから、よく覚えていないの。もう一度見れば、分かるかもしれないけど」

「そう、若い男性ね――」

 そのとき、僕たちの話を聞いていた鈴木陽子さんが、突然手に持っていたコーヒーカップを落とした。

 落とした場所が机の上だったので、そんなに高い場所から落ちたわけではないので、コーヒーカップが割れることはなかったが、少し残っていたコーヒーが、机の上に飛び散った。

「す、すみません」

 鈴木陽子さんは、何故かひどく動揺している。

「明日菜、その辺にあるタオルを取って!」

 と、明日香さんが叫んだ。

「ご、ごめんなさい……」

「大丈夫ですよ。鈴木さん、火傷とかしていませんか?」

「大丈夫です」

 明日菜ちゃんがタオルを持ってきて、急いで机の上を拭き始めた。

「もしかしたら――」

 と、鈴木陽子さんが呟いた。

「もしかしたら、あの人かもしれません。ここを、見ていたのは――」

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