第1話
僕はアパートの外に出て、玄関の鍵を掛けると、薄暗い空を見上げた。
今日は、あんまり天気もよくないな。まあ、曇ってはいるけど、天気予報では雨が降るとは言っていなかった。傘は持って行かなくても、おそらく大丈夫だろう。
街は冬も近づいてきて、だいぶん寒くなってきた。
僕は、駅への道を急いだ。
駅に到着すると、僕はいつもの時間の電車に乗った。
僕は、一番後ろの車両の、一番後方の入り口から乗った。改札口から一番遠いので、多少だけど人が少ないような気がする。
まあ、そうは言っても、この車両も大勢の乗客がいるのだが。しかし、車内を移動できないほどではない。
僕は電車に乗ると、いつものように出入り口付近に立っていた。奥の方まで行くと、電車から下りられなくなるんじゃないかと不安になる(実際には、そんなことはないとは思うが)。
だから、基本的には出入り口付近に立つことにしていた。
僕の周囲には、サラリーマンと思われる人々が大勢いた。やはりこの時間帯は、通勤中のサラリーマンが多い。
ふと、車両の中ほどに目をやると、この満員電車に不釣り合いな格好をした女の子に目が止まった。
その女の子は、20代の前半くらいだろうか? 10代ではなさそうだが。
今の季節には、あまりふさわしくないような薄着で、少し短いスカートを履いて生足を出していた。メイクも、ちょっと派手だな。
どう見ても、通勤中のOLではなさそうだが――かといって、通学中の学生でもなさそうだ。
本当に、東京には、いろいろな人がいるな。
僕も、鳥取県から上京して数年経つけど、いまだに驚くことも多い。
しかし、あんな格好では、暖かい電車の中はともかく、下りたら寒いんじゃないだろうか? それよりも、痴漢にでも襲われそうな格好だな。
その女の子の周囲にいる男性たちは、痴漢と間違われないように、両手でつり革を握っている。
カバンを片手に持っている人も、片手でつり革を握り、もう片手にはカバンを握っていますよと周囲にアピールするかのように、ちょっとカバンを持つ手を上げているような人もいた。
そのとき、ほんの一瞬だが、女の子と目が合ったような気がした。
あまりじろじろと見ているのも、よくないな。変な誤解をされるかもしれない。
僕は、視線を窓の外に向けた。
そういえば、何日か前にも、同じようなところに乗っていた女の子と、目が合ったっけ。まあ、そのときの女の子とは、全然服装も雰囲気も違うけどね。
そのとき、電車が次の駅に停まった。
電車が駅に停まると、ちょうど僕の目の前の席が空いた。
これは、ラッキーだ。僕は、その席に腰を下ろした。
そして、電車は再び走り出した。
僕は先ほどの女の子がいた位置に、なんとなく視線を向けてみたけど、女の子の姿は見えなかった――というか、僕の目線が下がってしまったので、見えていないだけで、まだいるのかもしれないけど。
まあ、そんなことは、どうでもいいか。
そうこうしている間に、僕が下りる一つ前の駅に、電車が停まった。
その駅から、通勤中のサラリーマンに混じって、一人のお年寄りの女性が乗ってきた。
僕は一瞬迷ったけど、「どうぞ、座ってください」と、お年寄りに席を譲った。
「どうも、ありがとうございます」
と、お年寄りは、僕に笑顔で頭を下げて席に座った。
ちなみに、僕が席を譲るのを一瞬迷った理由は、決して立つのが嫌だったからではない。どうせ、次の駅には、あっという間に着くのだ。
僕が迷ったのは、以前、同じようにお年寄りの男性に席を譲ろうとしたら、「わしは、まだ若者に席を譲られるほど、落ちぶれてはおらん!」と、怒鳴りつけられたことがあったのだ。
こちらは、ただ善意で席を譲ろうと思っただけで、落ちぶれるとか、いくらなんでも考えすぎだろうと思ったのだけど――それ以来、席を譲ることに、違った意味で勇気がいるのだ。
まあ、今回は女性だし、怒鳴りつけられることなんてないだろうと、一瞬考えただけだ。
「お兄さん。お礼に、よかったら飴でもなめませんか?」
と、そのお年寄りが、持っていた袋から飴玉を数個取り出して、僕に差し出した。
「いえいえ、そんな。気にしないでください」
「まあ、若い人は遠慮なさらないで。たくさん、ありますから」
なんていうやり取りを、2、3回繰り返した後、「そうですか? 分かりました。それじゃあ、いただきます」と、僕は右手でつり革を掴んでいたので、左手で飴玉を受け取って、ズボンのポケットにしまった。
あんまり断るのも、失礼だしね。
そんなことをしている間に、電車は僕の下りる駅に近づき、だんだん速度を落としていった。
「それじゃあ、僕ここで下りますんで。飴玉、ありがとうございました」
と、僕は、頭を下げた。
そして、電車が駅に停まった瞬間に、それは起こったのだ。
ちょっと嫌なことがあっただけでは、すまないことが――
「キャーッ!!」
電車のドアが開いて、僕がつり革を離すと同時に、僕の近くで若い女性の悲鳴が聞こえてきた。
な、なんだ?
「痴漢よっ!!」
何!? 痴漢だって?
悲鳴は、僕のすぐ近くで聞こえたようだ。探偵助手として、これは見過ごすわけにはいかない。
そんなことをする奴は、どこのどいつだ? 僕が取っ捕まえて、警察につきだしてやる!!
「この人、痴漢ですっ!」
再び若い女性の声が聞こえて、一人の男性の右腕が捕まれた。
そいつが、犯人かっ!
僕が、警察につきだしてやるぞ!(僕が、捕まえたわけではないが)
――そのとき僕は、周囲の視線に気づいた。
みんな、軽蔑するような目で、こちらを見ている。
うん? これは――みんな僕の方を見ているのか?
そして、僕は右腕の違和感に気がついた。
「えっ?」
僕の右腕の真ん中辺りを、女性と思われる右手が掴んでいた。
うん? 僕を、アイドルかなにかと間違えているのかな?
握手をするんだったら、腕じゃなくて――って、ま、まさか……。
僕は、急に背筋が寒くなるのを感じた。
そして、女性がもう一度叫んだ。
「この人、痴漢ですっ!」
僕の右腕を掴んで睨んでいるのは、さっきの女の子だった。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 僕は、痴漢なんて――」
僕は、慌てて否定した。
冗談じゃない! どうして、僕が痴漢なんか――
そのとき、僕の近くに立っていた誰かが叫んだ。
「見ろ! こいつ、ズボンのベルトを外しているぞ! ズボンを脱いで、変なことをするつもりだったんだろう!」
その一言に、周囲の乗客(特に、女性客)はドン引きだ。
「い、いえ……、違います! ベルトは外したんじゃなくて、最初からしていなかっただけで――」
僕は、慌てて説明した。
「なんだと? 最初から、やる気満々だったんだな?」
どうやら、説明が逆効果だったようだ。
ああ……、どうすればいいんだ?
みんな、隣の人とひそひそ話しながら、僕の方を見ている。
「あなた、下りなさいよっ! 駅員に、つきだしてやる!」
と、僕はそのまま、女の子に電車から下ろされたのだった――
これは、夢か?
そ、そうだ、絶対に夢に違いない……。目を閉じて開ければ、ここは僕のアパートだ――
僕の目に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの壁だった――ということはなく、こちらも見慣れた、僕がいつも下りる駅のホームだった。
さっきの女の子が、右手で僕の右腕を掴んだまま睨んでいた。同じところをずっと掴まれているので、だんだん痛くなってきた。
「ちょっ、ちょっと待ってください! 誤解ですって。僕は、痴漢なんてやってませんから……」
「嘘をついても、無駄よ。あなたの右手が、私のお尻を触っているところを、私も右手で、パッと掴んだんだから!」
「そ、そんな……」
そのとき、騒ぎを聞きつけたのか、駅員が数人走って来るのが見えた。
どうすればいいんだ?
そ、そうだ! 確か、テレビを見ていたときに弁護士か誰かが、こういうときは全力で逃げろと言っていたような気がする。
に、逃げるか?
しかし、何もやっていないのに逃げて、もし捕まったら? 逆に、不利になるんじゃないだろうか?
そんなことを考えている間に、駅員に囲まれてしまった。
「どうかされましたか?」
一人の年配の駅員が、女の子に聞いた。
「駅長さん、この人、痴漢です!」
と、女の子が、僕を睨みながら言った。
「い、いえ、違います! 僕は、痴漢なんてやってません! この人の、勘違いです!」
僕は、必死に全力で否定した。そんなに暑くないのに、僕は汗びっしょりだ。
「勘違いじゃ、ありません。間違いなく、この人です。私、触られてすぐに、この人の腕を掴んで、ずっと離していませんから」
と、女の子は、駅員に、僕の右腕を掴んだままの状態を見せた。
「嘘ですっ! 僕は、つり革に捕まっていて――痴漢なんて、絶対にやっていません!」
「犯人はな、みんなそうやって否定するんだよ。事務所に来い! すぐに、警察を呼んでやる!」
と、若い(僕と、同じくらいだろうか)駅員が、僕の胸ぐらを掴んだ。
その拍子に、ようやく女の子が手を離した。
終わった……。事務所に連れていかれたら終わりだと、テレビか何かで聞いたことがある。
「君、お客様に、そんなことをするんじゃない。手を、離しなさい」
と、年配の駅員が、若い駅員に言った。
「しかし、痴漢ですよ」
「まだ、証拠がないだろう?」
「でも、女の子が嘘をつくわけないですよ」
いや、嘘をつく女の子が目の前にいるんですよ、駅員さん。
「私、嘘なんてついていません」
と、女の子が言った。
年配の駅員は、じっと女の子の顔を見ていたが、「――いいから、手を離しなさい」と、若い駅員に言った。
「分かりました」
若い駅員は、不満そうな顔で手を離した。
「どなたか、目撃者がいらっしゃれば――」
と、年配の駅員が言ったときだった。
「す、すみません。僕、見ていたんですけど――」
と、20代前半か半ばくらいの若い男性が、話しかけてきた。
助かった! 目撃者が、いたんだ。これで、僕の無実が証明されるだろう。
僕は、ほっと一息ついた。
しかし、その目撃者の男性が発した言葉は、僕の淡い期待を裏切る、信じられない言葉だった――
「ぼ、僕、見ました。その男の人が、彼女のお尻を触っているところを――」
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