第2話 しのぶと時子と棒手裏剣

 身が引き締まる朝の冷気。まだ薄暗い公園。ほんのりと明るくなりはじめた空には雲一つなく、薄明かりの中しぶとく光る星がまたたいている。

 あれは金星、明けの明星。

 星を見上げながら、時子は走っていた。

 この運動公園は町中にあるにしてはかなり大きく、ジョギング用の周回コースがある。そこをみんなより早起きしてひとっ走りするのが、時子の朝の習慣だった。

 ねぼすけさんは血統なのか、優も、優の父、康弘(やすひろ)も、時子が帰って起こすまで、いつもぐっすり寝入っている。幼いころから体をきたえ続けてきた時子にとって、それはそれで自分の時間が取れてありがたい。

 まあ、帰ってから起こしても、その寝起きの悪さは天下一品。一度二度では布団から出てこないレベルなので、いつも時間ギリギリのバタバタとあわただしい朝になるのだが。

 それもいつもの風景。

 幸せな日常の、ちょっとした一コマ。

 この早朝のジョギングは、そういう事態に立ち向かう母として、今日も一日がんばるぞと、英気を養う時間でもあった。

 いつもであれば。

 今日の時子の表情は、頭上の明け方の空模様とは対照的に晴れなかった。時子は走りながら思い悩んでいたのだ。しのぶのことだ。

 一度きりしか会ったことがなかった兄の娘、自分の姪。

 それがいきなり、何の知らせもなく訪ねてきた。

 いつもの風景に現れたイレギュラー。

 幸せな日常を壊す異分子。

 そもそも、なぜ会わなかったのかといえば……。


 ひょう。


 その時、冷たい空気を切る、刃の音がした。

 時子はとっさに身をひるがえした。刃は背後の木の幹にカツッと突き刺さる。

 そこに追撃。二撃三撃。時子はあわてることなく、まるで踊っているかのような優雅な動きでそれをかわす。さらにくるりと後方に回転すると、姿なき相手との距離を取った。

 だが相手の攻撃はやむことがない。次々と刃は襲いかかってくる。

 飛んできた武器はそこらの木々の幹に刺さっている。忍びの者が使う投擲武器。棒手裏剣だ。

 とすれば相手は忍びの者。

 時子はその手裏剣を、刺さった木の幹から引き抜いた。

 手のひらのくぼみに収まるように持ち替えて、ねらいを定め、打ち返す。その動きは熟練のもの。束を手のひらに、刃先を中指と人差し指にはわせて安定させ、鋭い腕の振りで投げた動作は、まるで何万回も繰り返したように身になじんでいた。

 棒手裏剣は最初に投げられた時よりも鋭さを増して、奥の茂みへと飛んで行った。暗がりの奥、かんっと音がして、やはり幹に刺さった手応えがあった。

 そしてその直前、それを避けるために身をひるがえした人の気配も。

 時子は茂みの奥を見やった。

 そこから出てきたのは、つややかな長い黒髪を後ろにまとめた少女。

 しのぶであった。

 予想できたことだとはいえ、時子の口からため息が出る。

「里を離れて早十五年。もしや腕をにぶらせているのではないかと心配したのですが、さすがですね」

 彼女は挑戦的な笑みをたたえている。

 そう彼女は兄の娘、自分の姪。

 すなわち時子自身も、那須服部家が出身。

 そして那須服部家は忍びの家系。


 彼女も忍び、くのいちなのである。


 時子もしのぶと同様に、幼いころから忍びとしての修業を積んできた。時子もしのぶと同様に、幼いころから栃ノ木家の復興、天下統一の手助けをするのが家の使命なのだと刷り込まれてきた。時子もしのぶと同様に、幼いころにはその使命にこの身をささげるつもりだった。

 時子としのぶがちがうのは、時子がその後、その使命に疑問を抱いたことである。

 今となってはそんな考えは時代遅れでおかしなことだとわかっているのだが、外界との交流の少ない里に住んで、周囲の大人が当たり前のこととしてそれを口にしていると、それが当然なのだと子供は思い込んでしまう。時子もそんな状態だったのだが、反抗期を迎えたこともあって、家のしばりを不満に思うようになった。

 その状態で、時子もまたしのぶ同様、次期当主のおそば付きとして送り込まれたのだが。

 不満を持ちながら、でもまだやはりすべてを吹っ切ることができずに、半ばやけくそで任務をこなす荒れていた時子を、次期当主で仕えるご主人様だった康弘が、その優しさで救ってくれたのだ。

 そこで時子は家と断絶。子供ができたと報告すると同時に縁を切った。だからしのぶとはその時一度会ったきり。そこからずっと、実家とは疎遠なままだった。

 しかし、兄はあきらめていなかったようだ。不出来な妹の代わりに、自分の娘をしっかり仕上げて送り込んできた。

 先ほどの手裏剣の打ち筋を見ただけで、それがよくわかった。時子も歴代の那須服部家の中でも優秀と言われていた忍びだったが、その自分の幼少期と比べても、しのぶは見劣りしない。

 そしてそれは、当人の努力の成果でもある。自分を見つめる、使命に燃えた、しのぶのまっすぐな瞳。使命を信じ、修練に打ち込んで来たであろうことが伝わってくる。

 時子はまたため息をついた。本日二つ目。

「しのぶちゃん、だめでしょう。こんな公園のど真ん中で手裏剣を投げるなんて。通りがかりの人に当たったらどうするの」

「ご心配なく、おばさま。周囲の人通りは把握しています。あと五分ほど、ここには誰も来ません。それに手裏剣も、外れた時には後ろの木に刺さるように、きちんとねらって投げました」

 確かにそうだ。それは時子もわかっていた。

 こんなことを口にしたのは、彼女の意地の表れ。時子はしのぶの存在を許すわけにはいかないのだ。

 いつもの風景に現れたイレギュラー。

 幸せな日常を壊す異分子。

 その「いつもの風景」と「幸せな日常」は時子が家のくびきから逃れ、自ら選んだ、かけがえのないものだ。

 だが父も兄も、その選択をやはり許してはいなかった。その意思の表れがしのぶ。不肖の娘、不肖の妹の代わりに、「事態を正す」ために送り込まれた刺客。だから時子はしのぶの存在を許すわけにはいかないし、同時にそんな世界観に我が家を犯させるわけにもいかないのだ。

 なので彼女は、あくまで「日常」を守る。おいたをした子供は、大人にしかられなければならない。例えそれが「手裏剣を投げる」という非日常の光景だったとしても、自分はあくまで日常の中にいることをゆずらない。

 先ほどから彼女の口にため息をつかせているのは、別の理由もあるのだが。それはともかく。

「とにかくダメです。公園はみんなが使うところ。マナーはきちんと守りなさい。それにしのぶちゃん、うちの優に天下を目指そうとたきつけるなんて、私が許しませんよ」

 それに対して、しのぶはかたくなだった。

「おばさま、お忘れですか。栃ノ木の家系を助け天下を取らせるのは、那須服部家の悲願でもあるのです。戦国時代、依る主をなくしさまよっていた、服部分家の私たちを受け入れてくれた恩義を、返さなくてはいけません。那須服部家の者であれば、幼少の頃からたたき込まれているはず」

 しのぶは時子に対して不満を持っていた。

 もともと時子について、幼いころから否定的な言葉を聞いて育っている。家命を捨てたおろかな妹。父の評価はそうだった。

 それと同時にそのかげで、肯定的な評価も聞いていた。いわく、ここ何代かで飛びぬけた才能の持ち主だった。いわく、技も冴え、立ち居振る舞いも完璧だった。などなど。

 時子に対し、反感とあこがれを同時に抱いて育ってきたのだ。

 実際に手を合わせた今、その思いはより強くなっている。自分の攻撃をかわす身のこなし。いきなり傷つける気持ちはなかったので、加減していたとはいえ、余裕をうばうことはできなかった。最後のいくつかは、ほとんど本気で打ったのだ。それでもまったく通用しない。

 対して返されたあの一撃。同じように傷つける気持ちがないことは見て取れた。だが、しのぶの力量をしっかり見極め、本当にかわせるすれすれの速さで放たれていた。

 この次は当てられるという最後通告。しのぶが一撃のあと木陰から出たのは、それを感じ取ったから。力量の差にねじ伏せられたも同然だった。挑戦的な言葉と態度は、彼女の最後の意地がさせたものだ。

 聞いていた通り、見ほれるほどの技の冴え。ここ何代かでの最高傑作というのもうそではない。同じ道を修める者として、純粋な尊敬の念がわく。

 と同時に、それだけの力がありながら、なぜ栃ノ木家の再興に力を尽くしてくれないのかとの憤りもわいてくる。相反する二つの気持ちが、ぐるぐるとしのぶの心の内でうず巻いている。

 あなたはとてもすばらしい。なのになぜ、私たちの側に立っていないのか。

 だからしのぶはかたくなになる。

 時子がしないというのなら、自分が栃ノ木家の復興を果たしてみせる。

 技の一つ一つではまだかなわないかもしれないけれど、ただ一つかなう、想いの強さで優ってみせる。

 こう思うのは、彼女の意地の表れ。しのぶは時子の存在を許すわけにはいかないのだ。

「優様に天下を取っていただくのが、私の使命です」

 その意地を、今はかなわぬ相手にたたきつける。

 こうして優をめぐる、くのいち二代の戦いが幕を切ったのだった。

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