第3話 くのいち二代と携帯食
時子としのぶが二人並んで走る姿は、はた目から見ると母娘でジョギングしているように見える、ほほえましい光景だ。
しかし、その二人の間には、ピリピリとした緊張感が漂っていた。
ことの発端は時子の一言だった。
「……平行線ね。まあ、すぐに説得できるとは思ってないわ。とにかく、日課のジョギングはしてから帰ろうと思うんだけど……。しのぶちゃん、あなたもいっしょに走りなさい」
「はい?」
「運動用の服を着てるから、ちょうどいいわ。いらっしゃい」
時子のあとを追って公園に潜んでいたしのぶ。当然、しかけることは最初からもくろんでいたので、動きやすいかっこうをしていた。要するに、時子と同じように、ジャージ姿だったのだ。いかにもジョギングしそうないでたちだ。
(うう、できれば、私としてはもう帰りたいのですけれど……。でもおばさまの誘いをむげに断るわけにも……)
格上の相手に宣戦布告をたたきつけたあとである。正直、意地で平静を装っているだけで、あの一度の手合わせで、しのぶはかなり疲弊していた。なので、さっさとこの場から立ち去りたいところ。だが、根がまじめで礼儀正しいので、お世話になっている家のお母さんにそう言われると逆らうことはできない。結局いっしょに走ることになってしまった。
しかも、である。
「やだ、しのぶちゃんが無茶させるから、服がめくれておへそ出ちゃう」
そう言いながらジャージを整える時子を見て、しのぶはぎょっとした。
(えっ、あれは……)
袖や裾を整えているとき、そこからちらりと見えていたのは、リストウエイトとアンクルウエイト。運動時、負荷をかけるためにつける重り。しかも、けっこう重いやつだ。さらにジャージの前を開けて、シャツの裾をしまおうとすると、ウエイトジャケットまで着込んでいるのが見えた。これもがっちり重りが入っている。
(おばさまはすらりとしてるように見えたのに、意外に太いんだなーなんて思ってたけど……全然ちがうじゃないですか!)
自分の不明をしのぶは恥じた。あんなにウエイトをつけていれば、もこもこと着ぶくれするのは当然だ。
そしてあの重りを全部足したら、三十キロ近くになるはずだ。実はしのぶも、似た物を腕につけている。棒手裏剣をしまうためのリストバンドだ。棒手裏剣は言ってしまえば鉄の棒なので、それを隠し持っているとけっこうな重りになる。逆に言えば、そういう重りの感覚を、しのぶもよくわかっているのだ。
(三十キロなんて……三、四年生の子供一人分ぐらいありますよ? それだけの重りをつけたまま、あれだけ軽やかに私の攻撃をかわしていたっていうんですか……)
そう気づいて、しのぶはさらにへこんだ。
「さ、行くわよ」
そう言うと、時子は走り出した。
「は、はい」
しのぶはあわててついていく。
沈黙したまま、並んで走る。
(き、気まずい……)
格上のくのいちの先輩に意地だけで噛みついた後。しかも相手が本当にハンデを背負っていたと知った後。親しく話す雰囲気でもないし、挑発を続ける気力もないし、早くこの時間が過ぎてほしい。
そんな弱気の虫が、しのぶの心の片隅で頭をもたげていた、その時。
「上げるわよ」
時子が一声かけて、急にペースを上げた。
「え、あっ!」
しのぶは急いでついていく。
スピードに変化をつけて負荷を高めるインターバル走。時子が走っているのは、忍びとして体をきたえるためで、その辺の奥様のようなシェイプアップ目的ではなかった。なので、アスリートばりのきついメニューになっていた。ジョギングからダッシュ、ハイペース走へ、またゆるめて、また加速して。心肺機能をいじめ抜く。これがまた、何十キロもの重りをつけているとは思えないぐらい、鋭く速い。
しのぶは遅れないようについていくのが精いっぱい。時子が振り返って様子を見るのだが、その表情が「あら、これぐらいでへばっちゃうの?」と言っているようで、これまた心をえぐられる。
(こ、これはさては、力の差をいかんなく見せつけ、私の心を折る精神攻撃?)
それではここで負けるわけにはいかない。しのぶは努めて表情を変えないように、でも心の中では必死に歯を食いしばりながら、追いかけていった。
しかし、しのぶが時子の恐ろしさを肌で感じるのは、このあとであった。
何とか最後まで食らいついて、ドリンクを分けてもらいながら、内心はグロッキー寸前、ただ外面は意地で平静を装って、二人で家にもどる道すがら。
時子がぽつりと言った。
「ちなみに、しのぶちゃん」
「なんでしょう、おばさま」
「しのぶちゃんは栃ノ木家に仕えるために来たと言っているけれど、そうしたら、優以外の人の言うことも聞く、ってことでいいのかしら?」
「ええ、そうです。それが私の務めです」
「ということは、私の言うことも聞くのよね? 私は那須服部家の娘だけれど、今では栃ノ木本家の家庭を預かる身。昔風に言えば、栃ノ木家の奥方様だもの」
しのぶの警戒レベルが一気に上がる。
「……そうですけど。だからと言って、里に帰れと言われても聞きませんよ。それは使命の方が優先です」
「それはわかっているわ。そこはおいおい決着をつけるとして、今は別のことなの」
「?」
「親戚の娘さんを、いわば親代わりに預かるということでもあるんですからね。きちんとしつけないと、美里さんにも申し訳ないわ」
「……?」
しのぶは嫌な予感がした。自分の母の名前を出されたからだ。家の使命について厳しかったのは、祖父と父。よそから嫁いできた母は、むしろそれには、あきれていたようだった。今回の使命にも、小学生の女の子にそんなことをさせるなんてと反対していた。母が厳しかったのは、むしろ日常の……。
「公園で、あんな危ない物を、しかも人に向かって投げるなんて、しちゃいけません! ふつうの家にやってきたのだから、そういうことはしっかり守ってもらいます!」
「えっ?」
「罰として今日の朝ご飯は抜きです! しっかり反省するように!」
「ええーっ!」
朝からあれだけ激しく運動して、精神的にもさんざん意地を張って疲れ果て、おなかがぐうぐう鳴っている時に繰り出された、KOパンチ。
まさにしのぶの心をぽっきり折る、特大の精神攻撃だった。
しのぶの朝食は、本当に抜かれた。
昨日の夜にしのぶからあいさつされていた第二十二代当主、つまり優の父、康弘は苦笑い。おそば付きの騒動は自分も経験済みで、しかもその時のおそば付き、今の自分の妻がどういう考えを持っているのか、よくわかっているからだ。
優はこの事態におろおろしていた。母がいけないことをしたときにとても厳しくなるということは、十分わかっている。目の前にいるのは、逆らってはいけないモードのお母さんである。しかし、しのぶはいったい何をして、こんなにお母さんを怒らせたのだろうか。
「しのぶちゃん、だいじょうぶ?」
くうくう鳴るすきっ腹を抱えて、あてがわれた部屋で丸くなっていたしのぶを心配して、優がやってきた。
ちなみに、しのぶをどう呼ぶか、昨日の夜にひともんちゃくあった。しのぶは自分は従者なのだから、呼び捨てで構わないと主張した。
「えっ? しのぶって呼ぶの?」
「はい、そうです優様」
「しのぶ」
「はい優様」
「……なんかやだなあ。すごくえらそう。やなやつみたい」
「やなやつだなんて、そんなことありません! 優様は実際えらいのです! 次期当主なのですから!」
「うーん、でもなあ……」
しのぶはにぎりこぶしで力説するのだが、そもそも次期当主なんて今日知った話。これまでふつうの小学生として暮らしてきた優には、違和感ばりばりである。
ただ、優はおっとりしたところがあり、言ってしまえば優柔不断。今のしのぶのようにまっすぐに力説されると弱いのだ。このはざまで、えーとうーんとと悩んでいたが、一つ妥協点をひらめいた。
「そうだ、優様って呼ばれるのもえらそうだから、僕も呼び捨てにしてよ。そしたらしのぶ、優でふつうな感じでしょ?」
「何をおっしゃいます! 滅相もございません! 呼び捨てだなんて!」
「じゃあ、僕も呼び捨てはやだ。そうだなあ、しのぶちゃんでいい? 従姉妹のしのぶちゃん。これならふつう」
「えっ、しのぶちゃん……ですか? それだと、なんか……」
「いいでしょ。しのぶちゃん」
「は、はい……」
親しげに呼ばれて気恥ずかしかったらしく、しのぶはほんのり顔を赤くして、もじもじしていた。
そのやり取りを食卓のテーブルから見ていた康弘は、何か思い出したようににやにやしていた。となりの時子はちょっと眉根を寄せた渋い顔。ただし頬が少し赤らんでいる。
そのあとこっそり父が「時子ちゃん」と耳打ちして母につねられていたのを、優は見かけたのだが、何かあったのだろうか。
さて、そんなしのぶちゃんは、様子を見にやってきた優に小声でたずねた。
「おばさまは……」
「お母さんなら、お父さんと出かけたよ。お昼には帰るって言ってた」
「そうですか……。ならばもうだいじょうぶですね……」
しのぶはゆっくり身を起こした。そして、持ってきた自分の荷物の中をごそごそと探る。
「おばさまに見つかって取り上げられる心配がなくなれば、もうだいじょうぶです。私にはこの兵粮丸が……」
「ひょうろうがん?」
「忍者が潜入工作をするときに持っていく、秘伝の携帯食料です。さらに我が家では、現代栄養学も取り入れて改良を加えました。これだけで必要な栄養が取れるのです」
「へえ」
忍者秘伝と言われると興味津々だ。しのぶが取り出した包みを、優もとなりに並んでのぞきこむ。しのぶのすらりときれいな指が、包みをていねいに解いていく。
包みから出てきたのは、ころころと小さい、直径一センチぐらいの茶色い団子。しのぶはそれを一つ取り、口元に運ぶ。小さく口を開けてそっと押し込む。おなかがすいているはずなのに、がつがつとしたところはなく、きれいな所作だ。この辺り、しのぶの躾の良さがうかがえる。
もぐもぐと口を動かすしのぶに、優はたずねた。
「おいしいの?」
「おひとついかがですか?」
口元を押さえてこくんと飲み込んだ後、しのぶは包みを優に差し出した。
優は一つもらって、くんくんと、においをかいでみる。あまい香りがする。ただ、単純なあまい香りだけではない。どこかでかいだ、知ってる香りもするような……。とにかく、まずくはなさそうだと判断して、口に放り込んだ。
「……けっこうあまいけど、さっぱりした風味もあるね。これ、シナモン?」
「桂心です。現代ではそう呼ばれていますね。昔から漢方薬として使われていたんですよ」
「へー、シナモンお団子、けっこうおいしいね!」
ちょっと心配そうに優の表情を見つめていたしのぶは、好評に顔をぱっとほころばせた。
「別のもありますよ」
荷物の所にもどって、またごそごそと中を探る。同じような包みを取り出して、解いて開く。優も寄りそうようにして、のぞき込んだ。
こちらは先ほどの物よりちょっと大きい。四センチぐらい。色は薄く、ほんのり桜色っぽい。
「飢渇丸です」
優は同じように手に取り、かいでみた。このにおいは……。
「お酒の香り?」
「アルコールは飛ばしてあるので、子供が食べてもだいじょうぶですよ」
「そうなんだ。いただきまーす」
兵粮丸はなかなかおいしかったので、こちらも期待してパクリといただく。こちらはもっちりとした食感。あまさは先ほどではなく、練り込んだ漢方の味が強い。
「……こっちはどっしりと食べ応えが。ちょっとバナナ風味?」
「バナナは入ってませんけど、言われてみればそんな感じもありますね」
忍者携帯食はなかなかおいしく、二人はなかよく並んでもぐもぐと食べた。
しかし、これには落とし穴があった。
しのぶはよくきたえられていたが、実際の任務に就くのはこれが初めて。だから気がつかなかったのである。
兵粮丸も飢渇丸も、潜伏任務のときの非常食として開発されたものだ。潜伏中だから十分に食べられないのは覚悟の上とはいえ、それでもなるべく補うために、高カロリーで腹持ちがいいのである。伝書では、兵粮丸は大人の忍者でも一食十粒程度、飢渇丸に至っては一粒でも十分とある。
つまり、調子に乗ってパクパクと食べていた二人は、おなか一杯になってしまったのだ。
お父さん、お母さんが帰ってきて、さあお昼となった時、二人は全然おなかがすいておらず、ご飯が入らなかった。理由を問われ、仕方なく白状した結果、時子にしこたま怒られる結果となった。
しのぶと優をなげかせたのは、時子がしのぶの日用品を買いそろえるついでに、仲直りとして、いいところの美味しいケーキを買ってきてくれていたことだった。こちらもお預けとなってしまったのである。
こうしてしのぶと時子の勝負一日目は、しのぶが精神的に大ダメージを受けて終わった。
ただ、二人して怒られたことにより、いかにお母さんのご機嫌を取ってケーキを食べさせてもらうかなど、しのぶと優の間には共犯としての連帯感が生まれた。
滞在二日目にしてかなりなかよくなったので、戦果としてはまあまあだったとも言えたのだった。
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