第2話

「やっぱり、触っているじゃないか! 往生際が悪いぞ! さあ大人しく、事務所に来い! 今すぐに、警察を呼んでやるからな!」

 と、若い駅員が、僕の腕を掴んだ。

「そ、そんな……。ちょっ、ちょっと、待ってください! 嘘ですっ! 僕は、絶対に触っていません!」

「みんな、最初は触っていないって言うんだよ! 目撃者が、いるんだぞ! お前は被害者だけでなく、目撃者も嘘つきだと言うのか!」

「ぼ、僕は、嘘なんてついていません。本当に、見ました」

 と、目撃者の男性が、女の子の方をチラチラ見ながら言った。

 ど、どうして、この男性は、そんな嘘を――

「ちょっと、お待ちください」

 そのとき、落ち着いた優しい声で、僕たちの間に割って入った一人の人物がいた。

「その方は、痴漢なんてしていませんよ。私が、保証します」

 その人物は――

「私、宇都宮うつのみやと、申します。その方は、右手でつり革を持っていましたし、左手は私の差し上げた飴玉を持っていましたから」

 その人物は、僕が座席を譲った、あの女性だった。

「それは、本当ですか?」

 と、年配の駅員が聞いた。

「ええ、本当ですよ。その方は、私の目の前に立っていらっしゃったので、間違いありませんよ」

「わざわざ、下りて来てくれたんですか? ありがとうございます」

 僕は、思わず、宇都宮さんに抱きつきそうになった。

「この方は、私に座席を譲ってくださったんです。こんなにいい人が、痴漢なんて卑猥なことを、するはずがありません」

 僕は、涙が溢れそうになってきた。

「いや、いい人そうだろうが探偵だろうが、裏では悪人なんて人はいますよ」

 と、若い駅員が言った。

 この若い駅員は、どうしても僕を痴漢にしたいのか? そんな悪徳探偵と、僕を一緒にしないでもらいたい。

「証言の違う目撃者が二人ですか、これは困りましたね。どちらが、本当なのか?」

 と、年配の駅員が、二人の目撃者を交互に見ながら言った。

「駅長、私は若い人の目撃証言の方が、信用できると思いますが。被害者の証言とも、一致していますし」

 と、若い駅員が言った。

 どうやら、年配の駅員は、この駅の駅長のようだ。

「私、80近いですけど、まだまだボケていませんよ」

 と、宇都宮さんが言った。

 確かに、杖もついていないし、言葉もはっきりしている。耳も、悪くないようだ。

 しかし、80近いとは驚きだ。見た目から、70歳前後くらいかと思っていた。

「あ、あの……。電車の中に、防犯カメラは付いていないんですか?」

 と、僕は聞いた。

「はい。残念ですが、電車内には防犯カメラはありません」

 と、駅長が言った。

「駅長、やっぱり警察を呼びましょう。警察に調べてもらったほうが、確実ですよ」

 と、若い駅員が言った。

「――そうだな、仕方がないか」

 と、駅長が言ったときだった。

 僕が、よく知っている人の声が聞こえてきたのは――


「駅長さん。ちょっと、待っていただけますか?」

 僕の背後から、女性の声が聞こえた。

「目撃者の方の証言と、こちらの被害者の証言――そして、そっちのの証言を、今から検証してみませんか?」

 その声の主は――

「私、探偵の桜井明日香さくらいあすかと申します」

「あ、明日香さん!? ど、どうして、こんなところにいるんですか?」

 そこにいたのは、僕の雇い主である、探偵の桜井明日香さんだった。

 僕が明日香さんの事務所で働いているのは、以前、僕が事件に巻き込まれたときに、明日香さんに助けられたのがきっかけだ。

 その後、何故か明日香さんにスカウトされて、明日香さんの助手になったのだ。

 明日香さんは年齢不詳で、僕が聞いても頑なに教えてくれないのだ。見た目は20代の後半くらいだが、実際のところは分からない。30代前半の兄と21歳の妹がいるので、その間であることは間違いないのだが。

 そして、明日香さんの身長は、どう見ても169センチの僕よりも高いと思うのだが、何故か168センチくらいだと言い張っている。

 僕は、そんな明日香さんのことが好きで、付き合いたいと思っているけれど、明日香さんには、残念ながらそんな気はないようだ。

 明日香さんは、探偵事務所のビルの上の階に住んでいるのに、どうしてこんな時間に、駅にいるんだろう?

「ちょっと昨日の夜から出掛けていて、明宏君と同じ電車で帰ってきたところよ。私は、明宏君の隣の車両にいたわ。それで電車を下りたとたんに、なにやらホームで騒ぎが始まったじゃない。何事かと思ってずっと見ていたら、私の助手が痴漢で捕まっているじゃない。これは雇い主として、責任を取らないとね」

「あ、明日香さん、ずっと見ていたんですか? 見ていたんなら、もっと早く助けに来てくださいよ……。明日香さん! 僕は、痴漢なんて絶対にやっていません! 本当です! 信じてください!」

 僕は、必死に明日香さんに訴えた。

「明日香さん! 僕の目を、見てください! 僕が嘘をついているように、見えますか? これが、嘘をついている人の目ですか!!」

 明日香さんは、凄腕の名探偵だ。今まで、何人もの犯罪者を見てきている。

 目は口ほどに物を言う――僕の目を見れば、明日香さんなら、きっと分かってくれるはずだ。


 僕は数秒間、明日香さんと見つめあった――

 か、かわいい。僕はこんなときに不謹慎ながら、照れてしまった。

「明宏君。悪いけど、あなたの目は、よく分からないわ」

 し、しまった……。僕はこんなときに、なんてことを……。

「さっきから、何を二人でこそこそ話しているんですか?」

 と、若い駅員が言った。

「これは、大変失礼しました。私、この容疑者の坂井明宏の雇い主の桜井明日香です」

 明日香さんは、被害者と言い張る女性と、駅長に名刺を渡した。

「私は、この駅の駅長の、佐々木ささきと申します。探偵の桜井さんと言いますと、この駅の近くの探偵事務所の方ですね」

「はい、そうです。この容疑者は、私の助手です。どうでしょうか、警察を呼ぶ前に、私に話を聞かせてもらえないでしょうか? その結果、私の助手が犯人の可能性が高いと判断されたら、警察に通報しようが、煮るなり焼くなり、好きなようにしていただいて構いませんので」

「そうですか……。分かりました」

 と、佐々木駅長は頷いた。

「駅長、いいんですか? すぐに、警察を呼んだほうが――」

 と、若い駅員が言った。

「まあ、いいじゃないか新田にった君。この人たちは、絶対に逃げたりしないよ」

 と、佐々木駅長は、僕たちを見ながら言った。

 若い駅員は、新田というようだ。

 実は逃げようと思ったことは、駅長の為にも、口が裂けても言えないな。

「被害者の方も、よろしいでしょうか?」

「え、ええ……。分かりました」

 被害者の女性は、少し不満そうな様子だったけど、この場の雰囲気に流されたのか、しぶしぶ頷いた。

「あなた、お名前と年齢は?」

 と、明日香さんが、不意に被害者の女性に聞いた。

「えっ? あっ、鈴木陽子すずきようこ、24歳です」

「目撃者の、あなたは?」

 明日香さんは続けざまに、目撃者の男性にも聞いた。

「――えっ? ぼ、僕の、何ですか?」

「お名前です」

「な、名前……」

 男性は、何故かチラチラと鈴木陽子さんの顔を見ている。

 そういえば、鈴木陽子さんは、目撃者の男性から一定の距離を取って、近付かないようにしているように見える。

 僕の気のせいかもしれないけれど。

「あ、あの……。さ、坂本さかもとです」

「鈴木陽子さんと、坂本さんね。それじゃあ、始めましょうか。でも、その前に場所を移動しませんか? ここだと、かなり目立ちますから」

 確かに、大勢の人たちが、何事かとこちらを見ている。

「分かりました。では、こちらへどうぞ」

 と、佐々木駅長が言った。


 僕たちは、佐々木駅長に連れられて、事務所へ移動した。他の駅員たちが、何事かとこちらを見たが、佐々木駅長の姿を見ると、みんな自分の仕事に戻った。

「それじゃあ、明宏君。いったい何があったのか、一から説明してくれるかしら」

「はい、分かりました――」

 僕は、今日の朝から今までの出来事を、事細かに話した。

 実際に起こったことから、僕が思ったことまで、全部話した。ズボンのベルトが壊れたことも、一応話しておいた。

「そう、分かったわ」

 明日香さんは僕の話を聞き終えると、被害者の鈴木陽子さん、目撃者の坂本さん、宇都宮さん、そして、佐々木駅長、新田さんの順に話を聞いていった。

「なるほど、分かりました」

 と、明日香さんは頷いた。

「桜井さん、何か分かりましたか?」

 と、佐々木駅長が聞いた。

「ええ、分かりました」

 と、明日香さんは頷くと、全員の顔を見渡しながら言った。

「犯人は、明宏君ではありません」

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