怪物・トロゥマ

 世界は巡り巡って、「私」とあいつは隣同士でもう歩いていない。「私」は何故か不信感を彼に募らせているらしく、後ろを苦しそうに歩く彼に助けの手を差し伸べようとしない。睨んだり疑いの目を向けたり。

 ――どうして?

 すぐにでも「私」の肩を引っ掴んで揺さぶってやりたかった。

 でもそんな勇気はなくて、そもそも出来る気がしなくて。

 もどかしい思いだけが募る。


 そして、雪が薄く溶け残る並木道に辿り着いた。向こうの方に白い光が充満している場所があり、二人は吸い込まれるようにそこへ歩を進めていく。

 足が止まった――いや、すくんだ。

 なんでか、この後とんでもない事が起きる気がしてそこに行く事が妙にはばかられた。

 雨がしとしと降ってきた。

『ゆりさん。行かないの? 行かないと記憶の追跡が途絶えてしまうよ』

「……」

『ゆりさん』

「……」

『世界が背後から消え始めているよ』

「……」

『早くしないと!』

 背中の方からしゅわしゅわと音が聞こえてきた。

 焦りはある。早くしないと無駄になる事、早くしないと途絶えてしまう事、見ないと罪滅ぼしが出来ないような気がする事。

 でも、足が……。


『……ッ! ゆりさん!』


 背中が強く押された。

「わっ!」

 白い光の中に飛び込んだ。そこには向かい合った少年少女。

 苦しそうな顔をした少年。

 ワンピースの裾をきつく握る少女。

 やまない雨。

「あ、ああ……」


〔ゆり、話があるんだ〕


〔実はな別れなくちゃならなくなってさ〕


 あ、あああ……。

 世界がぐるぐる回りだす。教室での先生のすまなそうな顔が、クラスメートの興味や悲しみの目玉が壁に地面に空にぎょろりぎょろりと現れる。

〔え、どういう事〕


(――さんは……)


〔私の事はもうどうでも良いんだ! そっか、最近なんかそっけなかったのってそういう事だったんだ。へー、そうなんだ!〕


(親御さんの都合で一か月後に……)


〔違う! そうじゃなくって、もう会えなくなるっていうか、その……〕


(レーヴに引っ越すことになりました)


〔晶太なんか大嫌い!〕



「――晶太!」



 「あいつの名前」を叫んだ瞬間この空間をびっしり覆う目玉が黒く巨大な醜い躰を持って私の眼前に立ち塞がった。

 それが何というか、凄く怖かった。

(引っ越し……事情……親御さん……)

 化け物は時に高い、時に低い声で騒ぎながら私にどんどんと迫って来た。

「あ、あわわ……」

 化け物の血のように真っ赤な大きな口がばっくりと開く。

 生温かい吐息を感じた。

 ――食べられる!

 そう感じた時、奴は確かに言ってた。


(ワタシノセイデ、ショウタノキモチ、フミニジッチャッタ)


 どくん、どくん。


 その台詞は私の胸の奥をぐじゃりと掻き回し、不快感が一気に込み上げてきた。

 その台詞は、その台詞だけは……!


 どくん、どくん。


 吐き気と恐怖と罪悪感と、全てが連なってのしかかり、それは脂汗と共に体中から流れ出した。

 涙がとめどなく溢れて喉の奥から声を絞り出し、助けを求めた。

「誰か、誰か助けて! やだ、やだ!」


 どくん、どくん!


 化け物の無数の目玉がぬらぬら動いて私を見つめた。

 あの時教室で脳みそが冷えていくのを痛感しながら感じた視線にそっくりで……。

「誰か! 誰か! 誰かああ!」

 化け物はどんどん膨張して空を黒く染め上げる。私なんかちっぽけで、その巨大な恐怖に押し潰されそうになる。


 ばく、ばく、ばく。


「は、はわわ……」

 もう限界……!


 ばく、ばく、ばく!


「い、いやあああああ!」

 我慢できなくなって叫んだ――


 ――その時だった。


『Praesidio!』


 ズガアアン!

 突然黒い影が私と化け物の間に滑り込み、呪文を唱えながら青白い閃光をその「右手」から放った。

 その瞬間化け物が世界ごと弾け、青白い光がまた私達の周りを包んだ。

「キャッ!」

『僕につかまって!』

 世界が向こうの方に流れながら崩れていく。

 あ、あああ。


〔その記憶、僕が隠してあげようか〕


 崩れ去ろうとする世界の奥でひっそりとこんな言葉が聞こえた気がした。



* * *



 私達は記憶の宝石館に強制転送されていた。

 肩で息をする。目の前の人物の右手からは煙が出ており、その手のひらには何か紋様のような物が青白い光を弱々しく放っていた。

「危なかったね、ゆりさん」

「あ、ああ、あ……」

 黒い影は子どものような可愛らしい顔からは想像できないような何とも頼もしい、凛とした表情でこちらを見た。

 切りそろえた黒髪、黒耀石の瞳、整った顔立ち、学ラン、何よりいたずらっ子のような不敵な微笑み。

 助けに来てくれたのは黒耀くんだった。安心感がやばい。

「こ、黒耀くん……!」

「よしよし、怖かったね」

 黒耀くんは私を優しく抱きしめて頭を静かに撫でてくれた。

 少しの間、私は感謝の言葉と涙を止める事が出来なかった。それでも黒耀くんはそれが収まるまでずっと傍にいてくれた。

 私の嗚咽がようやく収まって来た時、彼がぼそりと呟いた。

「やはり、トロゥマになっていたんだね」

「ト、トロ……?」

「ああ、君達にはトラウマの方が通じるかな」

 トラウマ? あいつの名前が、トラウマ? どうして?

「ほら、ご覧。これが君が探したがってた記憶だよ」

 彼は私の目の前にちんみりと置かれている宝石箱のような箱を指差した。

「パンドラの匣。君も知ってるだろう? トラウマと化した記憶は出来るだけ思い出せないようにこの匣の中にしまわれるんだ。君の思い出したかった記憶はこの中にあった」

 黒耀くんが箱の中から黒いきらきら輝く宝石を取り出した。

 そのまますぐそこにあった映写機に宝石を置く。壁は遠いので床に映像を映し出す。


『永井晶太』


 あいつの名前が浮かび上がった。

「オブシディアン。この記憶はオブシディアンを選び、まとった。天然ガラスで割れやすく、コツさえつかめば鹿の角なんかでも簡単に割ることが出来る」

「……何が言いたいの?」

「繊細な記憶になっていたという事だよ。あの時、貴女は最近挙動のおかしい彼に少し疑問を抱いていた。それでも幼馴染である彼を疑いの目で見るのは嫌だった為にいつも通り接していた。しかしそれは後々貴女を後悔させる事になってしまう。何故ならあの時彼は、ある悩み――彼のレーヴへの引っ越しを貴女に伝えるべきかどうか迷っていたから」

「……」

 黒耀くんが映写機の映像を切り替える。そこには花火大会での二人の後姿が映されていた。

「しかし、彼は貴女に別れを切り出す事で二人の仲が壊れてしまう事を酷く恐れた。日々悩み、苦しんだ。彼は優しかった」

 目の前がぼやけてきた。花火がぼうっとした火の玉になっていく。

「しかし貴女は彼の苦悩を知る事が出来なかった。その為本来の彼であればあり得ない曖昧な返事や態度に遂に疑問を抱くようになる。他に好きな子が出来たのではないか。嫉妬心が芽生え、日々膨張していった。お互いを幼い頃から知っているが故の悲しいすれ違いだった」

 次の映像になる。黒板を背にひどく落ち込むあいつとすまなそうな顔で喋る先生の姿。生徒達のうごうごとうごめく黒光りする頭も見えた。

「それでも伝えなければいけない時は来る。そこで彼は貴女にお別れの意味も込めて説明しなければならないと思った。そうして呼び出されたのがあの並木道の向こうの公園。そして勘違いの連鎖が不幸を呼んだ。――ここは言わない方が良い?」

 私はがくんと頷いた。

 黒耀くんは静かに眺めていた。

「貴女が勘違いにやっと気づいたのはざわつく教室の中、先生の話を聞いている時だった。別れは浮気によるものでは無かった事、彼はそれを伝える為に物凄く苦悩した事。全てを悟って貴女は罪の意識を被った。そしてちゃんとした別れを結局最後まで告げる事は出来ず、彼は旅立っていってしまった」

 映写機の映像が黒くなる。

 これで、終わり。

「これがゆりさんが思い出したかった記憶、そしてトラウマの全て。ここからはお客である貴女に選択をしてもらいたいんです」

「……」

「お付き合い願えますか」

 私は少し時間を置いてから、ゆっくり頷いた。

「ありがとうございます」

 黒耀くんは微笑みながらそう言った。


「記憶達はこの店の中でしか宝石をまとう事は出来ません。何故なら元々実体として存在できる物では無いからです。しかし実体として扱う事が出来るこの店ではこの宝石を使って記憶の『永久保存』か『永久削除』、もしくは『今まで通りしまっておく』の三種類の選択をする事が出来ます」

「永久、保存?」

「ええ。保存しておきたいのなら宝石を体内に取り込めば良い。記憶は一度宝石ごと体内に取り込まれてしまえば宝石から抜け出せないので永遠に忘れる事はありません。しかしそれは日々トラウマの記憶と共に生きなければならないという事。精神的にかなりきつい生活が待っているはず」

 喉がゴクリと鳴った。

「それとは逆に永久消去という道もあります。これは逆に宝石を砕く事で完了します。中に入っている記憶が霧散する為ですね。完全に忘れてこの話は無かった事にする……これはある意味で幸せですが、もう二度と思い出すことは叶いません。そのどちらもしないで、今知っただけにするという道も勿論あります。――どうします?」

 黒耀くんが映写機に置いていた私のトラウマを私の目の前に置いた。

 何の悪気もないオブシディアンはぴかぴか光って、まるで純粋無垢な小学生の幼稚さを露呈しているみたいだった。

 酷く、迷った。

 苦しくて苦しくて、目をつむりたくなるようなトラウマ。覚えていたいけど、覚えていたくもない。扱いが難しい小さな時限爆弾はいつまでも決められない私を嘲笑うように、神様のようにちょーんといつまでもそこに座っていた。

「迷ってる?」

 暫くして黒耀くんが尋ねた。

 私はまたがくんと頷いた。

「……、……じゃあ僕が」

「え?」

「……いや、何でもない」

「ん?」

「じゃなくて、代わりに良いものを見せてあげようか」

「良いもの?」

「そう。頬を涙で濡らしたお嬢さんに良いもの見せてあげる」

 黒耀くんが私の頬の涙を手でそっと拭きながらポケットから取り出した黄緑の宝石を映写機に置いた。

「これは?」

「まあ見てなって。――ここは沢山の人の記憶が集う場所。本来は忘れている記憶がここに集うのだけどあまりに思いが強いと僕のポケットにこうやって潜り込んでくる事があるんだよ。これがこのポケットに初めて入ってきたのはざっと八年前。持ち主に返しても返しても懲りずに入って来る。困ったやつだよ」

 仕方ないなとでも言わんばかりの笑みを零しながら映写機のスイッチを入れる。――でもちょっぴり悲しそう……?

「ほら、ご覧。僕には甘すぎて胸焼けしそうな記憶だよ」

 私が黒耀くんの表情を窺おうと彼の顔を見ていたら、そう促された。

 言われるがままに床に視線を落とす。

 そこには外国人が一人、こちらに向かって何か話している映像が映された。

 これを記憶している人がこの人と会話しているのだろう。


『ショータ、ここでの生活は慣れた?』

『ぼちぼち』


「あいつの声……!」

「驚いた?」

 私は痙攣するように首をかくかくと縦に振った。

(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る