第10話 風魔小太郎と四谷の乱
「ここじゃまずいね。表に出ようか。部屋の中の人間は、もう私たちが何をしていても気にならないだろうけど、外からのぞいたら、テスト中に立って歩き回ってるわけだからね。乗り込んで注意される。あんたも御主人様のテストのじゃまをしたいわけじゃないだろ?」
風間留美は扉を指差した。そして教卓のわきに無表情で立っている講師に告げる。
「先生、私たち、ちょっとトイレに行ってきます」
薄曇りのように微妙にくすんだ目で、講師はうなずいた。
教室を出て、トイレではなく階段へ向かう。屋上につながる階段には、立ち入り禁止のロープが張られている。ただ、何か危険があるということではなく、子供たちがこれ以上先に進まないように、ということのようだ。
留美はそれを気にせずまたいで向こう側へ。しのぶも続く。
そのまま階段を上がって扉を開け、ビルの屋上へ出た。
晴れやかな、空。
日曜の、のどかな午後。
だが、対峙する二人の間の空気は、張りつめている。
「さあ、ここなら誰にも聞かれない。あんたの素性を聞く前に、こちらから名乗るのが筋ってもんだね。お察しの通り、私も忍者だ」
一拍置いて、彼女は自分の名を告げた。
「二十五代目、風魔小太郎」
幻心香が効かない相手。そして気配を感じさせなかったこと。彼女が忍者であることはわかっていた。
そしていっしょにいる子の名前が北条。著名な戦国大名の名。
そうくれば考えられる名前は、風間ではなく風魔。
それも彼女のような傍流ではなく、堂々の本流。第二十五代だった。
ここに来るまでに十分予想していた。だがそれでも、しのぶは唇をかみしめる。
晴れた青空を背に、笑う少女。だがその笑みは可愛らしいものではなく、獰猛な肉食獣のそれ。ふだんは周囲にまぎれるために、おさえ込んでいるであろう殺気を全開にして待ち散らす、兵(つわもの)としての姿。
そこから受ける圧は、時子の見せるものと同質。まぎれもなく、しっかりとした修練を積んだ、手練れの忍びである。
「で、あんたは?」
小太郎はあごをくいと上げて、しのぶの答えをうながす。
「那須服部家のしのぶです」
相手の圧に負けてはいけないと、しのぶも毅然と背筋を伸ばした。
しのぶのその様子に、小太郎は楽しそうに口の端を上げた。
「伊賀服部の傍流の者か。最近となりのクラスに転校してきたんだよね。何が目的?」
「私は栃ノ木家に仕える忍びです。優様のおそば付きとして派遣されました」
「栃ノ木家ね。聞かない名前だ。いまだ忍者にお仕えさせている家なんて、そうは多くないんだけどね。で、その栃ノ木家のお坊ちゃんに仕える忍者さんは、何であんなことを? 御主人様のカンニングの手伝いなんて、ほめられたことじゃないと思うけどね」
これは、しのぶにとっては突かれたくないことだった。優はやりたがっていなかった。家の目的を果たすためとはいえ、その意に反することは、彼女も本意ではなかったのだ。思わず答えにつまり、絞り出すように言った。
「……手伝いではありません。優様はちゃんとご自分の力で問題を解くとおっしゃっていました。がまんできずに術を使ったのは私です。もういいでしょう。教室にもどります」
しのぶは相手に背を向けて、帰ろうとした。
しかし、その瞬間、扉としのぶの間に、すっと音もなく小太郎が現れる。一瞬でしのぶを飛びこえる瞬発力。音もたてずに着地する身のこなし。それらを当たり前のものとして身に着けている。一流である。
小太郎はしのぶの進路をふさぐ。
「おっと、そうはいかないよ。目の前で行われるカンニングを、おめおめと見逃すわけにはいかない。まあ、あんたもできない御主人様を持って大変だと思うけどね」
この言葉に、しのぶはカチンときた。
相手は北条家。歴史にも名を残す名家。そしてその側につくのは風魔小太郎。こちらも歴史上比類のない大忍者。対する栃ノ木家は地方の小大名として歴史に埋もれた家。那須服部家も、大忍者、服部半蔵と名は繋がっているけれど、しょせんは傍流。戦国の世に主を失いさまよったところを、栃ノ木家に救われた。
以来四百年余り。受けた恩をお返ししようと、その想いを忘れずに来た。
確かに彼女の主は勉強ができ、多分それこそ全国でも有数の私立中学に通い、東大に行くのかもしれない。確かに優は全国大会に行くほどの成績は取れないのかもしれない。
それがまるで、戦国の世から続く格のちがいを表しているようで、くやしかった。
そのくやしさが、彼女に火をつけた。
「どいてくださらないのであれば、力ずくでも通ります」
優が母と同質と感じた、しのぶの忍びとしてまとう殺気が、周りの空気を圧縮する。
「ふーん」
それを感じた風魔小太郎は、楽しそうにニヤリと笑った。
「お手並み拝見」
しのぶの手には、いつも隠し持つ棒手裏剣がにぎられていた。
小太郎の手にも、いつのまにかクナイが一本。
二人の間に緊張感が走る。
お互い、相手を傷つけるわけにいかないことはわかっている。下手に切り傷、刺し傷をつけて、血をだらだらと流し合うようなことになったら、おおごとになってしまう。おたがい、おのれの主君のテストのじゃまはできない。得物を取り出したのは、にぎり込んで打撃力を高めるためと、相手へのけん制。
後ろの扉を守り、カンニングを防げば小太郎の勝ち。小太郎を倒してしばらくの間動けないようにして、教室へもどり優に答えを教えればしのぶの勝ち。
いかに相手を出し抜くか。忍びとしての勝負である。
お互いじりじりと間合いをつめる。
太陽は春を過ぎ、夏が近づくことを知らしめるように、鋭い日差しを浴びせる。
だが、まだ夏とは言えない季節の空気は、じんわりと温かく、青空にさえずる鳥の声とともにのどかな雰囲気を作り出す。
二人の間以外では。
しのぶと小太郎、二人の間の空間は、放たれる殺気にゆがむようだった。
険しい顔でにらみ合う二人。その動きはほとんどない。だが、その実、細かい動きで相手をけん制している。
しのぶの右手がぴくりと動けば、小太郎の左手が応じて動く。小太郎の重心がわずかに右に動けば、しのぶの重心もわずかに右に寄る。
細かいけん制で主導権を取ろうとする二人。
そしてまるで示し合わせたかのように、同時に動いた。
鋭い突きを打ち込むしのぶ。
それをかわす小太郎。
進路上にいた相手を動かして、すかさず扉へ近づこうとするしのぶを、背後から飛びこえ、くるりと宙で身をひねって着地。小太郎がまた妨害する位置を取る。
わずかに先ほどより間合いが近づいたことを見逃さず、しのぶはすかさずもう一度、右手の突きを打ち出す。
だが、小太郎はその右腕を払って外に回ると、そのまま右腕を後ろ腕に絡めて極めにきた。関節を極めて動けなくしてしまえば、そのまま十分ほどじっとしているだけで、小太郎の勝ちである。
それを察知したしのぶは、外に回る相手についていき、関節が極められるのを防ぐ。さらに身を投げ、くるりと地面に転がって、相手の技から逃れる。
追って押さえこんでしまえば勝ちとばかり、小太郎が間髪入れずに後を追うが、しのぶは転がる勢いを殺さず立ち上がり、側転を二発、間合いを取り直す。
くるりと小太郎が振り向いた時には、また扉へ向かおうとしていた。
だがこれは誘い。しのぶの進路を妨害せねばと小太郎が走りだそうとした瞬間、しのぶは身をひるがえしてこちらに突進。交差するように突きを繰り出す。
それをきわどいところで飛び上がり、くるりと空中で一回転して、小太郎は難を逃れる。
このような激しい攻防が、息つくひまもなく繰り広げられた。
しかも、このような常人離れした動きもさることながら。
本当にすごいのは、これだけの動きでありながら、ほとんど物音がしないことだった。
ここは屋上。階下には教室があり、そこでは今、試験が行われている最中。そこで天井からどったんばったん大きな音がすれば、何事かと試験監督の講師が見回りに来るだろう。それは忍びの者として避けなければいけない事態。隠密に事を運ぶことを旨としているのだ。
だから二人は、完全に音を消し、気配を消して立ち回る。格闘家であれば、大きな声とともに打ち込むところも無音。走り回る足音も、たくみな運足により無音。飛び跳ねる着地の音さえ、完璧に衝撃を吸収して、無音でこなすのだ。
お互い、その身のこなしで、相手の力量がかなりのものと知る。忍びの者として気配を消して戦えるのは、一流の証。腕は互角であった。
だが、互角では、この勝負、しのぶが不利だった。
しのぶの勝利条件の方が難しいからだ。
小太郎は、しのぶを教室にもどさなければ勝ちである。あと十分、扉へ向かう進行方向をふさいでいてもいいし、組みついて抑え込んでしまってもいい。
それに対してしのぶは、小太郎の行動力を適切にうばい、教室にもどってカンニングを成功させなくてはならない。この「適切に」というのが、難儀なのである。
例えば、これはお互いの暗黙の了解になっているが、相手を負傷させて戦闘力をうばうわけにはいかない。お互い忍びの者としての矜持に懸けて、事を隠密に運ぼうとしている。手に武器は持っているが、切りつけたり刺したりするわけにはいかない。出血はご法度。さわぎになってしまう。
武器を持っているのは、柄の側を打撃に使う、もしくはにぎり込んで突きの威力を増すためだ。その打撃も、顔や腕など、外から見えるところには打ち込めない。こちらも大きく内出血でもすれば、さわぎになってしまう。
かといってしのぶは、小太郎のように、関節技や抑え込みで相手を動けなくしても意味がない。自分もその場から動けないからだ。自分が教室に帰る、しかし、相手は動けない、という状況を作らなければいけないのだ。
考えられる方法は、強烈な打撃を腹部に打ち込み、小太郎を一時的に行動不能にしている間に教室にもどる、というもの。
なので先ほどから、腹部をねらった突きを織り交ぜているのだが。
小太郎としては、ねらわれる場所が絞り込めているので、防御しやすい。
何度ねらっても、打撃は決まらない。かわされてしまう。
しのぶにあせりの色が見え、逆に小太郎に余裕が生まれた。
そこがねらい目だったのだ。
何度目かの、腹部をねらった突きが放たれる。小太郎がそれを両腕を交差させて上から打ち落とす。小太郎の目線が下がる。
執拗に、そして単調に放たれ続けた腹部への突き。それは撒き餌だった。小太郎の意識に刷り込むため。
腹部への攻撃しかないと、刷り込むため。
しのぶの逆の手が顔面へと向かう。見てわかる戦いのあとは残せない。だから顔面攻撃はないはず。ひたすらに続く腹部への攻撃によって、小太郎の強化された思い込みが、対応をほんの一瞬遅らせた。
だがしのぶも、顔面を殴れないことはわかっている。
顔の前、寸止めで突きは止まった。
そしてしのぶはぎゅっとこぶしをにぎり込んだ。
指の隙間から、ぼふっと粉末が噴き出す。
にぎり込んだのは薬袋。吹き出し口からねらった方向に飛ぶ、いわゆる隠し武器、暗器である。
噴き出したのはしびれ薬。吸ったとたんに効く、即効性の代物だ。
それを吸った小太郎は、すぐに自分の身体に異変を感じる。身体の力を失い、自由が利かなくなる。
はずだった。
だが、小太郎は立っていた。
先ほどのしのぶのあせりは演技。あせって単調な攻撃になっていると小太郎に思わせて、腹部への突きを強調するためのものだった。
だが、今度のあせりは本当だ。屋上へ呼び出されたとき、この展開になるかもしれないと予想して、鞄の中に常備している暗器の一つ、薬袋を持ち出したのだ。これがしのぶの切り札で、これが決まってくれないと、打つ手がない。
「あせってるみたいだね」
それをずばりと小太郎に言い当てられる。
「幻心香は、私に効かなかった。対毒性をきたえてあるからね。このしびれ薬も、当然効かない」
そんなことがあるだろうか。
幻心香が効かなかったのは、小太郎が術の正体にすぐに気づいて、対抗措置を取ったからだと思っていた。そもそもすべての毒の効かない身体にきたえる。そんなことが可能なのだろうか。
それとも、自分の家とちがって、正統な風魔の継承家である小太郎の家には、古の秘術があるのだろうか。
「迷っているね」
また、小太郎に言い当てられる。
「風魔本家であれば、自分の知らない古の秘術があるかもしれない。そう思っているんだろう」
ポンポンと小太郎に心の内を言い当てられて、しのぶはうろたえた。
「もちろん、当然……」
小太郎は楽しそうに、しのぶの顔を見つめる。
「うそ」
ぺろりと舌を出して、そう言うと、小太郎はあおむけにくずれ落ちた。
「なかなかやるね、あんた」
倒された小太郎が、空を見上げたままつぶやいた。
「だが、私たちは忍者だ。武芸者じゃない。忍者はとにかく、ありとあらゆる手段を使って任務を果たすことこそ本懐」
ニヤリと笑った。
「時間」
しのぶにもわかっていた。
この勝負、小太郎の勝ちだ。
「はったりで、最後の一分かせいだからね。もうテストが終わるよ。カンニングはできなかったね」
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