一ノ五 炎の幕
力尽き、落下していく家定さんの肉体と一緒に、わたしも落ちていく。てっきり、家定さんが死ねば家守定の能力も解除されると思っていたけれど、未だに床は壁になって、廊下の奥へわたしは落下している。剣鬼化しているせいで、首を斬ってもしばらく生きているのだろうか。それとも何か、別の要因が?
落下した先は、あのときの書庫だった。相変わらず床を壁にした状態だけれど、本棚は床に打ち付けられているのか動いている様子がない。床を蹴って体の向きを変えて、本棚のひとつに着地する。
家定さんの肉体は、繭子さんが本棚の間に通して仕掛けた糸の網に触れ、バラバラになった。すると、またぐらりと振動があって、家の向きが元に戻る。わたしは床に着地し直した。
「や、夜光珠…………」
「…………鳳さん!」
声に反応して天井を見ると、四肢を糸に繋がれて鳳さんが吊るされていた。
「よかった。生きてた!」
「そっちも、ね。それより、その刀は…………」
話している暇はない。見ると、天井に張った蜘蛛の巣を、繭子さんは四つん這いになって這っていた。じっと、鳳さんの方を見ている。
ゾッとする。天井の蜘蛛の巣に吊るされた、千々に切り裂かれた受験生たちの死体が頭をよぎる。
「やめろっ!」
言うなり、体は勝手に動いている。本棚を足掛かりに、高い天井に向かって跳躍する。
蜘蛛の巣は床から上を覗いているときは分かりづらかったが、意外と立体的に張り巡らされている。体を捻って糸と糸のすき間を通り抜け、蜘蛛の巣の内部に入って糸を足場にして立つ。そんなバランス感覚、本来あるはずがないのに、どうしてこんなことができているのだろう。
糸を足掛かりにしてさらに跳躍して、繭子さん目掛けて突き進む。彼女は刀から糸を生み出して、こちらに振ってくる。細い上に早くて見えづらいけど、その糸には殺気が絡んでいて、気配が強い。その気配を察して、無骨丸が勝手に振るわれて糸を切り落としていく。
でもさすがに、糸の上を自在に動ける繭子さんに近づくのは難しい。なんとかしないと…………。
糸をたわませて、前に向かって跳躍する。飛びかかり様に斬りつけても、するりと彼女は躱してまた距離を取られてしまう。
わたしが立っている糸の足場の真下に、血だまりが見える。たぶん、家定さんの肉片だろう。家守定も転がっている。
「え………………」
ぐっと、次の足を踏み出そうとしたとき、異変に気づいた。足が、動かせないのだ。正確には、足場にした糸が足の裏に引っ付いて、剥がれないせいで足を踏み出せないのだ。
「本当に蜘蛛の巣みたいだ…………。こんなことも」
足を踏み出そうとしてできなかったせいで、バランスが崩れる。その隙をついて、繭子さんが刀を手にして飛びかかってくる。
「く、そ…………」
打開策はないのか? 結局、頭で考えたことは無駄になる。
体が勝手に動くから。
あろうことか、勝手に動いた腕はわたしの足場だった糸を切り落とす。いや、それなら糸の呪縛からは確かに解放されるけれど、わたし、このままだと落ち…………」
「おち、おち……うわああっ!」
バランスを崩して、頭から落下する。死なない高さではあるけれど、さすがに頭からはまずい。
ちらりと後ろを振り返ると、繭子さんも後を追って飛び降りてくる。たぶん剣鬼になっているから、彼女はこの高さもへっちゃらなんだろう。落下しているわたしを後ろから殺すつもりだ。
無骨丸を右手に持つ。左手を空けて、ぐっと前に、下に伸ばす。まさか左腕だけで着地するつもりじゃ…………と、思ったが、腕の先にあるものを見て、違うことに気づいた。
左腕を伸ばした先には、家守定が刃をぎらつかせて待っている。
刀の柄を掴む。もうほとんど、床に激突寸前のところで、右腕を大きく振って体を捻る。振り返って、繭子さんと対面する格好になる。その勢いのまま、左手に持った家守定と、右手に持った無骨丸を振った。
ただ落ちるだけと思っていた相手からの反撃は、完全に不意を打った。二本の刃は彼女の胴を切り裂いて、上半身と下半身に二分する。
べちゃりと、背中から血だまりに落ちる。強い衝撃が背中に加わって、肺から息が全部出ていく。
「う、ぐうううっ!」
たぶん、頭から落ちるよりはマシ。そう思うことにした。
真っ二つになった繭子さんの体も落ちてくる。家定さんが作った血だまりの中へ。
「……………………」
折り重なるように、というやつか。夫婦がともにそこに倒れているのは、それが一番収まりがいいような気がした。そこにわたしがいるのは邪魔くさいように思われて、立ち上がって血だまりの中から出た。家守定も、手から離している。無骨丸はまだ握ったままだった。
ぼとぼとと、天井から何かが落下する音がする。上を見上げると、天井に張られた蜘蛛の巣が解けていくのが分かった。
「きゃあっ!」
目の前に、鳳さんが落ちてきた。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫なわけないでしょ…………」
生きててよかった。
ほっとしたら、体から力が抜ける。ようやく、無骨丸も手から離れた。
足に力が入らなくなって、膝から崩れ落ちる。
じくりと、痛みがあった。
「う………………ううっ」
「………………夜光珠?」
痛みは足と腕から広がって、徐々に全身に巡っていく。
「いたっ…………。いた……痛いっ! 痛い痛い! うう……」
体を起こすこともできなくて、その場に倒れてしまう。
呼吸が上手くできない。息が苦しい。腕と足が特に焼けるように痛くて、体に力が入らない。
いったい何が?
いや、これは…………。
「お姉さん!」
ぼんやりした視界の中、為定くんが無骨丸の鞘を持って駆けてくるのが分かった。
「え、あんた誰?」
そういえば鳳さんと為定くんは初対面だった。
「それより夜光珠は? いったいどうなってるの?」
「たぶん、体を無理に動かしたから…………。見てください」
彼が指さしたのは、スカートから覗くわたしの足だった。見ると、紫色に腫れあがっている。
「な、なにこれ…………」
「骨が折れていないといいんですけど……。お姉さんはきっと、武道の経験もなかったんですよね? 武道どころか、体を鍛えている様子もありませんでしたし。それなのに垂直の壁を上ったりしたら、体中の筋肉が悲鳴を上げるのは当然ですよ!」
やっぱり。
何となく、頭の片隅にはあったけど、こうなるのか。
「え? じゃあ何? 蜘蛛の巣の上を走ったりしたのも、夜光珠の身体能力じゃなかったの?」
「はい。ぼくも詳しくは知りませんでしたが、おそらく無骨丸の能力は、刀に宿る武人の魂に肉体を委ねるもの。簡単に言えば自動戦闘ですね」
それは…………自分で無骨丸を振っていたからすぐに気付いた。あの刀は、抜くと勝手に戦ってくれる。でも、こちらの肉体をいたわるなんて繊細な機能はなかったということか。
万年図書委員の運動音痴のインドアで、剣なんて真剣はもちろん竹刀だって握ったことがない。それに…………いやまあともかく、そんな人間があんな戦い方をすれば、ボロボロになるに決まっている。
たぶん最初の一振りでもう腕を痛めていたかもしれない。
運動のショックで死ななかっただけ幸運と思わないといけない。戦闘中は、アドレナリンというやつがドバドバ出ていたから痛みも感じなかったんだろう。
「しかもただの自動戦闘ではなく、無骨丸の望む身体能力の性能を無理やり持ち主に引きださせる。本当、文字通りの妖刀ですよこれ」
「説明はいいから………………」
「とにかく大丈夫ですか? 動けますか?」
「いや…………」
動けるわけがない。目立って酷い怪我をしているのは両腕と両足だけど、刀を振るう時に何度か体を捻っているので、腰も痛めているかもしれない。
「一か月待って。わたし、怪我の治りが早いのだけが自慢で……。全治三か月の骨折を一か月で治したことがあるんだよね………………」
「駄目だ夜光珠のやつ、痛みで混乱してる。とにかく肩貸すから…………」
鳳さんに抱えられて、ようやく立ち上がる。少しでも体重を足にかけると激痛が走って、まともに立つこともできない。
「よく分からないけど、あの変な怪物はもう倒したんでしょ? だったらゆっくり出られるよね?」
「………………はい。間取りも戻っていますから、この土蔵の位置も……」
正面を見る。書庫の扉の先は、外になっている。やっぱり土蔵を改造でもして作ったのだろうか。本来は屋敷と直結していないものを、家守定の能力でつないでいたのか。それが元に戻ったから、扉の先はすぐ外になっている。
そういえば、妖刀、結局全部置いていってしまっているな…………。持ち主を失った家守定と糸紡もそうだけど、無骨丸も今は手元にない。為定くんが後生大事に抱えているのは鞘だけだ。
いや、持っていけと言われても、もうあんな刀触りたくもないから嫌だけど。
扉の前に立つ。屋敷に入るときはちらついていた雪が、今ではもっとしっかり降って、地面に薄く積もっている。
外にはバスの他、何台もの車が止まっている。わたしたちが屋敷に入る前にはなかった車だ。車の外では何人もの人がこっちを見た。
「な、おい出てきたぞ!」
「本当に出てきた」
「無事か? 刀は?」
口々に発せられる言葉が聞こえる。
たぶん、彼らは刀剣整理局の人間だ。もしこの屋敷からわたしたちが出てきたら、そこから情報を得るつもりで待ち構えていたんだろう。犬井くんの言っていたことが正しいなら……………………。
そこで、ふと、疑問が頭をよぎる。
そういえば、家鳴屋敷は半年前、刀剣整理局の人間が刀を奪おうと強硬手段に出た結果として、家の主である家定さんと繭子さんが剣鬼化したんだったような……。
じゃあなんでわたしたちは、そんな屋敷に「無人です」と嘘の説明されて、送り出されたのだろう。刀剣整理局の人間――犬井くんのお兄さんたちが死亡した時点で、あの屋敷が危ないことになっていることくらいは把握できていたはずなのに。
わたしたちは、なんで…………。
花菱高校の、選抜入試っていったい…………。
「いったいどうしたっての?」
鳳さんが疑問を口にする。そうか、鳳さんは犬井くんの話を聞いていないから、事情が呑み込めていないんだ。
周囲がざわつく。わたしたちの元に集まろうとしていた人たちが、その足を止める。
同時に、書庫の方から強い殺気が漏れ出してくる。
「え…………」
振り返る。
書庫の奥に、何か、大きな蜘蛛のようなものが…………。
それは、こちらに向かって大量の糸を吐いた。
「…………っ、夜光珠!」
鳳さんが、わたしと為定くんを突き飛ばした。わたしたちは雪の上に倒れ込む。
「鳳さんっ!」
叫んだときには、もう遅い。
彼女は、大量の糸に絡めとられていく。それはすぐに繭玉のようになって、それから…………。
ぎゅっと。
潰れた。
クシャクシャになった繭玉は真っ赤に染まって、ところどころから血を噴き出した。
「そん、な………………」
あと少しだったのに。
あと少しで、帰れたのに。
なんで、こんなことになるんだろう。
なんで、こんな目に遭わないといけないんだろう。
呆然としていると、書庫からのっそりと、それが姿を現す。
わたしが斬ったはずの、繭子さんが。ただし、その姿はさっきまでとはまるで違う。
上半身はそれまでと同じものだけれど、下半身は蜘蛛のものになっている。とても大ききくて、白い蜘蛛。そして手には、変わらず糸紡を握っている。
そんな…………上半身と下半身を切り離したのに、生きているなんて…………。
「母さんっ!」
為定くんが、ほとんど絶叫する。でも、もう彼女はこちらの声が聞こえていないみたいで。
鳳さんを襲ったのと同じ糸が、わたしたちにも投げかけられる。
今度は、目を閉じて覚悟する暇もない。
無骨丸も手元にない。いや、あっても今の怪我じゃ、動けるとは限らない。
今度こそ死んだ?
今度こそ死んだ!
わたしたちは、ここで…………。
「うむっ。これは辿り着くのが遅れたことを猛省するべきか、まだ生き残りがいる内に辿り着けたことを寿ぐべきか悩むな!」
突然、声がした。
天高くから、朗らかな男の声が。
そして次の瞬間、落ちてくる。
何が?
炎が。
わたしたちを襲う糸を焼き切って、炎と一緒に二人の人間が降りてくる。
「もしもーし」
降りてきた人のうちのひとりが、振り返ってこっちを見る。コートの下に、黒いセーラー服を着ている。ちらりと見えた胸ポケットには、菱形に花を描いて、湾曲した角のようなものが突き出した紋章……花菱高校の校章が刻まれている。
花菱高校の、生徒なのか?
その人物の顔は炎の逆光になって見えない。首から、大きな海中ゴーグルを下げているらしいのは分かったけれど。
「大丈夫ですか? 大丈夫そうですね。間に合ってよかったです」
ゴーグルの人は、優しい声色でそう言った。
「ここから先は妖刀剣士のお仕事ですので、安心して休んでいてくださいね」
妖刀剣士…………? そこで初めて気づく。彼女はスカートの上に青いベルトを締めて、そこに帯刀している。あれも、妖刀なのか…………。さっきから、体中の痛みと、目の前の繭子さんが発する殺気のせいで他の気配が察知できない。
「お仕事と言ってものう」
もう一人もくるりとこちらを向く。こちらは学ランを着ているらしいが、上から悪趣味な銀色の羽織をきちんと着付けていてよく分からない。顔にはひょっとこのお面を被っていて顔も分からない。こちらもやはり、ベルトに帯刀をしている。鞘の無い、赤塗りの刀だ。
「これ、相性的にワシの仕事じゃろ? なんでお前が安請け合いするんじゃ?」
「そうですね、じゃあお願いします」
「まあ当然やるけどな。ははっ!」
「…………………………」
驚愕だった。今、目の前に剣鬼が、しかもとてつもない殺気を放っている剣鬼がいるのに、ふたりはこっちをむいて雑談をしているのだ。つまり、繭子さんに背を向けている!
どんな余裕だ?
どんな余裕だ!
「お前たちは!」
わたしたちに近づこうとしていた人たちのひとりが声を上げる。
「花菱の! 何でここにいる。お前たちにまだ指示は出していないぞ!」
「指示も何も……」
ひょっとこの男が反駁する。
「最初から妖刀の回収と剣鬼の調伏はワシら妖刀剣士の仕事じゃろ。それを素人かき集めてからに。相変わらず理事長のやることは小狡いのう。ワシはそういうのは好かんから、自腹切ってタクシーに乗ってわざわざ来たんじゃろ」
「いやあ、あのタクシーの運転手、いい人でしたね」
ゴーグルの人も同調する。
「タイヤチェーンをあの人が常備していなかったら、到着がもっと遅れていましたよ」
「ほんにほんに。ワシらは運がいい!」
そこでようやく、ひょっとこの男は剣鬼に向き直る。
「さあ、仕舞いにするぜ。ここで死んだやつらの分まで、きっちり荼毘に付してやるからよ」
繭子さんが、また糸を吐く。ひょっとこの男は、刀を抜いた。
すると、周囲に熱が起こる。わたしの足下の雪が、じわりと溶けた。
そして、糸も焼き切れる…………。
「あれは…………」
為定くんが呟く。わたしも、あの男が抜いた刀に思わず注目する。
ひょっとこの男が持っていた刀は、刀身に青白い炎を纏っている。あれで、糸を焼き切っていたのか。
「行くぜ」
男が飛び出す。あの姿の剣鬼に、まるで怯むところがない。
そして動きが、速い。
糸紡と、男の持っていた太刀がぶつかり合う。炎がまき散らされて、ぎらぎらと輝いた。その光に目を奪われているうちに、すべてが終わっていた。
ぼとりと、繭子さんの両腕と首が落ちる。ついで、全身の力が抜けたように体が崩れる。
「ざっと、こんなもんじゃな。糸を出す能力なら、炎で燃やせばおしまいよ」
あっさりと、終わった。
あんなにわたしが苦労して、逃げ回って、のたうち回って倒したはずの繭子さんを、一瞬で。
雑草を草刈り鎌で刈るみたいにあっという間に。
「眠れよ、せめて」
繭子さんの体は炎に包まれていく。その炎は暖かくて、こっちまで、まどろんできそうに、なって……。
力が、抜ける。
わたしも、仰向けに倒れていた。降りしきる雪の一片が目に入って。
それでようやく、涙が流れた。
第一幕、終幕。
第二幕へ続く。
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