三十曲目『Angraecum』
シランのための、ラストライブが幕を開ける。
サクヤが奏でる美しい旋律のピアノから始まった演奏。緊張した面もちのやよいは目を閉じてゆっくりと深呼吸してから、イントロが終わるのと同時に歌い始めた。
「陽だまりのような 温もりを 残してキミは 飛び立つの? 果てしなく遠い 世界に向かって キミは一人きり 羽を残して」
歌声が優しく、切なく紡がれる。ピアノの旋律とやよいの囁くような歌声が裏庭を包み込んでいく。
「自由を求める 翼できっと キミは旅に出る ボクを置き去って」
Bメロの終わりでウォレスのドラムと真紅郎のベース、俺のギターが入っていった。
ドラムのゆったりとしたリズムと沈む込むようなベース、アコギの切ない音色が演奏を彩っていく。
凪の海が動き出したように、一陣の風が吹くように……サビに向かって盛り上がっていく演奏とともにやよいは静かに瞼を開き、遠くを見つめてマイクに口を近づけた。
「出逢ったことは 忘れないよ 願いは遙か キミのもとへと」
曲に込められた想いを。歌詞に
やよいの歌声と俺たちの演奏が、水面に落とした一滴の雫が波紋を広げるように裏庭に……世界中に広がっていくのを感じた。
「出逢えたことは 忘れないよ 歌に祈りを キミまで届け」
音楽は<祈り>だと思う。<希望>と言ってもいい。
俺がやよいに言った言葉通り、
そして、俺たちの演奏が止まり……やよい一人だけの歌声が紡がれる。
「淡雪のような 儚さを 咲かせてキミは 散り行くの? 雪に咲く花に 自由を求めて キミは一輪の 花を
やよいが苦しそうに胸元を掴み、握りしめる。
今すぐにでも泣き崩れたいだろう。泣き叫びたいだろう。
それでもやよいは気丈に振る舞い、涙を浮かばせながら歌い続ける。やよいを応援するように、俺たちは演奏を始めた。
「希望の光を 探してずっと キミは走り出す ボクに背を向けて」
少し、やよいの声が震えていた。だけど、俺たちは気にせず演奏を続ける。
抑えきれない感情が、押し止められない熱情が漏れ出しているだけだ。演奏を止めるほどじゃない。
むしろ、背中を押す。頑張れ、やよい。届けるんだ、シランに。全てをーー。
「出逢ったことは
二番のサビが終わり、Cメロが始まる。
演奏はより一層熱が入り、下から押し上げるように曲を盛り上げていく。
俺たちの目の前にいるシランは、笑っていた。優しく、慈しむように、やよいを見守っていた。
やよいとシランが視線を交わす。言葉はない。それでも、二人は通じ合っているように見えた。
歌を通して、二人は会話している。その証拠に、二人は同時に笑い合っていた。
「空に憧れる 鳥のような 雪の上に咲く 花のような 強く儚い キミの笑顔に また出逢えると 信じて ボクは」
やよいは走り抜けるように、感情を込めてCメロの歌詞を歌う。シランに向かって手を伸ばすと、シランも同じように手を伸ばした。
まるで、旅立とうとしているシランを必死に追いかけるように。置き去りにしてしまうやよいに別れを告げるように。
決して届くことはない距離で手を伸ばし続ける二人を見て、視界がぼやけていった。
俺だけじゃない。真紅郎はポロポロと涙を流し、ウォレスは堪えるように唇を噛み、サクヤは静かに涙をこぼしていた。
シランの隣に立つライラック博士は目元を手で抑え、隠しきれない涙が絶え間なく頬を伝っていく。ジーロさんは膝を着き、拳を地面に押し当てながら声を殺して泣いていた。
二人を引き裂く運命に怒り、自分の無力さを悔やみ、やよいの真っ直ぐな想いとシランの全てを受け入れている覚悟に、俺たちは涙していた。
だけど、二人は違っていた。
二人は、笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに。音楽を心から楽しんでいた。
二人に後悔はない。いや、後悔を残さないようにしているんだ。
だから、笑っている。悲しさも悔しさも全て飲み込んで、笑顔で別れるために。
「出逢えたことは 忘れたくない 想いを込めて ボクは唄うよ」
ラストのサビが始まろうとしている。
これが、本当の最後。やよいとシランの、別れの時間が近づいていた。
止めたくない。このまま時間が止まって欲しいとさえ思う。でも、時は非情にも針を止めることはない。
演奏の手を止めないまま、ラストのサビに向かっていく。
ーーその瞬間、俺たちの足下に魔法陣が広がっていった。
魔法陣は裏庭全体に広がるように展開され、光り始める。
ふわりふわりとシャボン玉のような淡い光が漂い、空へと向かっていった。
無意識に俺たちはライブ魔法を使っていたみたいだ。漂う淡い光の中、シランの体にまとわりついていた黒いモヤが徐々に薄れていく。
縛り付けていた呪縛が光の塵となって消えていくと……苦しみから解放されたシランは、静かに微笑んだ。
その時、ふわりと優しい風が吹いた。やよいとシランが初めて出逢った時の、暖かで柔らかな風が。
風は裏庭に咲く花を撫で、風に乗って花びらが舞い踊る。
ひらりひらりと舞う花びらと淡い光が漂う幻想的な風景の中、やよいもシランに向かって微笑み、緩んだ頬に一筋の雫が流れた。
「出逢ったことは 忘れないよ 願いは彼方 キミのもとへと」
シランは淡い光を壊れ物を扱うように優しく手で触れ、静かに胸に抱えた。大事な物を仕舞い込むように、大切な宝物を離さないように、しっかりと。
そして、慈愛に満ちた笑みを浮かべていたシランの瞼が、ゆっくりと落ちていく。
「出逢えたことは 宝物だよ 歌に願いを キミへ祈りを」
シランは車椅子に力なく寄りかかり、空を見上げた。
空へと向かって消えていく淡い光とひらりと落ちてくる花びらを見つめ、ゆっくりと息を吐く。
ーーありがとう。
たしかにシランは、そう呟いた。
小さくても、はっきりとシランの声は俺たちに届いていた。
何かを察したようにやよいは目を見開き、すぐにシランに駆け寄ろうとしている。
だけどやよいはその場に踏みとどまり、腕で目を擦ると顔を上げた。
最後まで歌うことを止めずに、笑みを浮かべたまま……。
「ーーAngraecum」
最後のフレーズを、口にした。
演奏が静かにフェードアウトしていく。魔法陣が徐々に光を失い、演奏が止まるのと同時に消えた。
静寂が包み込んでいく。拍手はない、歓声もない。
でも俺たちには聞こえていた。小さな手を一生懸命に叩き、目を輝かせて喜んでいるような、拍手が。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をしていたやよいはゆっくりとした足取りで歩き出し、シランの前に立ち止まった。
シランは眠るように目を閉じ、優しく頬を緩ませながらーー息を引き取っていた。
冷たくなったシランの手を握ると、やよいの頬に一筋の光が流れる。
「ありがとう、シラン……」
その言葉は優しい風に乗って流れていく。
緑白色の花弁が空を舞い、一羽の白い鳥が飛び立った。
鳥はどこか遠くへと飛んでいき、姿が見えなくなる。すると、一枚の花びらがヒラリヒラリと落ちていき、シランの手を握っているやよいの手に着地した。
それはアングレカムの花びら。
花言葉は<祈り>……そして、<いつまでもあなたと一緒>。
たった一人の女の子に贈った俺たちのライブは、静かに幕を閉じた。
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