第9話 小学生全国統一テスト

 小学生全国統一テスト。

 大手塾が主催する小学生向けのテストだ。他の塾も参加して、日本最大の開催規模を誇る。内容的には、文部科学省が定める小学生の指導要領から、一応は逸脱はしておらず、中学受験の勉強をしていないふつうの小学生でも受けることが可能。年二回、一斉にテストを行い、成績優秀者を招いた全国大会も行われる。

 卍丸が調べた情報を教えてくれた。

「なるほど。つまりこのテストを制覇すれば、この年代の覇権をにぎることができるというわけですね!」

 しのぶは目をらんらんと輝かせてにぎりこぶしを作った。ふんすか、ふんすか、鼻息も荒い。もうやる気満々だ。

「ちょっと待ってよ! さっきテストを見せたみたいに、僕はそこまで頭よくないよ! 全国の覇権を取るなんて無理!」

 それに対して優は両手を体の前でぶんぶんと振る。だらだら、だらだら、冷や汗が出る。否定するのに全力だ。

 これが今までで、ある意味一番無茶だと思った。

 確かに、暴力で地域を従わせて、それを広げていき全国制覇なんて、ヤンキー漫画じゃないんだからというような話だし。

 ユーチューバーとして人気者になり、その知名度でもって国会議員に当選、総理大臣になるという話も、現実にはなかなかないだろうと思う。

 しかし、今回は勉強の話。いつもやっていることなのだ。

 体験したことがなく現実味のないこれまでの話とちがって、困難さが手に取るようにわかる。

 そもそも、優はクラスの中でほどほどの成績。自分より頭のいい子を挙げろと言われれば、すぐに何人か思いつく。当然、となりのクラスにも何人もいるし、他の学校にも何人もいるだろう。他の町にも、他の県にも……。

 そうやって広げていったら、自分より頭のいい子なんて、全国にいったい何人いることか。「ごまんといる」という言い方があるが、本当に五万人はいるはずだ。

 それを全員追い抜いて、全国の頂点に立つなんて、絶対無理。

 その今までにない確信のもと、優は全力でおよび腰となっていた。

 しかし、そんな優をしのぶは一喝。

「何、弱気なことを言っているのですか!」

 しのぶは力説する。

「そもそも全国の頂点に立とうというのなら、その道は険しくて当然です。万人に可能なことではない、まさにたった一人しかたどり着けない、そういう崇高な頂なのです。だからこそ、その挑戦には価値がある。だからこそ、私たち那須服部家が全てをささげ、栃ノ木家を支えようとしているのです。困難であるという、当たり前のことをなげいても時間のむだです。その困難をいかに乗りこえるか、考えなくては」

 しのぶには逆に作用しているのだと、優は気づいて、青くなった。

 しのぶにとっても天下統一は具体性のある夢ではなかった。家の使命と言い聞かされて育ち、そのまま信じ込んでいただけで、何をすればいいのかのイメージはなかった。だからこちらに来て実際にやるとなってから、あっちを試しこっちを試しと試行錯誤におちいっていたのである。

 だが、この場合は、勉強だ。優と同じようにしのぶにも、いつもやっていることなのでなじみがある。具体的に想像できる。

 そしてしのぶは勉強ができる。優が苦戦したテストも満点だった。

 全部百点を取れば、当然全国一位。しのぶには、一見無茶に見えるその百点満点を取るイメージが、手に取るように細かに想像できるのである。

 これは今までで一番の、本当にやる気満々の状態だ。

 この状態のしのぶからは逃げられない。きっと逃がしてくれない。

 心の内が出たかのように、しのぶはずずいと膝を進めて、優の方に身を乗り出した。近い。近いよ。

「そのテストまでに、まだ時間はあるのですよね」

「う、うん、あと二週間ぐらいある」

「でしたら当然、特訓です」

「えっ?」

「私と卍丸で、優様を全国をねらえるレベルまで引き上げてみせます!」

「えーっ!」

 こうして全国制覇を目指した特訓が始まった。


「おはようございます、優様。朝ですよ、起きてください」

「う、うーん」

「本当に、優様はねぼすけさんですねえ。さあ、起きて。お勉強の時間です」

 しのぶが優しく優をゆり起こす。身をかがめて、布団を胸元からまくる。その時、後ろに束ねたポニーテールが落ちてきて、ふわりと優の顔の前でゆれる。鼻をくすぐる、シャンプーのいいにおい……。

 優はここであわてて目を覚ます。

「だ、だいじょうぶ! 起きた! 起きたから!」

「おはようございます、優様。さ、お顔を洗ってきてくださいませ。朝のお勉強の時間です」

 にっこりとほほえんで、しのぶは告げる。

 寝起きの悪い優は、いつもお母さんに起こされていたのだけれど、小学生全国統一テストのための特訓をすると決まった日から、それはしのぶの役目となった。時子はみんなを起こす前に朝の訓練を一通りこなしていたが、今はしのぶもそれに付き合っている。帰ってきて、シャワーを浴びて、優を起こす。時子から引き継いだしのぶの日課となった。

 お母さんに起こされるのはいいけれど、同じ年の女の子に起こされるのは恥ずかしい。優の寝起きはすっかりよくなった。

 それには卍丸の功績もある。卍丸は今も、優の部屋で枕元に待機していた。

 いつも朝起きられない優を、いかにすっきり目覚めさせるか。特訓はその段階から始まっていた。何をされちゃうんだろうとおびえる優に、卍丸は告げた。

「何も力づくで起こそうというわけではございませぬ。人間には睡眠のリズムがあり、浅い眠りと深い眠りを繰り返しておりましてな。眠りが浅くなったところで起こせば、目覚めがいい、というわけでござる」

 NASUテクノロジーズでは、高齢者の使用、野外での使用を念頭に置いて、パワーアシストスーツに使用者の脈拍、呼吸、脳波などのバイタルサインを計測する機能も付けている。使用者の異常を一早く検知しようというわけだが、戦闘に使用することも考えた卍丸にも当然その機能が付いていて、それを利用すれば優の眠りの深さを測定することができるのだ。

 当初、優はこれにはちょっと抵抗した。だって自分の寝ている脇に、卍丸がどんと控えているのだから。

 だいぶ慣れたとはいえ、卍丸の姿は異様である。血のような赤に塗られた鎧武者。しかも顔は般若の面だ。目の部分は実はディスプレイになっているので、検索時にはマークがくるくる回っているし、人とコミュニケーションをとる時には、そこにニッコリ目とかを表示している。だが、何もない待機中であれば、真っ黒で暗い穴が開いているよう。

 夜の部屋の暗がりで、寝ているベッドからそんな卍丸を見上げると、どんなホラー映画なのと言わんばかりの雰囲気がある。そんなものが枕元にいて、安眠できるわけがない。

 しかしこれも最先端の科学を応用した現代忍術で解決した。誘眠香というお香を焚くことにしたのだ。一種のアロマテラピーだが、潜入時に敵兵を起こさないようにするもののため、その効果は抜群。もともと優も寝つきが悪い子ではないので、あっという間にぐっすりだ。

 深く寝たあと、浅くなるタイミングを見計らいすっきり起きる。特訓と言っても、ただ無茶をすればいいということではない。忍者はそもそも、任務遂行のためには、ありとあらゆる知識を使い万全を期す者たちだ。脳も筋肉と同じく身体の一器官。勉強に最高の効率を求めれば、アスリートばりのコンディショニングは必然となる。まずはその第一歩の睡眠管理。万全である。

 そしてここから特訓が始まる。朝起きて、まず頭の体操。簡単な計算問題を解いて試運転。ほどよく温まったところで本格的な勉強に入る。朝食の支度ができるまでのそう長くない時間だが、時間の有効利用もまた、最高の効率を求めるのならば重要なポイントだ。

 よく寝て、すっきり起きて、朝勉をして学校へ。帰ってきたらさらに勉強。毎日これの繰り返し。地味で当たり前で、奇をてらったことも華やかさもないけれど、これが小学生全国統一テストに向けた特訓だ。

 しのぶの優天下統一計画にはひたすら反対だった時子だが、今回については喜んでいた。

まずは単純に、優がきちんと朝起きるようになったこと。朝のいそがしい時に、ぐずぐずなかなか起きない生活をずっと繰り返していたのだが、しのぶと卍丸のおかげでスパッと起きられるようになった。

 そしてその天下統一の手段が勉強だということ。政治家になって総理大臣にという部分には、変わらず優は性格的に向いていないと反対なのだが、卍丸の読み通り、その前段の目指せ東大は喜ばしいことだったからだ。

 絶対東大に行ってほしいというわけではないが、勉強するのはいいことだ。子供の本分はよく遊びよく学ぶことである。特訓なのでちょっと勉強ばかりになっているが、それもこの二週間のこと。できればこのあとも朝勉は続けて、ほどよく勉強を続けてほしいと思っていた。

 さらには卍丸の、意外な活躍である。

「つまり、動く人が二人いる場合、速さを合体させてしまえば、ふつうに速さの公式で解ける、というわけでござる」

「なるほど、意外に簡単だね」

「近づく場合はより速く見えるので足す、追いかける場合は遅く見えるので引く、というのがポイントでござるよ」

「ふんふん」

 最初は優よりも勉強ができるしのぶが教える予定だったのだが、意外にしのぶは教えるのがうまくなかった。まあ、これはよくあることである。優秀な生徒が優秀な教師になるとは限らない。スポーツにも「名選手名監督にあらず」という格言があるように、立場によって必要な能力は変わるからだ。自分が理解することと、人に理解させることはちがうのである。

 特にできる子は、自分は一度聞いた時点でぱっと直感的に理解できていたりするので、それを構造的に分解して、できない子にステップバイステップで説明することができなかったりする。本質的でまず理解しなければいけない重要な要点がわからないのである。

 その結果、優の特訓はいきなり頓挫しそうになった。

「僕が頭悪いせいだね、ごめんね」

「い、いえ、そんなことはございません! 優様が悪いなんて、そんな……私です! 私が説明が下手なので、ご迷惑をおかけして……」

 聞けば聞くほど混乱していく優が謝り、それに対してしのぶが土下座の勢い。そんな真っ暗闇の地獄に現れた救世主、それが卍丸だった。

「少々お待ちくだされ。これは少し時間が必要でござる。なに、その間にお茶でもお飲みいただき、くつろいで休憩なさっていてくだされ」

 そういうと、瞳にくるくるマークを浮かべ、動かなくなった。

 一時間ほどその状態で、ようやく動き出した時には、超優秀な家庭教師となっていたのである。

「拙者のAIは、ネットに接続し、そこのデータから深層学習ができるように設計されていますからな。今はネット上に解説サイトもたくさんありますし、それに、有名講師の授業の様子が上がっていたりしましてな。そこから授業法を学習したのでござるよ」

 この話に食いついたのは、勉強の様子をのぞくついでにおやつを持ってきた時子だった。

「えっ、じゃあ、今、卍丸君は有名な先生と同じように教えられるってこと?」

「そういうことでござる」

「すごいじゃない! 追加料金なしで、勉強教えてもらい放題ってことよね?」

「もちろんでござる。栃ノ木家を手助けするのが、拙者の使命であるが故」

「私、今、初めて兄さんを本気で尊敬しちゃった! そんな素敵なものを作っただなんて! これからは一家に一台卍丸君の時代だわ!」

 時子は大喜びで、卍丸の首っ玉に抱きついていた。父の評価が上がったのはいいとして、その前は人生で一度も尊敬してもらえない低評価だったことを知り、しのぶは複雑な気持ちだったのだが。

 しかし、しのぶの目から見ても、優の勉強は見る間に順調になり、これはうれしいことだった。自分が教え切れなかったふがいなさはあるが、とにかく栃ノ木家のお役に立つのが大事なのである。

 そして優も、この事態がうれしかった。

 これだけ集中して勉強するのは人生で初めてだった。でも、それだけの効果が出ている。まだ一週間だったけれど、わかることが増えてきたと実感できる。難しく見える問題が、すいすいと解けた時にはこんなに楽しいんだと、初めて知った。

 それに、この環境もよかった。

「正解。優殿は天才でござるな!」

「すごいです、優様! これで全問正解です!」

 教える卍丸も、そばでいっしょに勉強しているしのぶも、優が正解すると惜しみない賛辞を送ってくれる。

 卍丸の大げさな賛辞は、ある意味小学生に対する教授法のテクニックなのだが、それだとしても優は気分がよくなった。人の脳には報酬系という回路があり、簡単に言ってしまえば、気分がいいとやる気が増すのである。

 そして何より、しのぶである。本当にわがことのように喜んでくれるのだ。ぱっと表情を輝かせ、心の底からうれしそうに拍手してくれる。実際、優の能力が上がれば、それだけ念願の天下統一に近づくわけだが、それだけではない。時に突拍子もない行動を取らせるほどの、素直な性格ゆえの、本心からの言葉。優には何よりこれがうれしかった。

 しのぶの願いに付き合っての天下統一。優にとってはまったくモチベーションのない話だった。だが、ここに来て初めて、しのぶがこれだけ喜んで、あんなうれしそうな表情を見せてくれるなら、しのぶのためにがんばってもいいかなと思い始めていた。

 ただ、どう考えても二週間では間に合わないだろう。何しろ塾に通っている子の中には、こんな生活をずっと何年も続けている子がいるのだ。

「やっぱり、二週間ぐらいじゃどうしようもないね」

 点数は確かに上がっているのだが、卍丸の作った模擬テストをやってみると、全国をねらえるような高得点にはまだまだ遠い。優がちょっと弱音を言い出したところ、しのぶはなぐさめるように言った。

「だいじょうぶです、優様。いざとなればいろいろ手はあります。例えば、テスト問題は前日までに会場に搬入されているはずです。忍び込むのは造作もないことです」

「ちょっと! それカンニング! やっちゃいけないこと!」

 優の反対を聞いたしのぶは、えっ、それでは勝ち目がありませんよ、という絶望的な顔をした。

「ちょっとやめて。自分でもわかってるけど、そういう顔されると傷つくから」

「それでは優様、こういうのはどうですか。私が使っているこの眼鏡はスマートグラスです。これを優様にお貸ししますから、問題を外の卍丸に送って、解いた答えを送り返してもらえば……」

「それもカンニングだから! やっちゃダメなやつだから!」

「え? ではこれはどうでしょう。このシャープペンシルには、中に小さな慣性ジャイロが仕込まれています。これはこちらのシャープペンシルと連動していて、同じ動きを伝えるようになっているのです。つまりですね、私の解答の動きを優様に伝えることができるので、そのまま書き写していただければ……」

「だからそれもカンニングだってば!」

 このように、時に脱線しすったもんだしながら、それでも優は二週間の特訓に耐え、当日を迎えた。


「おっす優、服部さんも」

 同じクラスの谷口春馬(たにぐち・はるま)が、優としのぶを見つけて歩み寄ってきた。優がチラシをもらった相手で、今日のテスト会場になっている、この塾に通っている。

 今日は本番。小学生全国統一テストの日。

 この塾は駅近くのビルに入っている。いつも子供たちが通っているのは見かけていたが、今日はそれとは比べ物にならない、おおにぎわい。たくさんの受験生が集まっていた。優のクラスの子も何人もいる。

「タニ、これこれ。掲示に成績いい人で出てる。すごいじゃん」

 優はちょうど見ていた廊下の掲示を指した。知った名前があるのに気づいて、ながめていたのだ。

「えっへん、まあね。こないだのテストは調子良かった」

 春馬はうれしそうに胸を張る。優がしのぶに言った「何人かいる塾に通っている友達」のうちの一人。「すぐに何人か思いつく、自分より頭のいい友達」の一人でもある。この塾には小学三年生から通っている古参。来春、私立中学受験予定だ。

「一人、ずば抜けてすごい成績の子がいるね」

 優は掲示されている表を見ながら言った。表はこの塾での成績上位の何人かを載せているのだが、その子は国語、算数、理科、社会、すべての教科でトップ。当然、二科目もトップ、四科目もトップだった。

 そもそも最初にこの表が気になったのは、四教科と書かれた欄に五百三十四点という、おかしな数字が書かれていたからだ。四教科なら四百点満点ではないのかと、それでのぞき込んだ時に、春馬の名前を見つけたのだった。

「優は同じクラスになったことなかったっけ。となりのクラスの子だよ。北条さん。あの子はマジで天才。一番難しい学校も楽々受かると言われてるよ」

「へー、そんなすごい子なんだ」

 優はその点数をもう一度ながめた。四科目で五百点をこえているのは、きっと百点満点じゃないからだ。算数が百九十二点となっているから、二百点満点なのかな。そうすると国語の百四十六点はまあまあ? 理科の百点は半分しか取れていないということ? でも、春馬はマジで天才と言っていたし、テストがすごい難しいのかな? 優は首をひねっていた。実は課目によって満点がちがい、五百五十点満点だと知るのは、だいぶ先になってからだった。

「あ、あの子だよ」

 優としのぶは春馬が示した方を見た。小柄な大人しそうな女の子と、歩き方だけで元気そうだとわかる女の子の二人組が、教室に入っていくところだった。その教室は優たちも受験する部屋だ。

「小さい方が北条綾奈(ほうじょう・あやな)。元気なのが風間留美(かざま・るみ)。二人とも、となりのクラスだね」

 春馬の声は相手には聞こえないように小さくしぼられていたが、それでも聞こえたのだろうか、風間留美と紹介された子が、ちらりとこちらを向く。しのぶと目が合う。その刹那。

 風間留美は、すっと目を細めた。

「おっと、そろそろ時間だな。がんばれよ」

 春馬はそう言って自分の教室へ向かっていった。優としのぶも教室に入る。

 その部屋には、二人のようにふだん塾に通っていない子と、春馬のような塾生の子が混じっていた。緊張感のちがいでわかる。塾生の子たちは、なじみの顔になじみの教室なので、リラックスムード。北条綾奈と風間留美も、他の塾生の子と談笑している。

 自分たちの席に向かうため、優としのぶはそのわきを通る。

「ごめんなさい」

 机の間の通路が狭く、しのぶは一言声をかけた。談笑してじゃまになっていたことに気づいた塾生が、頭を下げて道をゆずる。その向かいの席に座っていた風間留美と、しのぶはまた目が合った。

 相手がすっと素早く、しのぶの全身に視線を走らせたことに気づく。

(なんだろう?)

 特に話しかけられるわけでもないのに、値踏みされるような視線に、しのぶは違和感を覚えた。となりのクラスというから、廊下ですれちがうぐらいはしていると思うが、特に話したことはない。自分は相手を知らなかった。でも、しのぶの方は初日の失態で、クラスの中では、優とお家の決めた許嫁カップルとして、女子たちにいじられる存在になってしまっているので、噂が届いているのかもしれない。

 そう考えるとしのぶはちょっと憂鬱になった。だが、今日は重要な任務の本番。小学生全国統一テスト。優の覇道の第一歩となるべき日だ。

 些細なことにわずらわされているべきではないと、しのぶは気合を入れ直した。

 優としのぶの座席は縦に並ぶ形。前の方から受験番号順に並んでいるらしい。

「緊張するね」

 前の席の優が振り向いて、こそっとつぶやいた。

「だいじょうぶですよ、優さ……優君。しっかり勉強してきましたから」

 学校の友達がいるところでは、優様ではなくて優君。初日の失敗以来、そう心がけているのだが、どうもまだ慣れない。その結果、学校で呼びかけるたびにもじもじと恥ずかしがることになり、そのいつまでたっても消えない初々しさが、女子たちの格好の燃料になっている。

「みなさん、おはようございます」

 時間になった。塾の講師が教室に入ってきて、あいさつ。まず解答用紙を配る。解答用紙はマークシート方式。いつもの学校のテストとはちがう。自分で答えを書くのではなくて、番号の所を塗りつぶしていく方式だ。何しろ十数万人の子供が受けるテストなので、採点はコンピューターによって行われる。そのための方式なのだ。

 まず最初の時間にマークシートの塗り方の説明。はみ出さず、塗り残しなく、きちんとやらなければコンピューターが読み取ってくれない。そんなことを言われると、ただでさえ慣れていない場所での慣れていないテストだというのに、ますます優は緊張してしまう。

 後ろのしのぶは、ていねいに塗りつぶそうと、力んでこわばった優の後姿を見て、ちょっと心配になる。天下統一ということだけではなく、がんばった優にはいい結果が出てほしい。力を出し切れますように。

「それではテストを始めます。筆記用具の準備はいいですか。……始めてください」

 講師の合図に問題用紙を開く。とりあえず二週間だが、一生懸命勉強してきた。その成果を見せなくてはと、優は意気込んで問題を読み始めた。

 テストはしずしずと進んだ。小学校のテストよりもやっぱり難しく、首をひねる問題が多かった。それでも前に受けた時よりは、ちゃんとできているような気がする。

 優は手応えを感じていた。

 その後の席に座っているしのぶは、不出来に眉をひそめていた。自分自身のテストではない。優のテストである。

 答案を直接見ることはできない。しかし解答用紙の位置と後ろから見る優の腕の動きを見れば、どこを塗りつぶしたのか、訓練されたしのぶの目には一目瞭然なのだ。

 その様子を見ていると、本人的には調子がいいのだろうが、全国大会へ進めるレベルかというと疑問が残る。さっき春馬は、この部屋にいるとなりのクラスの子、北条綾奈は天才だと言っていた。そう聞いて気になったしのぶは、彼女の動きも観察しているが、あの子が満点近い点を取るのだとしたら、優はそこからだいぶ劣る。

 ギリギリでいいから決勝大会に進んでくれれば、まだ対策を打つ時間が取れるのだが。

 次は最後の国語のテスト。ここが一番問題だ。

 他の科目はここ二週間の特訓で、小なりとも成果が出ている。しかし国語は特訓が効かない教科だ。ふだんの読書量が読解力の土台となり、じわじわとしか伸びない。解き方を一つ覚えればその問題は解けるという種類の教科ではないのだ。

 しかも優は研究者である父の血を引いたのか、どちらかというと理系タイプのようで、算数よりも国語の方が苦手だった。

(優様はカンニングはよくないと、私の提案をことごとく却下されていましたが、ここに至ってはもう仕方ありませんね)

 しのぶは覚悟を決めた。

 国語のテストまでの短い休み時間。しのぶはそっとカバンの中に手を伸ばし、そこから取り出したものを机の中に隠した。

 問題用紙が配られる。

「後ろまで行きましたか。それでは始めます」

 その言葉にみなが一斉に動きだす。その動きにまぎれて、しのぶは机の中に入れた缶についたひもを引く。

 じわりと缶が温かくなり、ほのかな香りが漂い始めた。

 幻心香。

 時子に一つ没収されたけれど、予備を持っていたのである。

 この香りをかいだ人は、暗示にかかりやすい状態になる。例えば何かが見えているのに見えていないように思い込ませることができるし、何かをするように行動を指示することもできる。

 つまりしのぶは、優に言うことを聞かせ、答えを教えてしまい、かつ周りの人たちはそれが聞こえても気づかない状態にしようとしているのである。

 この香の利点は、人の動きをすべてさまたげるわけではない、というところだ。脳の一部の機能に影響して、その他はそのまま。特に日常的に慣れている行動なら、いつも通りに行うことができる。能力的にも下がることなく、例えばのろのろと動くというようなことはない。

 みんなが慣れている、テストの問題を解く、という部分には支障がないのだ。これが全員眠ってしまうようなものだったら、このクラスに異常事態が起きたことがわかってしまう。だがみんなテストはふつうに解けているので、しのぶが何かやったという証拠は残らない……

 はずだった。

 十分に効果が広まったところを見計らって、そろそろ優に答えを教えてしまおうとした時。


「いけないなー、カンニングなんて」


 しのぶのとなりに、立つ姿が一つ。

 先ほど春馬が、となりのクラスの風間留美と紹介した女の子だ。

 だがこの少女は、ふつうではない。

 しのぶにまったく気取らせず、となりに立った。

 そして、幻心香の効果が表れていない。

 さらに、幻心香の効果を知っている。

 こんなことが、できるのは。


「あんたの気配、只者じゃないと思っていたけど、当たりだ。あんたも忍びだね」


 そう相手も忍者だった。

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