第3話

「ほ、本当ですか!? 明日香さん!」

 いや、本当に痴漢をやっていないということは、もちろん僕自身が一番よく分かっているのだけど、明日香さんのその一言は、僕をとても勇気づけた。

「ええ、本当よ」

 と、明日香さんは頷いた。

「その人が犯人じゃないって、どういうことですか? 私、嘘なんてついていません……」

 と、鈴木陽子さんは、いきなり泣き出してしまった。

 泣き出す鈴木陽子さんを見て、何故か坂本さんが明日香さんを睨み付けている。

「すみません探偵さん、ちょっといいですか? あなた、容疑者が自分の助手だからといって、庇っているんじゃないですか? あなたの助手が無実だっていう証拠は、何かあるんですか?」

 と、新田さんが、明日香さんに殴りかかりそうな勢いで詰め寄った。

 そんな新田さんを見て、何故か坂本さんが驚いている。なんか、よく分からない人だな、坂本さんって。

「新田君! 止めなさい!」

 と、佐々木駅長が、新田さんを制止した。

「新田君らしくないぞ。君がそんなに熱くなって、どうするんだ」

「しかし、駅長。どう考えたって他に犯人は、いないじゃないですか!」

「まあ、いいから落ち着きなさい新田君。桜井さん、そう仰るからには、何か確実な根拠があるんですよね?」

「ええ、もちろんです駅長さん。私にも、探偵としてのプライドがありますから。容疑者が自分の助手だからといって、根拠もなしに庇ったりはしません」

「それじゃあ、何ですか? その根拠って。さっさと、聞かせてください」

 と、新田さんが言った。

「分かりました。それじゃあ、ちょっと実験してみましょうか。みなさん、協力してください。佐々木駅長は、そこで見ていてもらえますか?」

 と、明日香さんは微笑んだ。


「それじゃあ宇都宮さん、すみませんが、こちらの椅子に座っていただけますか?」

「分かりました」

 宇都宮さんは、事務所の壁際に置かれた椅子に座った。どうやら明日香さんは、ここを電車内に見立てているようだ。

「それじゃあ明宏君は、電車の中と同じように、宇都宮さんの前に立ってくれる? ここにつり革はないから、あると思って右手を上げておいてね」

「はい、分かりました」

 僕は、電車内のことを思い出しながら、宇都宮さんの前に立った。

 右手は、つり革を掴むように上げ、左手には電車内で宇都宮さんからもらった飴玉を握った。


「それじゃあ、次は鈴木陽子さん。あなたは、どこにいたんでしょうか?」

「私は、最初は真ん中辺りにいたんですけど、触られたときには、電車から下りるために、出口の近くに移動をしていました」

 と、鈴木陽子さんは言うと、僕の右側に立った。

「なるほど。下りるために、そこに移動したんですね。分かりました。それじゃあ、最後に坂本さん」

 と、明日香さんが、目撃者の坂本さんを呼んだ。

「…………」

 何故か、坂本さんが返事をしない。

「坂本さん? 聞いていますか?」

 と、明日香さんが、再び坂本さんを呼んだ。全員の視線が、坂本さんに集中する。

「あっ、はい! さ、坂本です! な、何ですか?」

 坂本さんは、慌てて返事をした。

 本当に、おかしな人だな。鈴木陽子さんも、坂本さんを睨み付けている。

「坂本さん、大丈夫ですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「だ、大丈夫です――」

「それじゃあ、坂本さん。あなたが実際に電車内で立っていた場所に、立ってみてください」

「えっと……。僕が立っていたのは、この辺りだった――かな?」

 と、言いながら、僕の左側に立った。

 っていうか、『かな?』って何だ?

 坂本さんは、自分の立っていた場所を覚えていないのか?

「明宏君。あなたの左側に、坂本さんがいたか覚えている?」

「僕の左側ですか? どうだったかな……。正直、隣に誰がいたのかなんて、気にしていなかったので……」

 いたのかな?

 うーん……。思い出せない。

「宇都宮さんは、どうでしょうか?」

「そうですねぇ……。私は、気がつきませんでしたけど。いらっしゃったかしら?」

「坂本さん、二人は覚えていないみたいですが、そこで間違いないですか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「あっ! 勘違いしていました。僕とこの人の間に、もう三人くらいいました」

「――そうですか、分かりました。それじゃあ、新田さん。明宏君と坂本さんの間に、立ってもらえますか? それと、後二人ほど駅員さんをお借りできますか?」

「分かりました」

 新田さんと、理由もよく分からずに連れてこられた二人の男性駅員が、僕と坂本さんの間に立った。


「それじゃあ、鈴木陽子さんの証言通りに、再現をしてみたいと思います」

 うん? 待てよ――

 鈴木陽子さんの証言通りに、再現をするということは――

 僕が、鈴木陽子さんのお尻を、今から触るのか?

 い、いや……。いくら再現のためとはいっても、お尻を触るのは、さすがに……。

 実際には触っていないのに、ここで触ってしまったら、よくないのではないだろうか?

「ですが、その前に。実際に触らせるわけにはいきませんから、鈴木陽子さんの代わりに――」

 明日香さんは、ちゃんと考えていたみたいだ。

 うん? 待てよ――

 鈴木陽子さんの代わりといっても、他に女性は――明日香さんだけだ!

 まさか、仕事中の女性駅員を代わりにっていうことは、あり得ないだろうから(そっちを触るのも、まずいだろう)。

 ということは、僕が明日香さんのお尻を――

 いやいや、やましいことなんて考えていませんから!

 これはあくまでも、探偵助手としての職務の一環として――

 そのとき、明日香さんと一瞬目が合った。

「代わりに、私が――いえ、やっぱり佐々木駅長、お願いできますか?」

「私ですか? 分かりました」

 と、佐々木駅長は頷いた。

 ああ、明日香さんが僕を軽蔑している。

 明日香さんの顔をチラッと見たけど、顔が赤くなっているような気がする。これは、きっと僕のよこしまな考えを読み取って、激怒しているのだろう……。

「それでは、始めていきましょうか」

 こうして、実験がスタートした――


「鈴木さん、お尻を触られたのは、どのタイミングでしたか?」

 と、明日香さんが聞いた。

「確か――電車が駅に停まって、すぐだったと思います。たぶん、ドアが開いたタイミングくらいだったと思います」

「それで、触られた瞬間に、すぐに相手の手を掴んだのね?」

「はい、そうです」

「分かりました。それじゃあ明宏君、佐々木駅長始めますよ。準備は、いいですね?」

 佐々木駅長は、無言で頷いた。

「はい。いつでもOKです」

 僕は、佐々木駅長のお尻に、狙いを定めた。

「はい! 電車が停まった。そして、ドアが開いた。明宏君、お尻を触って。佐々木駅長は、触られたら、すぐに右手で明宏君の手を掴んでください」

 佐々木駅長、失礼します。僕は心の中で言うと、右手で佐々木駅長のお尻を触った。

 こ、これは――思ったよりも、佐々木駅長のお尻は柔らかかった――って、僕は、何を考えているんだ。

 僕がそんなことを考えていると、佐々木駅長の右手が、僕の右手の手首の辺りをしっかりと掴んだ。

「はい! 佐々木駅長、そのまま明宏君の手を離さないでください。掴んだままの状態で、お願いします」

「分かりました」

「みなさん、ご覧いただいた通りです」

 と、明日香さんが、全員の顔を見ながら言った。


「ご覧いただいた通りって――どういうことですか? やっぱり、あなたの助手が犯人だったという、結論が出ただけじゃないんですか?」

 と、新田さんが言った。

「そうです! 間違いなく、その人が犯人です!」

 と、鈴木陽子さんが、僕を指差した。

「あ、あの……、明日香さん――」

 もしかして、これは実験に失敗――いや、大失敗したんじゃ……。

 明日香さんが頭の中で描いていた結果と、実際にやってみた結果が違っていた?

 まさか、明日香さんが推理を失敗するなんて――いや、明日香さんだって、名探偵とはいっても人間だ。失敗する可能性も、ゼロではないだろう。

 しかし、これを失敗したということは――ああ、僕は警察に通報されて、煮るなり焼くなり好きなようにされるのか……。

 どうせ逮捕されるなら、知り合いの警視庁の鞘師さやし警部に逮捕されたい……。

 鞘師警部は、明日香さんの父親の大学時代の後輩の息子で、僕たちの調査にも協力してくれる、とても優しい35歳で身長185センチの、独身イケメン警部だ。

 鞘師警部なら、きっと分かってくれるだろう……。僕が、痴漢なんて卑劣な行為をする人間じゃないっていうことを――


『坂井明宏――痴漢の容疑で、お前を逮捕する』

 鞘師警部は、手錠を取り出した。

『ち、違うんです鞘師警部! 僕は、痴漢なんて絶対にやっていません! 信じてください!』

『明宏君――君は、明日香ちゃんのことだけを、愛していると思っていたよ。まさか、他の女性に、文字通り手を出すとはね。本当に最低な男だよ』

 鞘師警部は、無表情で僕を見つめていた。

『鞘師警部! 僕は、そんなこと――』

『明日香ちゃんのことは、私に任せてくれ。私が、きっと彼女を幸せにしてみせるよ』

 鞘師警部は、笑顔で僕に手錠を掛けた。

『鞘師警部! 待ってください! 鞘師警部! 僕の話を聞いてください! 鞘師警部! 明日香さん、助けてください! 明日香さ――』


 僕が妄想で、この世の終わりのように落ち込んでいると、「桜井さん、説明していただけますか?」と、佐々木駅長が言った。

「まあ、みなさん。少し、落ち着いてください。確かに、明宏君がお尻を触って、その手を佐々木駅長が掴みました――そうですね。この位置関係なら、普通にお尻を触ることは可能でしょうね。私の予想通りです」

「予想通り? つまり、あなたも本当は、自分の助手が犯人だと思っていたのか?」

 と、新田さんが聞いた。

「いいえ、違います。明宏君は、犯人ではありません」

「探偵さん、ちょっとさっきから、あなたの言っていることは、支離滅裂なんだが」

「私が言いたいことは、佐々木駅長の右手です」

「駅長の右手?」

 全員の視線が、佐々木駅長の右手に集中した。

「私の右手が、何か問題でしょうか?」

 と、佐々木駅長が聞いた。

「ええ、大問題です。もっとも、佐々木駅長が悪いわけでは、ありませんけど」

「探偵さん、もったいぶらないで、早く説明してください」

 と、新田さんが言った。

「佐々木駅長、あなたは、明宏君のどこを掴んでいますか?」

「右手ですが」

「右手の、どこですか?」

「手首の辺りです」

 と、佐々木駅長は、僕の右手を掴んだまま上に上げてみせた。

「そうですね。右手の、手首の辺りです。佐々木駅長、どうして手首の辺りを掴んだんでしょうか?」

「どうしてと、言われましても――触られていたのが、お尻ですし。パッと掴んだら、手首の辺りだったというだけで」

「そうなんです。私も、掴むなら手首の辺りになると思うんです。でも、みなさん。よく思い出してみてください。鈴木陽子さんが、明宏君のどこを掴んでいたのかを」

 全員の視線が、今度は鈴木陽子さんに集中した。

「そう言われてみれば、確か右手のかなり上の方を、掴んでおられたような気がします」

 と、佐々木駅長が言った。

「明宏君、どの辺りを掴まれていた?」

「右手の、肘の辺りです。ずっと同じところを強く掴まれていたので、まだ少し痛いです」

 と、僕は、鈴木陽子さんに掴まれていた辺りを撫でた。

「鈴木さん。どうして、そんなに上の方を掴んだんでしょうか? かなり、掴みにくいと思うんですが」

「そ、それは――」

 と、鈴木陽子さんは、少し動揺している。

「それは、なんでしょうか?」

「あ、あの……。思い出しました。最初に手首を掴んでから、肘の辺りを掴みなおしたんです」

「本当ですか? あなた、明宏君の手を掴んでから、一度も離さなかったんですよね? そもそも、あなたは本当に、誰かにお尻を触られたんでしょうか?」

 えっ!? どういうことだ?

 明日香さんは、この痴漢騒ぎ事態が、狂言だったとでも言うんだろうか?

「…………」

 鈴木陽子さんは、黙ってしまった。

 そのときだった――

 突然、誰かが叫んだ。

「おい! 待て! そいつ、逃げようとしてるぞ!」

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