第4話
突然、叫び声を上げたのは――新田さんだった。
一瞬の沈黙の後、「おい、みんな! 目撃者が、逃げようとしてるぞ!」
再び、新田さんが大声で叫んだ。
えっ、なんだって? 目撃者が、逃げようとしているだって? いったい、どういうことだ?
僕は、慌てて宇都宮さんの方へ目をやった。宇都宮さんは、まだ椅子に座っていて、僕とは全然違う方向を見ていた。
そのとき、僕以外の視線は、坂本さんの方に集まっていた。
あっ、そっちか。まあ、宇都宮さんに逃げる理由なんて、あるわけがないか――うん? ちょっと待てよ、坂本さんには、何か逃げる理由があるというのか?
新田さんが、坂本さんの方に向かって足を一歩踏み出した、その瞬間――
「えっ? う、うわぁっ!!」
坂本さんは突然大きな叫び声を上げると、事務所のドアの方に向かって一目散に走り出した。
「お、おい! こら、待ちやがれ! 逃がすか!」
新田さんが、慌てて坂本さんを追い掛け始めた。
「新田君、暴力はいけませんよ!」
と、佐々木駅長が、新田さんの背中に向かって声をかけた。
「明宏君!」
明日香さんが、僕に向かって叫んだ。
僕も少しだけ遅れて、新田さんの後を追って走り出した。
そして、新田さんが事務所から出た瞬間だった、その悲劇が起こったのは――
「う、うわっ!」
なんと、僕の目の前を走っていた新田さんが、足がもつれたのか、勢いよく転倒したのだ。
当然、新田さんの真後ろを走っていた僕は、急には止まれない。避けることができずに、転んだ新田さんにつまずいて、そのまま新田さんの上に覆い被さるように倒れてしまった。
そして、ベルトをしていなかった僕のズボンがずれて、パンツが丸見えになってしまった。
パンツ丸出しで男の上に覆い被さる男を、たまたま通りがかった二人の女性駅員が、なにやらひそひそと話しながら、見て見ぬふりをして行ってしまった。
ちょっ、ちょっと、待ってください! ち、違うんです! 僕たちは、決してそんな関係じゃ――
「痛っ! クソッ! 待ちやがれっ!」
新田さんが倒れたまま、右手をいっぱいに伸ばして叫んだ。
もちろん、待てと言われたからといって、坂本さんが『はい、分かりました』と、素直に待ってくれるわけはなく、坂本さんの背中は、どんどん遠くなっていき、とうとう僕たちの視界から完全に見えなくなったのだった――
そして、さっきの女性駅員たちに、新田さんが誤解されないようにと、僕は強く願ったのだった――
「明日香さん、すみません。逃げられてしまいました」
事務所に戻った僕は(もちろん、ズボンはちゃんと履き直している)、明日香さんに謝った。
「そう。まあ、仕方がないわね」
「クソッ、あんなところで転んだりさえしなければ、絶対に捕まえられたのに。なんて、逃げ足の速い奴だ」
新田さんが、ぶつぶつ文句を言いながら事務所に戻ってきた。
「新田さん、大丈夫ですか?」
と、僕は聞いた。
「ええ、なんともないですよ」
「ちょっと、血が出ていますよ」
と、明日香さんが言った。
あまりにも勢いよく転んだので、新田さんは左手の甲を少し擦りむいたようで、うっすらと血が滲んでいた。
「ああ、これくらい別に何でもないですよ。こんなもの、舐めとけば治りますよ」
と、新田さんは笑った。
「そんなことよりも、あの坂本っていう奴は、どうして急に逃げ出したんだ?」
新田さんは、首をかしげた。
「何か後ろめたいことでも、あったんでしょうか?」
と、僕は言った。
そういえば坂本さんは最初から挙動不審で、言っていることも、どこかあやふやだったけど、どういうことだ?
「鈴木さん、先ほどの話の続きですけど――」
と、明日香さんが切り出した。
「鈴木さん、本当に誰かにお尻を触られたんでしょうか?」
「そ、それは――」
「坂本さんが急に逃げ出したことと、何か関係があるんじゃないですか?」
鈴木陽子さんが、一瞬、僕の方を見た。
「――ごめんなさい。私、嘘をついていました……。探偵さんのおっしゃる通り、誰にも触られていません……」
そう言うと、鈴木陽子さんは泣き出してしまった。
「鈴木さん、大丈夫ですか? 落ち着きましたか?」
と、明日香さんが聞いた。
「はい……。ごめんなさい……。大丈夫です……」
鈴木陽子さんは、さっきまで宇都宮さんが座っていた椅子に座って、新田さんが入れてくれた温かいコーヒーを飲んでいた。
どうでもいいことだけど、鈴木陽子さんは、かなり甘いものが好きなようだ。新田さんが、大きめのスティックの砂糖を3本出してくれていたけど、鈴木陽子さんは躊躇することなく全部入れていた。
そんなに苦いのが苦手なら、無理にコーヒーなんか飲まなくても、よさそうだけど。
ちなみに佐々木駅長は、どうしても外せない用事があるからと言って、この場を新田さんと僕たちに任せて、何処かに行ってしまった。
宇都宮さんも、さすがに次の電車に乗らないと間に合わないということで、佐々木駅長と一緒に事務所を出ていった。
その際、僕は宇都宮さんに感謝の思いを述べて別れたのだけど、再び飴玉をもらってしまった。しかも、今度は袋ごとくれた。
「鈴木さん、どうして痴漢をされたなんていう嘘をついたのか、聞かせてもらってもいいかしら?」
「は、はい……」
鈴木陽子さんは、チラチラと新田さんの方を見ている。
「鈴木さん、ここで話しにくいようなら、場所を変えましょうか?」
「えっ?」
鈴木陽子さんは、困惑の表情を見せた。
「明宏君、これから探偵事務所に行きましょう。鈴木さんを連れて」
「は、はい、分かりました」
と、僕は頷いた。
僕も、鈴木陽子さんが、どうしてこんな嘘をついたのか、どうしても聞きたい。
「そ、そんな……。ご迷惑をおかけするわけには――」
「そんなところまで行かなくても、ここで話してもらっても構わないですよ。全然、迷惑じゃないので」
と、新田さんが言った。
「鈴木さん、もう既に、かなり迷惑がかかっているんですよ。もしも私がいなかったら、明宏君は警察に痴漢の容疑者として、逮捕されていたかもしれないんですよ。それに、後で嘘だったと分かったら、鈴木さんも大変なことになったかもしれないんですよ」
と、明日香さんは優しい口調で、鈴木陽子さんを諭した。
「それとも、ここに警察に来てもらいましょうか?」
逮捕――
改めて聞くと、重い言葉だ。
本当に、明日香さんが同じ電車に乗り合わせていて、僕はとても幸運だったのだ。仮に、後で嘘だったことが分かっても、本当はやったんじゃないかって思う人は、大勢いるだろう。
「――分かりました」
鈴木陽子さんは少し考えた後、素直に頷いた。
「それじゃあ、行きましょうか」
僕たちは新田さんに、「佐々木駅長に、よろしくお伝えください」と、言って、駅の事務所を後にした。
途中で後ろを振り返ると、新田さんが僕たちの方を見つめていた。僕の視線に気がつくと、新田さんは事務所の中に姿を消したのだった――
僕たちは、明日香さんの探偵事務所にやって来た。
明日香さんの探偵事務所は、白い3階建てのビルで、1階部分は3台分停められる駐車場になっている。その内1台分は、明日香さんの白い軽自動車が停まっている。
そして2階が探偵事務所で、3階には明日香さんの住んでいる部屋がある(ちなみに、僕は明日香さんの部屋にだけは、入ったことがない。いつか、入りたいものである)。
このビルは、もう築20年近いそうだけれど、比較的綺麗で壊れているところもない。
何故、明日香さんが都内に、このようなビルを所有しているのかというと。
このビルは、不動産業の明日香さんの父親が所有するビルで、明日香さん曰く、『ほとんど、ただ同然』の、かなり安い金額で借りているそうだ。
まあ、明日香さんの父親としてみれば、貸しているというよりも、かわいい娘に、あげたようなものだろう。
僕は事務所の鍵を開けると(ちなみに、探偵事務所の鍵は、僕も持っている)、鈴木陽子さんを事務所の中へ通した。
「寒いから、暖房を入れますね。適当に、座っていてください」
僕は、エアコンの暖房のスイッチを押した。
自分の部屋に荷物を置きに行っていた明日香さんも、すぐに探偵事務所に戻ってきた。
明日香さんの右手には、ベルトが握られている。
「明宏君、これ使っていいわよ」
と、明日香さんは、ベルトを僕に差し出した。
「えっ? いいんですか? ありがとうございます」
う、嬉しい――
明日香さんから、プレゼントを貰うなんて!
僕は大喜びで、明日香さんからベルトを受け取ると、さっそくベルトを締めた。
「ここでズボンが脱げると、困るからね」
と、明日香さんは照れたように言った。
ま、まさか……。さっきのズボンが脱げたところを、明日香さんは見ていたんじゃ――
い、いや、明日香さんは、駅の事務所の中にいたはずだから、それはないか。
「でも、どうして明日香さんが、男物のベルトを持っているんですか?」
「それは――たまたま、部屋にあっただけよ」
と、明日香さんは素っ気なく言った。
「そうですか」
たまたま?
そうか、一人暮らしの明日香さんの部屋に、たまたま男物のベルトがあっただけか――って、そんなことがあるんだろうか?
ま、まさか……。明日香さんには、同棲をしている彼氏がいるとか……。
い、いや、そんなはずは――
だけど、よく考えてみれば、僕は明日香さんのプライベートを、何も知らないのだ。僕が知らないだけで、明日香さんには――
『明宏君。明日香ちゃんのことは、私に任せてくれ』
ま、まさか……、鞘師警部!?
い、いや、そんなはずはない。だって、探偵事務所の駐車場に、鞘師警部の赤い車は停まっていないじゃないか。
きっと、僕の考えすぎだろう。
そうだ、考えすぎだ――
僕は、気持ちを落ち着ける為に、深呼吸を繰り返した。
「明宏君、何をぶつぶつ言ってるの?」
明日香さんが、僕の顔を不思議そうに見ている。
「い、いえ、なんでもありません」
僕は平静を装った。
「そう、ならいいけど。それじゃあ、鈴木さんの話を聞くわよ」
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