第6話 正心と世襲議員とノーベル賞
「えー? 総理大臣になるって、いったいどうやって?」
やはりしのぶの言うことが突拍子のないことのように聞こえて、優は思わず声を上げた。それに答えたのは、そこまで脇に控えていた卍丸だった。
「そこは拙者にお任せくだされ」
卍丸が姿勢を正し、ピタリと動かなくなった。顔を見ると面の目の所に、くるくると回るマークが出ている。どこかで見たことがある。
「これはよく、スマホやパソコンで見かけるやつ?」
「卍丸のAIは、ネットに接続することができて、何でも調べることができるんですよ。深い階層まで一気にクロールして調べてくれるので、自分で調べるよりずっと早いんです」
「へえ」
スマートスピーカーみたいなものだろうか。なかなかそれは便利そうだ。
「うむ、出ましたぞ。内閣総理大臣、通称首相は、議員の中から国会の議決によって指名されるとありますな」
「なるほど、まず国会議員にならなければいけないということね」
「それが最低条件ですな。そして、国会で指名されるということは、多数決で決まるということ。基本的に政権政党の支持がなければいけません。つまり党内の実力者でなければいけないということです」
「ふむふむ」
優もいっしょになってうなずいた。これはけっこう勉強になる。
「さらに言えば、党内で権勢を得るのは、そう簡単なことではありません。長い時間もかかります。実際、最近十人、ここ二十年とちょっとになりますが、その総理大臣の経歴を調べると、六人は父親が国会議員。父親はちがうけれど祖父が総理大臣という例もありますな」
「なるほど」
「政治地盤をしっかり固めるのに、それだけの時間がかかるということでしょう」
「ある意味、世襲制ということね。昔の大名と同じね。なんだか天下統一という言葉にふさわしい感じね」
しのぶは納得顔だが優は首をひねった。日本はもう封建制の国ではない。しのぶは家のしばりが強い家庭に育ったので、世襲制に対して違和感がないようだが、生まれでそんなに総理大臣になるチャンスが変わってしまうのは、ちょっとちがうような気がする。息子が親と同じように有能とは限らないわけだし。
そんなことを考えていたら。
「名家三代続かずと言いますし、三代目が会社を潰すととも言いますし、まあ総理大臣にまで上りつめる人はちゃんと有能だったとしても、その他の世襲議員は気になりますな。ただ、日本の場合、その他にもタレント議員のような芸能人やスポーツ選手など、顔が売れているだけの、資質に疑問が残る人がどんどん当選しておりますのでな。世襲だけが特に悪いとは言えますまい」
かなり辛辣な物言いを卍丸がさらりと口にした。日本はだいじょうぶなのかなと、優は子供心に不安になる。
「さてとそうすると、いかがいたしましょうか。総理大臣になるには先代の政治基盤をそのまま受け継いだ者が強いという結果になっているわけですが、今さら議員の息子に生まれ直すわけにもいきませんし、他の方法を……」
「いえ、ちょっと待って」
次の検索にかかろうとした卍丸を、しのぶがとどめた。何かひらめいたようだ。
「小学生がすぐにも総理大臣になれるわけがないじゃない。つまり、二十年、三十年先の話になるのよね。そしたらまず、先におじさまに議員になっていただけばいいのでは」
「なるほど、次の選挙に当選し、何選か続けて党内の地歩を固めてから、優殿に引き継げばよいということですな。確かに日本の戦後最年少の大臣も三代目。地盤を引き継げるのは非常に有利でござる」
「栃ノ木家の復興という意味でも、大切なことよね! これはおじさまにもご協力をいただかねば!」
すばらしい計画を思いついたというように、しのぶはうきうきとした顔を見せていた。
だがしかし、その前には強大な壁が立ちふさがっていたのである。
「だめです。康弘さんにそんなことをさせるなんて、この私が許しません」
時子であった。
しのぶの前に仁王立ち。まさに仁王様のような大迫力。
ああ、これだと優は思った。
学校の一件で、しのぶが時子に似ていると思ったやつ。絶対に許さないレベルでお母さんが怒っている時の、身も凍るような雰囲気。やっぱり本家はさすがであった。しのぶもなかなかであったが、それをはるかに上回る。優は矛先が自分に向かないように、おとなしくちょこんと座って、小さくなっていた。
しのぶはそういうわけにはいかない。自分の使命がかかっている。時子の迫力に気おされつつも、必死に己を奮い立たせて食い下がる。
「なぜですか、おばさま。これはそんなに無謀な話ではございません。今この家には、私とおばさまという忍びが二人もいるのです。もともと情報戦は忍びの仕事。各国に忍び入り情報を集めるだけではなく、噂を流して戦を有利に運ぶ。そういう仕事をしてきたのではありませんか。おばさまは那須服部家でも出色の忍びであったと父に聞いております。私たち二人の力を合わせれば、おじさまの良い評判を市中に流し、逆に相手をデマで失脚させるなど、造作もないことはありませんか」
なんかサラリと黒いこと言ってると、優は思った。
「だめです。勝つ負けるの話ではないの」
時子はかたくなだった。当初から、天下を目指すのに反対しているのだから、一貫している。ここがしのぶと時子の対立点である。
「康弘さんは政治家なんかには向いていません。きれいな建前を言いながら、下心と利権と権力争いで足の引っ張り合いをしている、まるで見通しの効かない、下水の流れ込むどぶ川みたいなところで、腹芸を駆使して渡り歩いていくような、気概も才覚も持ち合わせていません。あんなところで生き抜けるほどのタマじゃないのよ。無理です」
お母さんも負けじと黒いこと言ってる上に、返す刀でお父さんをディスっているような、と優は思ったが、とにかくここは置物のように、存在感をなくす一手である。
しかし、やはり引くわけにはいかないしのぶは、時子の発言にかみついた。
「おばさまひどい。那須服部の家からはもう抜け出したのかもしれませんが、一時は主様として仕えた相手、しかも今の旦那様じゃありませんか。その人が才覚がないだなんて」
「しのぶちゃん。人間にはね、器ってものがあるのよ。器の形も大きさも考えず、むりやり注げばこぼしてしまうの」
そして時子には取り付く島がなかった。あっさりとしのぶの物言いをはねつける。
そのかたくなさに眉をひそめたしのぶは、決然と言った。
「……わかりました。おばさまには、もう頼みません! 行きましょう優様!」
「はえっ?」
いきなり話をこちらに振られ、優はぎょっとした。なるべくこの争いには巻き込まれないように、忍者の隠形の術ばりに気配を消そうとしていたのである。(僕は石……僕は石……路傍の石はこの話には関係ないんだ)と、自分に言い聞かせていたところだった。
まあ、そもそも、優の将来をどうするかという話なので、無関係を決め込めるはずはないのだが。
時子がじっと優を見ていた。お母さんの言うことはわかるわよね? という無言の圧力が、ものすごいことになっている。空気がビキビキと音を立てて固まりそう。反射的に背筋が伸びる。
しのぶもじっとこちらを見ている。しかしこちらの圧力は種類がちがう。ものすごい時子の圧力に、必死に抵抗していたしのぶはもう涙目だ。今にも泣きだしそうなうるんだ瞳で、優様は私にチャンスをくださるって言ってくれましたよね? と、救いを求め、すがるよう。見捨てるのはあまりに忍びない。
優は一瞬迷った後、差し伸べられたしのぶの手を取った。
「行こう、しのぶちゃん」
「優様……」
しのぶはほっとしたようなうれしそうな顔。二人いっしょに部屋を出ていく。
その後ろ姿を見送った時子は、はあ、とため息をついて肩の力を抜いた。
しのぶの考えはある意味正しい道をたどっている。那須服部家の考える栃ノ木家の復興は、本来そういうことを指している。
明治維新の折、旧大名家は華族と名前を変えて、貴族階級の一員となった。と同時に、議会政治の中で貴族院議員として、政治に参画した。
当然栃ノ木家も、子爵となってその末席に名を連ねたのだが、もともと貧乏な小大名、しかも領地を失い収入を絶たれたため、あっという間に没落した。
そして華族制度は日本の敗戦とともに崩壊する。栃ノ木家はすでに庶民レベルの暮らしをしていたが、名実ともにふつうの一般市民となった。
那須服部家がこの流れに抵抗しているのは、この、戦争、敗戦の中で、没落していく栃ノ木家を救えなかったことに起因する。
忍びの技術を伝えていたいくつかの家は、戦時中、工作員として重宝され、徴用で男手を取られた。その多くは戦場に散り、那須服部家も跡取りにも困るようになる。連れ合いをなくした曾祖母が、女手一つで一男三女を育て上げたと聞いている。そのため、栃ノ木家に人手を送ることもできなかった。この心苦しさが、動機となっているのである。
実は時子の前の代は、栃ノ木家におそばの者を送れていない。時子の代も子供が兄と時子の二人しかおらず、兄は家業を継ぐ必要があったため、それまでの慣例をくずして女子を送り込んだのだ。
このような経緯があって、栃ノ木家の復興に対しては、むしろ近年の方が思いが強くなっており、そしてその中に、議員への復帰という目標が含まれているのだった。
でも、言ったとおり、時子はそれに反対だ。人には向き不向きがある。康弘もそして優も、そういう仕事には向いていない。
それにしても。
時子はもう一つため息をついた。
女の子の涙を捨てておけないのは、やっぱり親子よね。
その女の武器を、過去存分に使った自覚のある時子は、渋い顔で、そしてちょっと頬を赤らめながら、優たちの出ていった扉をながめるのだった。
さて、出ていった二人はひそひそと、今後のことを相談していた。
「しのぶちゃん、どうするの? お父さんはあきらめる?」
「これは絶対、栃ノ木家のためになるのです。おばさまが反対しても、無理にでも通します」
「どうやって……?」
「私に考えがあります」
強い決意を秘めて、しのぶは前を見つめていた。
草木も眠る丑三つ時。
昔ならそう言われた真夜中の闇に、ひっそりまぎれる黒い姿があった。
しのぶだ。
しのぶは今、忍者として隠密行動中だった。
ただ現代版にアップデートされた忍者のしのぶは、よくある伝統的な忍者の格好をしているわけではない。黒頭巾の黒装束。あれは逆に人目についてしまう。
黒のパーカー、黒のジャージ、黒いソックスに黒い靴。黒ずくめだが、軽快なリズムで走るしのぶは、真夜中という時間帯を除けば、ふつうにジョギングをしているように見える。
ただしふところには数々のアイテムを忍ばせている。これからの作戦行動に備え、準備は万端である。
しのぶは目的の建物に着いた。周りをぐるりと生け垣とフェンスに囲まれた、こぎれいで大きな建物。図書館のような雰囲気だが、どこまで行っても取り囲む生け垣と、しっかり閉じられたがっしりとした正門が、そういうオープンな公共施設ではないことを物語る。
ここは優の父、康弘の勤める会社の研究所だ。
しのぶはさりげなく辺りを見回し、人通りが途絶えていることを確認する。
そして、一、二歩助走をつけただけで、その人の背丈ほどもある生け垣を、ふわりと飛びこえた。
そして完璧に勢いを殺して、音もなく着地。眼鏡を落とさないようにちょっと押さえる。
この眼鏡はふつうのものではない。例のスマートグラスだ。忍具として開発されたそれは、まさに今、その力を発揮しようとしていた。
しのぶはこの建物の見取り図を呼び出した。眼鏡のレンズに映されるのではなく、直接しのぶの網膜に情報が映る。
その見取り図は、ネットの向こうでつながっている卍丸が、データセンターにハッキングして盗み出した情報から作られている。建物の構造だけではなく、セキュリティのシステムがわかるようになっているのだ。
しのぶは監視カメラに映らないように、慎重に歩みを進めた。
優は自分の父の仕事を、一度説明を聞いたけど、よくわからなかったと言っていた。なんか地味そうだったとも。だがそれは優に理解するだけの知識がないからだ。
卍丸に調べさせた優の父、康弘の仕事は、最先端に属するものだった。この研究所は素材研究では世界にその名をはせる会社のもの。
つまり、警備はその分厳重、ということだ。産業スパイを警戒しないといけないので、侵入者に備え、たくさんの監視カメラとセンサーが配置されている。何かあれば、すぐ、当直室と警備会社に警報が飛ぶ。
しのぶはまさにそこに忍び込んだ、侵入者なのだ。
もちろん産業スパイなどではない。だが、しのぶの野望、優の天下統一のためには、どうしてもここに潜り込まなくてはいけない。
正面の玄関から中に入るのは危険が大きすぎる。そんな考えは最初からなかった。建物の裏手へと回る。
非常階段がある。しかし一階の扉は使えない。そこは監視カメラが配置されている。
しのぶは監視カメラに映らない死角を確認する。ちょうど壁がくぼんだ所があり、あそこなら、ちょっと大きな動きをしても見つからない。素早くそこへ移動する。
パーカーの前を開け、ふところからロープを取り出した。先端に鍵爪がついている。こちらは忍者定番のアイテムだ。ただしロープは細く、ずっと軽くできている。それでいて強度は昔の麻縄よりずっと上だ。この辺もふんだんに新素材を活用しているのだ。
そういえば、この会社ではそういう繊維素材も開発していた。その点では、しのぶの実家の表稼業、NASUテクノロジーズのライバル企業でもあるわけだ。まさに産業スパイとしての対象だけれども、でも、今回はちがう。
しっかりと屋上までの高さを目測して、頭上へ投げる。がっちりとへりにかかった手ごたえ。何度か引っぱり、すっぽ抜けたりしないのを確認して、しのぶは壁づたいに登り始めた。
屋上へと出る。そこから回っていって非常階段へ。柵があって鍵がかかっており、通れないようになっていたが、しのぶにはこの程度障害ではない。簡単に、体育の鉄棒でもこなすようにくるりと乗りこえて、階段を一つ降りる。
一番上の階の扉には監視カメラは付いていない。ここに来るまでに、下のカメラ、もしくは廊下のカメラに映っているはずだからだ。これがねらいだった。
またふところを探って今度はスマートフォンを取り出すと、そこの扉にピタリと当てた。スマートグラスのつるの部分についたスイッチを入れ、回線をつなぐ。
「卍丸、お願い」
スマホに見えたものは、これまた偽装された侵入用の忍具。微弱な電磁波と電流を使い、警備システムに外から接続。卍丸につなぐことによって、システムを外から解析、クラッキングできる。
スマホの先端を鍵の部分にぴたりとつける。監視カメラはついてないが、扉の開け閉めは全部、警備会社につながっている。社員みんなが帰っているはずの夜に扉が開けば、宿直室と警備会社に警報が飛ぶ。
『よし、つながったでござる。……システムを確認、解除』
卍丸が伝えてきた。このスマートグラスは、つるの耳にかける部分が骨伝導イヤホンになっていて、音が外にもれない。マイクも声帯マイクなので、ほとんど声を出さずに連絡が取れる。静かな夜の作戦行動には必需品だ。
しのぶはさらに道具を取り出すと、今度は鍵を開ける作業に取りかかった。
こちらの方はハイテクでも何でもなく、いわゆるピッキング。要は空き巣のテクニックである。
忍びの行動は違法なことが非常に多い。一歩まちがえば犯罪者。今まさに、しのぶはそういう立場である。
しかし、優の天下統一という大義を持つしのぶは、そんなことは恐れない。プロの空き巣もほれぼれする手際の良さで、鍵穴を探っていく。
カチリと音がしてロックが外れた。
そっとドアノブを回した。通路に入る。先ほどのシステム解除の時点で、卍丸はハッキングに成功している。廊下の要所にも監視カメラがあるのだが、そちらにはもうダミーの映像が映っていて、しのぶの姿は残らないようになっている。
しのぶは階段を降りて目的地へと向かう。ここでまたピッキングの道具を取り出すと、扉のロックを外した。ここだ。
目的地は康弘の研究室だった。
「着きました」
しのぶは小声で卍丸に伝えた。
しのぶが康弘の研究室に忍び込んだ目的は、何かを盗みだそうとか、そういうことではない。
ねらいは康弘本人。康弘に暗示をかけ、議員への出馬をさせることであった。
「おばさまがいるので、家ではできないですからね」
しのぶがふところから、のど飴の缶に見えるような容器を取り出す。ふたを開け、中身を確認。中には一つ平たく固められた枯れ草色の塊。
幻心香である。
これを部屋の中で焚きしめれば、その成分により、人の精神活動を一部、著しく低下させ、暗示にかかりやすい状態を作ることができる。
伝説、物語をふくめ、忍術として伝わっているものの中に幻術があるが、あれの多くは手品、奇術の類。そして残る少数のものに、こういう暗示がある。
この幻心香のすばらしい点は、日常的な行動を阻害しないというところだ。眠り込んでしまうのであれば、周りの人にも本人にも、何かあったなとさとられてしまう。だが、この香が影響するのは、脳の一部。だから、眠り込むようなことはないし、いつもやっていることはふつうにできる。外からも、本人としても、意識が途切れたということがわからないのだ。
これをこの部屋で焚きしめておけば、明日の朝、この部屋に来た康弘は暗示にかかりやすい状態になる。それでいて、日常の仕事には支障がないから、他の人には気づかれない。
あとは簡単。しのぶは忍び込む必要もない。堂々と玄関から入って、「おじさまの忘れ物を届けに来た」とでも言って受付の人に取り次いでもらい、康弘に暗示をかけようという寸法だ。
「おじさまが出たいと言えば、おばさまも反対できないですからね。この一週間ほどでわかりましたよ、おばさまの弱点。おばさまはああやって厳しいキャラに見せかけて、実はおじさまにメロメロです。おじさまに文句言ったりしながら、結局言うとおりにしちゃってるんだから。まったく、なんというツンデレ……」
「余計なお世話です」
いきなり背後で声がして、しのぶは飛び上がらんばかりにおどろいた。しかしそのような反応を無理やりおさえ込み、瞬時にパッと後ろを振り向き臨戦態勢を取る。
声で誰だかわかっていた。時子だ。
しのぶと同じような闇にまぎれる黒い上下。一分の隙もない立ち姿。
しのぶにまったく気配を気取らせることなく部屋に入り、背後を取った。さすがだ。
ただ、しのぶには察知できなかったとしても。
しのぶはスマートグラスのスイッチを入れ、卍丸と連絡を取ろうとした。
「卍丸、どうしたのです。警備システムを乗っ取っているのだから、おばさまの侵入に気がつけたはず……」
しかし返事が来ない。
「卍丸?」
「呼びかけてもむだですよ。あんな大きなものが家の中をガチャガチャと動き回っているのだから、私の言うことをちゃんと聞いてくれないと困るでしょう。実家に電話して、管理者権限コードを聞き出しました。卍丸は今、私のコントロール下にあります。この場には介入できません」
腕組みをして見下ろす時子。
そこから放たれる剣呑なプレッシャー。
公園で確かめてみた通り、時子は現役のくのいちだ。家族に知られないようにずっと修練を続けていて、腕はいささかもおとろえていない。
その時子が、今完全に忍びとしてのモードで、しのぶに対峙している。もはや「殺気」と呼べるレベルの雰囲気をまといながら。
「さて、しのぶちゃん。あなたはとても真面目だけれど、良い子とは言えないわね。忍びの正心の教えはどうしたの」
正心の教えとは、忍びの間に伝わる心構え。人の道にもとる技術を身につける忍びだからこそ、人の道を外れないように、まず最初に教わる心構えだ。
「不法侵入に空き巣の真似事、あまつさえ人の心を薬物を使って操ろうだなんて、正心の教えに大きく背く行為じゃないの」
「いいえちがいます、おばさま!」
しのぶははっきりと反論した。
「正心の教えは、行いをとがめているのではなく、その目的を問いただしているのです。正心とは、仁義忠信を守ること。そう言われているではありませんか。私は栃ノ木家のために働いているのです。これはまさに仁義忠信ではありませんか」
そしてちょっとすねたように付け加える。
「そもそもおばさまが協力して下されば、こんなまどろっこしいことをしなくて済むのです」
「それはダメだって言ったでしょう。とにかく、その幻心香を渡しなさい」
「いやです!」
しのぶはかたくなだった。
この期におよんで抵抗しても、本当はむだだ。幻心香は相手に気づかれないように焚いておかなければいけない。手の内がばれてしまっては、もう意味がないのだ。それはわかっている。
これはもうただ、しのぶの意地である。
「渡しなさい」
「いやです!」
そんなやり取りを数度繰り返すと、時子の表情がいっそう険しくなった。
「悪い子には、お仕置きしないといけないわよね」
そうつぶやくと、しのぶの眼前から姿を消した。
一瞬にしてしのぶの背後に回りこむ。忍びとして修練を積み、ふつうの人を上回る高い動体視力を持っているしのぶをして、なお見失うほどの動きの素早さ。しのぶが以前対峙した時、時子は子供一人分に匹敵する重りをつけていた。今はそんなものはつけていない。これが本来の時子のスピードなのだ。
「いけない!」
後ろ手に隠していた幻心香をうばいとられそうになって、しのぶはすっと体を沈め、くるりと前転して距離を取る。
しかし時子も瞬時にそれを追い、忍を捕まえて幻心香をうばい取ろうとする。しのぶが前を向いた時には、もう目前。しのぶの腕に、手が伸びていた。
しのぶはとっさに、もう一度転がる。今度は横へ。ただし、机の下を通るように。部屋の中央にあった大きなテーブルの、反対側に顔を出す。
これに時子は顔をしかめる。ここは研究室。真ん中の大きなテーブルの上に、いろいろな実験器具。部屋の周りの壁際にもテーブルがあり、その上にもやはりたくさんの機械が置いてある。そして、そこら中に電源の配線が走っている。テーブルの下にも垂れ下がっていた。
しのぶの時子に対する唯一の利点は、体の小ささだ。小学生女子としては大きい方だが、大人の時子よりは小さい。一瞬時子も後を追おうとしたのだが、配線に引っかかりそうでためらったのだ。
じっとにらみ合う両者。
時子がびくりと動こうとすると、しのぶもすかさず反応する。
右へ動けば、しのぶも右へ。左へ動けば、しのぶも左へ。
中央のテーブルをはさんだまま、距離を取ろうとする。
時子がしかけた。たんっと踏み切り、助走なしでテーブルを飛びこえる。
しのぶはさっきと同様、テーブルの下を潜り抜けて反対側へ。
しかし、それこそ時子のねらい。テーブルの向こうに着地した時子は、そのまま勢いを殺さず、もう一度跳び、壁を蹴った。三角跳びだ。
テーブルの下をすべるようにむこう側に出たとたん、上空から襲いかかる時子の影に気づき、しのぶは動きを止めずにくるりと身をひるがえして立ち上がり、走り出した。そこを時子もすかさず追う。
言ってみれば鬼ごっこになってしまっているわけだが、そこは高い身体能力を誇る二人。常人では考えられないほどのすさまじい動きだ。
しのぶは逃げ、時子は追う。壁も天井も使うほどの激しさなのだが、音は一切しない。そこは忍びの忍びたるゆえんである。
音もなき激しい争いは、だがやはり、だんだん時子が優勢となってきた。長く続けば、地力のちがいが現れてしまう。しのぶは何とかして隙を見て、部屋の外に逃げ出したいのだが、そういう動きをちらりとでも見せるたび、たくみに時子に行く手をさえぎられる。
窓から出るしかないかもしれない。けれど、蹴破って出るわけにはいかない。そんな乱暴で痕跡を残すまねはできない。康弘おじさまに迷惑をかけてしまう。
幻心香を取られないように逃げ回っているのはしのぶの意地だが、正心を忘れたわけではないのだ。うまく鍵を外す時間を作れれば。逆におばさまは、窓を開けっぱなしにして自分を追って来ることはしないだろうから、逃げ切る時間をかせげる。
しかし、時子ほどの手練れを前に、余計なことを考えるのは致命傷だった。一瞬注意が低下した瞬間、間合いをつめられる。捕まえようとした時子の手と、しのぶの身体が交錯する。
パーカーのフードが引っかかり、しのぶがバランスをくずし、壁際の機械に衝突した。
それまで無言の争いだったところに、がしゃんと音がひびき渡る。
「いけない!」
二人が同時に声を上げた。
「しのぶちゃん、だいじょうぶ? けがはない?」
「だっ、だいじょうぶですけど、おばさま、何か今いやな音が」
「そ、そうね、機械が壊れたのかしら」
二人は恐る恐る機械をのぞきこんだ。正面にガラス窓が付いていて、中が見えるようになっている。
「あ、中で何か倒れちゃってます」
「ほんとだ。これは元にもどしておかないと……」
「でも、おばさま、この試験管、どっちがどっちだったのかわかりません」
しのぶが泣きそうな顔で言った。康弘おじさまに迷惑はかけない。これはしのぶの正心である。やろうとしていたことは十分迷惑ではないのかと言われそうだが、それも栃ノ木家に良かれと思っているからやったこと。研究室で暴れて実験のじゃまをするのは、しのぶの望まぬ完全な失態だ。
「し……仕方ないわね……うん、きっとこっち、こっちよ」
時子は自分に言い聞かせるようにつぶやきながら、試験管を立て直した。特に根拠はない。なんとなくである。ちなみに時子も、しのぶに「なんというツンデレ」と言われてしまうぐらい、康弘第一の正心で生きている。康弘の実験のじゃまをするなんて、とんでもないことだ。
「はい、これでおしまい」
試験管を立て直した時、その隙をついて時子はしのぶから幻心香を取り上げた。
「ああ!」
「さあ、帰るわよ。あんまりさわいでいると、監視カメラは切ってあっても、巡回している警備員さんに見つかっちゃうわ」
「返してください、おばさま!」
「だめです! こんな危険なものは没収です!」
「そんなー!」
こうしてしのぶの計画は頓挫した。
ちなみに、この時、試験管を入れ替えてしまったせいで、次の日、康弘は実験をまちがって行ってしまい、その結果、偶然にも新素材の発明につながる結果を得た。これが三十年ほど後、世界を変えた発明として、なんとノーベル賞を取ることになる。
実は栃ノ木家の復興への道が、ある意味なされた瞬間だったのだが、この時は当然、誰も予想できなかったのであった。
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