二ノ四 剣鬼再び
「あ、戻って来た」
教室に戻ると、周子ちゃんが迎えてくれる。
「どこ行ってたの?」
「ちょっと、ね」
そこで教室を見渡すと、昭くんの姿がないことに気づく。というか人が全然いない。
「昭くんは?」
「なんか呼ばれて行った。他の、花菱受験するって言ってた人たちも一緒に」
「じゃあさっきのか…………」
「なんか知ってるの?」
「いや…………。他の人は? 全員インフルエンザにでも罹った?」
「この時期にそれは洒落になってないから」
それもそうか。
「今日私立の受験でしょ? だからいないんだって。あたしは公立一本だから関係ないし」
足が疲れるので、自分の席に座る。周子ちゃんもわたしの前にある自分の席に座ってから、こちらへ振り向く。
「顔色悪いよ? 何かあったの?」
「ううん。何も…………」
「絶対なんかあったでしょ」
周子ちゃんは決めつける。
「あんた、表情に出やすいんだよ」
「そっか。隠し事、できないよね。半年前もそうだったもんね。わたしの両親が死んだの、最初に気づいたの周子ちゃんだったよね」
「いやあれはあんた、親死んだのを隠そうって魂胆がまずおかしい」
そういうものだろうか。
「とにかく、あんたがしょぼくれてるときは大抵ろくでもないこと隠してるんだから。なんかあったんでしょ?」
「うん。……でも、信じてもらえるかどうか」
「いいから話せ」
「はい」
結局、話すことにした。ひとりでは抱えきれないことだったのかもしれない。
「実はわたし、花菱には行かないつもり」
わたしは周子ちゃんに、花菱高校の選抜入試について話した。選抜入試と称してわたしが騙されて家鳴屋敷に連れていかれたこと、そこで二人の鬼と出会い、殺されそうな目に遭ったこと、現にわたし以外の受験生はみんな死んだことを。
そして、わたしが妖刀に選ばれたことも、妖刀剣士になる道があることも。
「そんなことが…………」
周子ちゃんは、信じたらしい。いや、話せと言った手前、信じる態度を表明しただけかもしれないけど。
「花菱に行けば、またあの鬼たちと戦う羽目になる。でも、わたしは戦えない」
「そりゃそうだよ。そんなの、あんたが戦う必要のない相手でしょ?」
というか待ってと、話を区切る。
「それ、昭たちもやばいんじゃないの?」
「え?」
「要するに妖刀剣士って、そんなやばい仕事なんでしょ? でも表ではそれを隠している。そんな剣士を育ててる学校行ったら危険でしょ?」
「それは、確かに」
考えていなかった。自分のことばかりで、他の人のことは。
「考えてなかったけど、普通の入試だって、危険かも知れない。いや、さすがに普通の入試は大丈夫かもしれないけど。わたしを騙して連れて行くような学校じゃ、仮に合格してもいつ危険な目に遭うか分からないよ」
「昭たちに、そんな覚悟はないだろうしなあ」
覚悟はない。
当然だ。
彼らがどんな覚悟で妖刀剣士になる道を望んで、花菱への進学を希望していたとしても、まさか人ならざる化生と戦わされることは考えてもいないはずだ。
想像もできないことは、覚悟できない。
「止めた方が、いいのかな」
「あんたの話を聞く限りは、ね」
とか、そんなことを話していると。
「いやあ、やっぱ本物の刀って凄いな!」
どやどやと、教室に数名の生徒が入ってくる。
昭くんたちが戻ってきたのだ。
「お、戻ってたか、夜光珠」
昭くんはこちらに気づくと、駆け寄ってくる。
「教えてくれよ。花菱の選抜入試? どんなことしたんだ? 何やったんだ?」
「それは………………」
彼の目は輝いていた。たぶん、希望とか、そういうもので。
でも………………。
「花菱は………………」
「うんうん」
「…………行かない方がいいよ」
きちんと、言わないといけない。
やっぱり、犬井くんと鳳さんのことが頭をよぎるのだ。もし花菱に行ったら、昭くんもいつかあんな風に、殺されるかもしれない。それを分かっていながら放っておくのは、見殺しと同じだ。
「危ないんだよ。危険なんだよ。分かるでしょ? わたしだって選抜入試の後、一か月くらい入院していた」
周子ちゃんに一度話したのが効果的だった。一度、最初から最後まで丸々話して彼女の様子を伺って、どこまでなら容易く信じてもらえるか、どこからは疑われそうか判断がついた。だから昭くんに全部を説明する必要はない。
花菱に行くのが危ないということだけ、分かるように話せばいい。剣鬼のことまでは、話さなくてもいい。
「それだけ危険な目にあったんだよ。妖刀剣士って、とどのつまり兵士だから。危険なことをさせられる。危ない目に遭う」
さすがに、目の前に入試を受けただけで一か月入院した人間がいるのだから、昭くんも冷静になってくれるはずだ。
「わたしも二度と御免だよ。花菱には行かない。たとえ学費が免除されたって、あんなところ」
昭くんは、彼はじっとこっちを見ていた。
「無理だよ、無理。わたしたちみたいな普通の人間にできることじゃない。わたしは選抜入試でそれがよく分かった。だから、昭くんも――――」
そこでふと、気配を感じた。
目の前の昭くんから。
どす黒くて、じりじりと焼けつくような。
ああ、この気配は。似てる。
昔父さんがよく、わたしをぶつ前に放っていた気配と、そっくりだ。
「俺に、無理だって言うのか?」
「昭、くん?」
「無理だって、お前も言うのかよ」
お前、も?
「何言って…………」
「お前もお袋や親父と同じこと言うのかよ!」
昭くんが、すぐ近くにあった机を蹴りつける。ガチャンと音を立てて、机がひっくり返って中の物が飛び出す。
「俺が、本気で花菱目指してないと思ってるんだろ! 本気で、妖刀剣士になろうとしてないって思ってるんだろ!」
「そんな…………そんなこと」
「言ってるだろ! 俺に無理だって言っただろ! 危険? 危ない? そんなもん、お前が試験の後入院したって聞いたときから分かってるんだよ!」
「あ………………」
そうか。知ってたに決まってるんだ。わたしが入院していたことは。知っていて、それでも花菱に行こうとしていた。
目算が狂った。わたしは昭くんが危険性をまったく認識していないと思っていたけど、違った。昭くんが思っている以上に危険だって、そう言わないといけなかったんだ。
「違うんだよ。よく聞いて。昭くんが思ってるより…………」
「お前の言うことなんてもう聞かないぞ、夜光珠!」
昭くんが叫ぶ。
「自分ひとりさっさと花菱に合格したからって上から物言いやがって! なんだよ、なんでお前なんかが選抜入試に選ばれてるんだよ!」
それは…………。そもそも選抜入試ではなかったし。
「だから聞いてよ。わたしは花菱になんていかない。あそこは危険なんだよ」
「危険危険って、お前みたいなやつだって生きて帰って来てるだろ! 無事に! どこがどう危険なんだよ!」
「言わないと分からないならもうその時点で駄目なんだよ!!」
思わず、大声を出していた。わたしが声を張り上げたものだから、さすがに昭くんも少し冷静になる。
「駄目なんだよ…………。大人は、誰もこっからここまでが安全で、ここから先が危険ですなんて教えてくれない。自分で思ってるセーフティラインが間違っていても指摘してくれない。それでうっかり危険なところに突っ込んで、あとから『ああ生きてたんですね』って言われるんだよ! 実際そう言われたんだよ!」
小野さんの、あの冷たい一言を思い出す。
「だから駄目なんだよ! 普通試験で一か月も入院するほど大怪我する? しないよね! 何が分かってるの!? わたしが入院したって聞いた時点で命の保証がないくらい危険だって判断つかないなら、昭くんは死ぬよ! 絶対に!」
ひたすら叫んだ。頭に血が上って、ジンジンと痛む。
「現実はゲームじゃないんだよ。体力ゲージが少しずつ減っていって、最後に『ああこれは死ぬな』って勘付きながら一撃もらって死ぬようなことはないんだよ。いきなり死ぬんだよいきなり! すごく冷静で頼りになるなって思ってた人とか、よく壁や人にぶつかってちょっと間抜けだなあとか思ってた人が、何の伏線も布石もなく死ぬんだよ! 血まみれで倒れている人の所に駆け寄って最後の言葉を聞いたりとか、そういうイベントも何もないの! いきなりぐしゃってなって死んで、それで終わりなんだよ! わたしは昭くんに、そんなふうに死んでほしくない!」
息が苦しくなる。めまいがして、視界がチカチカと明滅する。
顔を上げて、昭くんを見る。
そして、ぞっとした。
相変わらず昭くんは、冷たい目でこちらを見ていた。その視線を感じた瞬間、駄目だったと悟った。
「うるせえよ」
彼はただ、ぼそりと呟く。
「死ぬ死ぬうるせえんだよ。人間がそんな簡単に死ぬかよ。現にお前は生きてるじゃねえか。運動もろくにできないお前が。そんなに俺に諦めさせたいのかよ」
「…………………………」
「諦めて、じゃあどうするんだよ。そういうことを言うやつの次の台詞は決まってるんだ。後から『どうして諦めたの?』って言うに決まってるんだよ。だから俺は諦めない。どれだけ危険だろうと、絶対に妖刀剣士になってやる。花菱に、行ってやるからな」
それだけを言い残して、昭くんは教室から出ていった。
わたしの言葉は、何も届かなかった。
結局その日は、昭くんは教室に戻ってくることがなかった。担任の先生も家に電話をかけたりして確認したらしいのだけど、家には戻っていないとのことで、彼はどこかへ行ったまま行方が分からない。
「まあ受験のノイローゼみたいなもんだし、しばらくそっとしておくしかないかもなあ」
担任は呑気なものだったけれど、放っておくしかないというのはその通りかもしれない。今の昭くんには、きっと誰の言葉も届かないだろうし。
家に帰って、夕飯を食べて、あとはもう寝るだけという頃になっても、昭くんのことが頭から離れなくてろくに眠りにはつけなかった。
わたしは彼に、どう言葉をかけるべきだったのだろうか。
どうすれば、よかったのだろうか。
眠りにつこうと必死に目を閉じていると、電話機がジリジリと鳴っているのに気づいた。わたしの部屋は二階で、固定電話があるのは一階なので音は遠くで聞こえづらい。
「誰だろう、こんな時間に」
起き上がって目覚まし時計を見る。家鳴屋敷での一件以来、暗いと鬼のことを思い出してしまうから、寝るときも電灯はつけっぱなしにしていた。だから時計を見るのに明かりで苦労はしない。時計は十二時に近かった。本当に夜遅い時間だ。
ベッドから降りて部屋を出る。廊下は薄暗く、階段の下からうすぼんやりと明かりが見えた。
「うう………………やっちゃった。二階の廊下の電気、消しちゃった」
うっかりやからしている。暗いのは怖い。部屋を出て、駆け寄るように廊下の電灯のスイッチがあるところまで移動する。すぐにパチリとスイッチを押すと、廊下が明るくなってホッとする。
「…………まだ鳴ってる?」
廊下を移動するだけでずいぶんてこずっているはずなのだけど、まだ電話は鳴っている。しつこいというか、我慢強いというか……。てっきりいたずら電話かと思っていたけれど、この分だと何か非常の用件だろうか。
痛む足を引きずりながら階段を下りて、固定電話のあるところへ急ぐ。リビングのいちばん奥だから遠くて仕方がない。いつ切れるかとヒヤヒヤしたけれど、わたしが辿り着くまで電話は鳴り続けた。
「はいもしもし、夜光珠です」
『あ、あの…………』
出たのは女性の声で、どこか切羽詰まっていた。
『私、宮本です。昭の母です』
昭くんのお母さん?
「あ、はあ、どうも…………」
『夜分遅くに申し訳ありません。あの、うちの昭はそちらにいないでしょうか』
いやいるわけないと思うが。
「いえ…………。昭くんは、見ていませんけど」
『そうですか。お手数おかけして申し訳ありません』
「まだ、帰ってないんですか?」
『はい……。こんなこと初めてで』
「そう、ですか………………」
昭くん、今も帰っていないなんて。いったいどこにいるんだろう。
そんなことを思いながら、窓を見た。もちろん、カーテンは掛かっているから、外は見えない。
ただ。
気配が、したような……。
「………………………………」
『あの、もしもし?』
「ちょっと、すみません」
受話器を置いて、カーテンに近づく。
この気配………………。
似てる。家鳴屋敷で感じた、鬼の気配と。でも、何か違う。
家定さんや繭子さんのときより、幾分鈍いような…………。
カーテンを開く。
すると窓越しに。
学ラン姿の昭くんが、立っていて。
彼の手には、刀が握られていた。
「な……………………」
いったい、どういうこと?
思わず後ずさる。もし彼が剣鬼になっていたら、わたしは…………。
「あ、ああっ………………」
息が詰まりそうになる。なんで、なんでこんな…………。
今になってまた、別の剣鬼が……。
『あの! 聞こえていますかっ!』
受話器から声がする。その声で我に返る。
窓ガラスの向こうには、何も見えない。室内の明かりを反射して、ただわたしの姿が映っているだけで。
今のは、幻覚?
「もしもし、すみません。何も、特には……」
一言二言話してから、電話を切った。
ベッドに戻る道すがら、考えた。
さっき見たのは、何だったんだろう。窓の外に、昭くんがいたのだろうか。でも、なんで刀なんて持って……。しかもあの刀は、妖刀みたいな気配を放っていた。
昭くん自身も、まるで剣鬼みたいな…………。
いや、そんなことあるわけがない。第一、妖刀なんてこの辺にあるわけないし。夜が怖くて、変な幻覚を見たに決まっている。
そうに、決まっている。
本当なら、昭くんがいたのかどうか確かめるべきだ。窓の外は庭になっていたから、足跡のひとつは見つかるかもしれない。それに昭くんがすぐそこにいたのなら、追いかけるべきだった。
でも、たぶん無理だろう。そう思うことにした。ここ数日は晴れていたから土も乾いていて足跡なんてつかないだろうし、怪我をした足じゃ昭くんを追いかけるなんて無理だ。
そう思うことにして、怖いのをぐっと堪えた。本当なら確かめるべきだけど、夜中に外へ出るのが怖いのを、誤魔化した。
でも誤魔化したら誤魔化しただけ、気になって仕方がない。
本当にあれは昭くんだったのだろうかとか。
あの刀は何だったんだろうかとか。
追いかけなくて良かったのだろうかとか。
同じことを何度も繰り返して考えて、夜に動くのは危険だからと自分を何度も納得させて、そのたび眠りにつこうとしてもすぐにまた同じことを考えて、その繰り返しだった。
眠れない。寒さが足の怪我にしみるみたいで。
そんなふうにうだうだしていたら、僅かに空が明るくなり始める。目覚ましは五時を指していた。せめて、もう少しは寝ないと、体に悪い………………。
でも、やっぱり眠れない。体を起こして、伸びをする。なんだか、まったく寝ていないのに頭がすっきりしている。体の疲れも取れているし。人間、横になるだけでも休息としては成立するのかな。
とか思いながら目覚ましを見る。時間は九時になっていた。
ああなんだ九時か。
なんだ九時か!?
「うぇ、ちょ…………!」
ああすっきりしたじゃないよ! 寝てたんじゃんいつの間にか! 目覚ましもセットされてないし!
完全に遅刻だ。やばいやばい。
もう休んでもいいくらいの完全な遅刻だったけれど、わたしは学校に行くことにした。体が痛むのを堪えてせっせと着替えて、松葉杖をついて学校に急ぐ。普段なら走れば五分で着くくらい近いのに、杖をついていたら全然たどり着けない。
はるか遠くで、始業のチャイムが鳴る。もう遅刻なのは認めて、学校まで道半ばの所で急ぐのは止めた。呼吸を整えると、さすがに走ったせいで額に薄く汗をかいているのに気づいて拭った。
学校前の信号まで歩いていくと、ちょうど折悪く赤信号になってしまう。この辺りは車通りが少ないから無視して歩いてもいいのだけど、もう急がないと決めたから、杖をつく足で信号無視はしないことにした。
「…………あれ」
手持無沙汰になって前を見ると、ひとりの男が正面から歩いてくるのが見えた。その男は手帳を手にして熱心にそこへ何かを書き込みながら、信号無視をして横断歩道を渡った。手帳に目を落としていたから信号に気づかなかった、のではない。あの男はきちんと、手帳から目線を上げて周囲を確認していた。
「あの人…………」
その男は昨日、花菱から真剣を持ってきたと言っていた、白いスーツの男だ。白いスーツに白い帽子。間違えようがない。
なにより、気配だ。重苦しくて、首が閉まりそうな気配がこの男からは漏れている。なんでだろう。昨日見たときは全然、気配なんてしなかったのに。ひょっとして、刀から漏れていると思っていた気配は、この人のものだった?
こんな気配、今まで察知したことがない。
「もし、そこの人」
男はわたしの横を通り過ぎるとき、よく通る声でわたしに尋ねてくる。手帳で口元の辺りが隠れている。革製のカバーには金色の文字で『Kousaku T』と刻まれている。
「失礼だが、今は何年か聞いてもいいかね?」
「え…………はあ、今は
「ああ、いや、和暦が知りたいのだ」
「和暦」
何年だっけ? いや、ついこの前、花菱の選抜入試に提出する書類に書いたから覚えている。
「昭和八七年ですよ」
「そうか。ありがとう。しかし今の天皇もなかなか死なないね。もう百なんてとっくに超えているというのに」
ドキリとして、周囲を見渡す。幸い誰もいないけど、もし他の人に聞かれていたら大問題の発言だ、今のは。天皇陛下が死なないなあなんて。
いい年をした大人の発言じゃない。
「ふん…………」
そんなわたしの慌てぶりを見て取ったのか、男は鼻で笑った。
「君はそんなことを気にするのか。最近の若者は皇族に対する敬意がないと聞いていたが、そうでもないらしい。あるいはただの小心者か? どちらでもいいが……」
「は、はあ…………」
「敬意とは無批判の裏返しだ。君は考えたことがないのか? 戦前から生きる今の天皇が、未だに死の気配さえ漂わせていないことを、疑問に思ったことはないのか?」
「それは…………天皇陛下の周りには優秀な医者が大勢いるはずですし、医療も日進月歩ですから」
「百余歳のじじいを生かし続ける医療など、もはや科学の範疇を超えた仙術の類だろうに。よくそんな妄言を信じたものだ。いや、この国の人間は、とかく妄言というやつが大好きだからな」
そしてまた、手帳に何かを書き込んだ。
「妄言。うまい話。都合のいい戯言。この国の連中は、己の信じたいことしか信じない。目の前の真実からは目を背ける。そのツケは、莫大なものとなるだろう」
「あの………………」
「ああ、すまない。独り言だ。独り言ついでに、君にひとつ礼をしておこう」
男は手帳を閉じて、ジャケットの内ポケットに仕舞う。
「その制服は額縁中学のものだな? 時間からして遅刻しているようだが、君は運がいい」
「ど、どういうことです?」
「今は学校へ行くのを止めたまえ」
黒塗りの車が、横断歩道の真上に停車する。これは…………昨日、この男を乗せていた車?
というか、わたしは免許を持てる年じゃないから詳しくないけど、車って横断歩道の真上に停車していいものだっけ?
「家に帰るというのなら送っていくのもやぶさかではないが、どうかね?」
「いえ」
さすがに怪しすぎて、辞退した。
「わたしは学校に行きます。それに、帰るにしても家は近いので、自分で帰れます」
「そうか……」
「あの、学校に行かない方がいいって、どういうことですか?」
「そのままの意味だ。今行けば、あまりいい場面には遭遇しないだろう」
そりゃあ、まあ、遅刻してるし。お叱りくらいは受けるだろうけど。
男が言っていることは、そうじゃない気がした。
何か、嫌な予感がする。
はっとして、気配を探る。学校はもう目と鼻の先で、気配を探ろうとすればできるくらいの距離にある。
無骨丸を持ったときの感覚を思い出せ。肺一杯に新鮮な空気を吸い込んで、清冽な意識に切り替えろ。そうすれば、きっと…………。
学校には、当然だけど人の気配がたくさんある。でも、その気配がざわめている。この、狂騒と混乱の気配は?
「…………これは!」
たくさんの気配の中から、鈍かったけれど、あの気配を感じる。昨夜、窓越しに見た昭くんと同じ気配。
剣鬼の気配。
「あっ…………」
ぶつりと。
今、誰かの気配が消えた。
わたしが家鳴屋敷で最初に見た死の場面、あの瞬間の気配の消え方にそっくりだ。
「では、私は失礼する。君に幸運と武運があることを祈る」
男が車に乗り込む。歩行者用の信号が青に変わる。その瞬間に車は滑りだしていった。つまり車も信号無視である。
「ま、待てっ! いったい………………」
いったい、何が起きているんだろう、学校で。それをどうして、あの男は知っているふうだったんだ。聞きたいことはたくさんあったのに、あっという間に男は消えてしまう。
「な、なにが起きて…………」
分からないけど、行かないと…………。
松葉杖を放り出して、痛む足を引きずって先に進む。校門を抜けると、狂騒の声は気配ではなく耳にはっきりと聞こえてくる。
学校の生徒たちが、逃げ惑っている。多くは運動場に集まっているみたいだけど、校舎の方からもまだ気配が大勢漂ってくる。
尋常じゃない。運動場に逃れたらしい生徒たちは、顔を真っ青にしている。中には泣きながら、体を支え合っている人たちもいた。
「周子ちゃん! 昭くん!」
とりあえず呼んでみるけれど、当然、誰も反応は返してくれない。
ひとまず校舎に近づこうとした、そのとき………………。
「うわあああっ!」
悲鳴が聞こえる。次いで、ガラスを突き破る音。
上から、何かが、誰かが落ちてくる。
思わず顔を伏せる。ぐしゃりと、潰れるような音がしてそれは落ちた。おそるおそる顔を上げると、落ちた場所は校舎傍の花壇の上だった。
そして落ちてきたのは……。
「先生っ!」
担任の先生だった。
急いで近寄る。血まみれで唸っている。怪我の程度は分からないけれど、気配は弱々しくも途切れていない。たぶん、まだ大丈夫なはず。
「先生! 何があったんですか? どうして…………」
「に、にげ、ろ……。夜光珠」
先生はうわ言のように、逃げろと繰り返す。
落ちてきたと思われる方を見上げる。校舎の二階だ。ここから花壇に落ちたのか。花壇に落ちたおかげで、一命を取り留めたようなものだ。これが少しずれてアスファルトの地面に墜落していたり、ひとつ上の三階から落ちていたら間違いなく死んでいた。
破れた二階の窓から、誰かが顔を覗かせる。それは…………。
「………………なんで」
昨日から行方の分からなくなっていた、昭くんだった。
彼は抜き身の刀を肩に担いで、じっとこちらを見ている。
「昭くん! なんで、なんでこんなこと……」
場面は見ていないけど、もうはっきりしている。刀には血がついているし、なにより…………。
気配が。
家定さんや繭子さんたち、剣鬼と似通ってきている。
あの重々しい殺気が、こちらに向けられている。
「刀だ…………」
わたしの足下で、先生が呻いた。
「実は、昨日から、花菱から借りていた刀が行方不明になっていた。昭が、今持っているやつだ」
「じゃあ…………やっぱり……」
あのとき、わたしが感じた気配は正しかったんだ。
あの白スーツの男が運んでいたのは妖刀で。
それを抜いた昭くんが、剣鬼になったんだ!
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