一ノ四 無骨丸、抜刀

「やって来るって?」

「父が、お姉さんたちを探せなくなったから、一度家守定の間取りを弄る能力を解いてリセットしたんです。元の間取りに戻ったんですよ。じき、ここに父たちが来ます!」

 じゃあ、急がないと!

「いや、これはむしろ絶好のチャンスだ」

 犬井くんはあくまで冷静だった。

「さっきまでは間取りが滅茶苦茶だったせいで、家の人間である為定くんですら脱出は困難だった。しかし今なら、違うだろう?」

「えっと、それは、そうですけど……」

「案内してくれ。一緒に脱出しよう」

 そうか。結局、為定くんとは一緒に出ないといけないんだ。急がないといけないのならなおさら、案内役が必要になる。

「妖刀も持っていく」

「え、それは…………」

 火事場泥棒では?

 わたしが何か言いたげなのを察したのか、犬井くんがこちらを見る。

「勘違いするな。確かに試験のお題としてはこれを持ち帰る必要はあるが……。それよりも重要なのは、これ以上戦力を相手に与えないことだ」

「と、いうと?」

「剣鬼化についての情報が少ない以上、最悪のケースは考えないといけない。つまり、既に剣鬼化しているあの二人が、さらにこの無骨丸を抜いて剣鬼としての力を高めるとか、そういうケースをだ」

 そうか、そういうこともあり得るのか。

「だが、俺たちが持っているとそれこそ泥棒まがいだ。為定くん、無骨丸は君が持って、それで先導するんだ」

「わ、分かりました……」

 わたしたちよりさらに幼い少年には少々重い荷だけれど、これは仕方がない。

「こっちです。行きましょう!」

 為定くんが駆け出す。その後を犬井くんが追って、しんがりはわたしになる。しんがりってけっこうやばい位置なんじゃと思ったけれど、どこから相手が襲ってくるか分からない以上、あまり位置関係をどうこう言っても仕方がない。

 彼が言っていた通り、間取りは戻っているらしい。障子や襖を開けても、どこも黒い壁はない。相変わらず屋敷は暗いけれど、さっきまでのおどろおどろしい気配は薄れている。きっと、屋敷中に張り巡らされていた妖刀の力がなくなったから、妖刀の気配も感じにくくなっているんだろう。

 廊下を曲がる、一直線の道のいちばん奥に、うすぼんやりと青い光が見える。あれは、外の光。曇り空の夜でも僅かに雲を透かして届く月の光だ。

 あそこまで行けば、助かる。

 でも…………。

 気配が、殺気が、ぐんと濃くなった。

 まるで屋敷中が、わたしたちを逃すまいとしているみたいに、重苦しい殺気が全身にひしひしと伝わってくる。

 気配がぼんやりとする。屋敷にまだ残っているかもしれない他の受験者たちや鳳さんの気配どころか、目の前を走る二人の気配もぼんやりとしか感じられないくらいの、ずっしりとした殺気。

 なんだこれ? なんだこれ?

 人が、こんな殺気を流せるのだろうか。

 人じゃないんだ。だから。だから、剣鬼なんだ。

 分からない。あと少しで出口というところまで来て、助かるかもしれないという期待感が胸を焦がすと、さっきまでの鋭敏だった気配の察知が鈍くなる。

 あの二人の鬼は、今どこにいる? わたしたちを完全に見失っているのか? それとももう見つかっていて、待ち伏せされている?

 信じよう、ここまで来たら。

 できるだけいい結果が待っているって。

 あの出口まで行けば助かるって!

 いよいよ、玄関の土間が目の前に見えてくる。堪えきれなくなったのか、ぐんっと、隊列を崩して犬井くんが前に出る。その様子を見たとき、ああ、冷静そうだった彼も、どこかに恐怖心を隠していたんだなあと安心した。

 怖いのがわたしだけじゃなくて、安心する。

「よしっ、出口だ!」

 彼が叫んで、土間に右足を着ける。

 足は、土間に着かなかった。

「は……………………」

 右足は、こま切れになる。ぐらりと、彼の体が倒れる。

「なに、が……」

 それが、犬井くんの断末魔だった。

 糸が、土間に張ってあったのだ。それが彼の自重に反応して、食虫花のようにばくんと呑み込んで、彼の全身を斬り苛んだ。

 右手が、こちらに伸ばされる。

 つかむことはできない。距離が離れすぎている。

 そのまま彼はバラバラになって、土間に血の海を作った。

「あ、ああ………………」

 思わず、足が止まる。わたしも為定くんも、土間まであと三メートルほどのところで立ち止まって、動けなくなる。

 死んだ。

 犬井くんが、あんなにあっけなく。

 さっきまで生きていて、喋っていた人が。

 自己紹介して、一緒にこの屋敷を探検して、剣鬼から逃げ回って。

 脱出まであと一歩だった人が。

 まるでホラー映画の開始十分に出てくる通行人みたいに、あっさりと。

 何のもなく、ただ殺された。

 人が死ぬって、こういうことなのか。

 半年前は死体になったところを見ただけだったから、知らなかった。

「危ない危ない」

 声がする。近くの障子が開かれて、爬虫類男と蜘蛛女――為定くんの両親である家定さんと繭子さんがゆっくりとその姿を現した。

 そこではじめて家定さんの顔形をはっきりと見たけれど、まるでヤモリのように丸くてつやつやしていた。ぺたり、ぺたりと足音をさせるところから、袴でよく見えないが裸足らしいということも分かる。

「駄目じゃないですか、為定」

 ここで初めて、繭子さんが声を出す。案外、普通の女性の声をしていた。

「侵入者を庇いたてて、あげく出口まで案内するなど」

「母さん…………」

 自分の母を呼ぶ為定くんの声は震えている。

 わたしはそっと彼の肩を抱いて、自分の後ろに隠した。それで何がどうにかなるとか、そんなことはさっぱりだった。

「では、侵入者の方」

 繭子さんが、こちらを見る。

「死んでください」

 ギラリと、彼女の持っている刀が閃く。

 殺気が、縦一直線になってこちらに迫ってくる。

 糸だ。糸紡から出した糸が、わたしを縦に真っ二つにするために迫って来ているのだ。たぶん、首を狙うとまたぞろしゃがんで躱されるから、それは避けたのだろう。

 でも、仮に首を狙って糸を飛ばされていても、わたしは躱せない。今だって、横に避ければそれで死を回避できるのは分かっている。目視もできないほど細くて速い糸でも、わたしには気配が殺気として感じられるのだから、躱すこと自体は不可能じゃない。

 躱せないのは、次が分からないから。

 今これを躱して、どうなる? 次は? その次は?

 延々と、これを躱し続けるというの?

 それをした先に、何か希望が待っているというのか。

 そんなものはない。それは…………たぶんこの屋敷に来たときから、いや、選抜入試を受けるなんて言ってしまったときからないんだと、もう気づいてしまったから。

 だからわたしはこれを、躱せない。躱した先に、未来がないから。

 躱した先に、希望もないから。

 思わず目を閉じる。涙は流れなかった。

 ああ、死ぬときくらいは、流れるものだと思っていたのに。



「くだらない」

 声が、頭に響く。

「希望がない? 未来がない? 何を今更当たり前のことを言っている」

 反響して聞き取りづらいけど、たぶん男のものだ。若くて、力強い男の声。

「そんなもの、最初からどこにもありはしない。あると思っているのは頓馬か間抜けの類よ。なぜ人は神仏に縋ると思う? なぜ人は極楽浄土を夢想する? 心の奥では知っているのだ。希望も未来もないと。だから作り上げたものに縋る。貴様は死の間際、それに気づいたのだ。それだけでも上等だろう。馬鹿は死んでも治らないというからな。馬鹿のまま死ぬよりはいいというものだ」

「でも………………」

 反駁する。

「じゃあ、未来も希望もないなら、どうしてわたしはここまで生きてきたんだろう」

「決まっている。貴様がそうあれかしと決めたからだ。貴様がここまで生きると決めたからだ」

「決めた…………」

「そして今、貴様はここで死ぬと決めている。だが、それは本当に貴様の決めたことか? 望んだことか?」

「わたしは……」

「いいか? 未来も希望もありはしない。あるのは今、我々がそうありたいと思う願いと、そうあれかしと決める決意だけだ。願いと決意だけが、いつだって人を前へ動かした」

 思い出せ。

 願いと決意を。

「お前はどうありたい? どうあるべきと決めている?」

「わたしは………………」

 決めていたはずだ。願っていたはずだ。

「学校に、行きたいな」

 思い出すのは、クラスメイト達の顔だった。周子ちゃんや、昭くんの顔。

「まだみんなと、いろいろ話していたい。新しい学校に行って、新しい友達も作りたい。知らないことを沢山学んで、次のことを考えたい」

 そのために、この試験を受けたんだから。

「ならば、貴様のするべきことはひとつだけだ。願ったことのために、決めたことのために、俺を振え」

 そして。

。どんな手を使っても、自分の願いと決意を、生きることを諦めるな」



 覚悟した衝撃。体を切断する衝撃はいつまで経っても訪れない。

 いや、体を切断する衝撃がどんな衝撃か知らないから、気づかないうちに通り過ぎたのかもしれない。

 それより、さっき聞こえた声は誰のだろう。とか。

 そんなことを思いながら目を開けた。

 目の前には相変わらず、家定さんと繭子さんがいる。ただ、少し様子がおかしい。明らかにこちらを警戒しているような気配があった。顔が蜘蛛の繭子さんの表情はうかがい知れないけれど、家定さんの方は動揺しているようにも見えた。

「え………………」

 そこでようやく、わたしの姿勢がおかしいことに気づいた。さっきまでは棒立ちだったのに、今のわたしは右手を上げて、まるで何かを振った後のように…………。

 わたしの手に、刀が握られている。ところどころに金の縁取りのある、鍔が金のしゃれこうべで出来たあの悪趣味な刀が。

 無骨丸が、鞘から抜かれた状態で刀身をさらして、わたしの手にある。

 これで、糸を防いだのか? わたしが?

 まるで身に覚えがない。

 振り返ると、無骨丸の鞘だけを持って、為定くんがじっとこっちを見ている。

「繭子!」

「はいっ!」

 家定さんが一喝すると、繭子さんは部屋に消える。家定さんは家守定を抜いて、こちらに構えた。

 わたしの胸は、清々しいほどすっきりしている。雪が降った日の朝の空気をいっぱいにすいこんだみたいに。さっきまでのぼんやりとした意識と違う。はっきりと、気配を感じられる。

 繭子さんが部屋に入ると、彼女の気配が消えた。そして後ろの、遠くの方でまた現れる。家定さんが家守定の能力で、部屋の間取りごと瞬間移動させたんだろう。

何かを企んでいるのだろうか。どちらにせよ、距離はかなり離れている。

 今集中するべきは、目の前の家定さんだけだ。

 そう心に決めると、左手が勝手に動いて刀を両手で握りしめる。昔中学校で一度だけやったことのある、剣道の構えに近いような気がした。

 何でこんな構えを、勝手に……?

 考えている暇はなかった。

「う、うわあああっ!」

 勝手に動き出していたのは、左手だけじゃない! 足も勝手に前に進んで、家定さん目掛けて走り出している!

「何が、何が…………!」

 わけが分からない。自分の意志と無関係に操られているみたいで、抵抗のしようがない。刀を離せば止まるかもしれないと思っても、右手も左手も吸いつくみたいにぴったりと刀を掴んで離してくれない。

 これ、ひょっとしてやばいやつなんじゃ……。そう一瞬思ったけれど、すぐに思い直す。

 じゃあ、仮にこの状態を解除できたとして、どうなる?

 やばいという意味では大差ない。いや、攻撃の手がなくなるという意味ではより厄介な事態になる。

 今は、このまま突っ走るしかない。

 生きると決めたのだから。

 生きたいと願ったのだから。

 刀の思うままに、振るうしかない!

「うわあああ!」

 驚愕の発声から気合の雄たけびに変えて、駆け寄る。袈裟斬りの第一刀は難なく防がれる。でも、すぐに鍔迫り合いに持ち込んで、ぐいっと相手の腕を刀ごと押し上げる。がら空きになった胴体に、今度は横一文字に斬り込む。

 廊下は細長くて狭い。左右は障子に阻まれている。でもそんなことはお構いなしだった。障子ごと、すっぱりと斬ってしまう。

 すんでのところで家定さんは後ろに下がったらしく、傷は浅そうだ。でも、腹部から血を流している。

 まず一太刀、入った。

「ぐっ…………」

 彼はゆらりと体を揺らす。続けてさらに攻撃を仕掛けようと体が動くと、ぐらりと、床が揺れた。

 この感触は…………。

 家守定が、能力を使ったのだ。しかも間取りを変えるなんてまだるっこしい能力じゃない!

 ふわりと体が浮く。わたしは、背中から落ちようとしている。建物全体が九十度回転して、床が壁になって、屋敷の奥へと落とされようとしているのだ。

 そんな状況でも、頭は冷静さを保っている。どうせ体の主導権がないからといい気になっているのかもしれない。後ろには気配がして、たぶん繭子さんがわたしを寸刻みにするために糸を張っているのだろう。

「為定くん!」

 叫ぶ。わたしの体は察してくれて、廊下に突っ立っていた状態の彼を突き飛ばして、部屋に入れてくれた。これで彼があの糸の餌食になるのは避けた。

 問題はわたしだけど…………。

 壁になった廊下に無骨丸を突き立てる。堅そうな板張りに、案外素直に刀は突きささった。それを支えにして、何とか落下は免れる。

 家定さんはどうしているのだろうとそちらを見ると、なんと彼は普通に立っている。ヤモリみたいな顔をしていたし、裸足だったし、きっと、足が吸盤のようになっているのだろう。

 ぺたり、ぺたりと足音を響かせて、家定さんが迫ってくる。わたしを叩き落とすつもりだろう。

 どうする?

 頭で考えている間に、体は勝手に動く。

 床に両足を着いて、蹴った。同時に刀を床から抜いて、駆け出した。

 垂直九十度の壁となった床を、今、わたしは走って上っている!

「う、嘘だあぁ!」

 思わず叫んだ。こんなインドア気質のわたしに、どうやったらこんな力が出せるのか、今はあまり考えない方が良さそうだ。あまりいい予感はしない。

 わたしすら予想外の動きだ。当然、家定さんの方でも予想外だ。一瞬彼は硬直すると、迎え撃とうとして家守定を上段に振り上げる。

 でも、それじゃあ遅すぎる。

 わたしの無骨丸は、横薙ぎに一閃した。彼の首を、振り上げた腕ごと、斬り落としたのだ。

 刹那、時間が止まったようだった。わたしにはそう見えた。

 時間は、ゆっくり解凍していく。まず家守定が下に落ち、それから右腕、左腕、最後に首が落ち、力を失い吸盤も吸着力を失ったのか、胴体もずるりと垂直の床を滑り落ちていく。

 わたしは殺したのだ、相手を。

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