第35話 Honey&Smile

 緊張が高まる。

 心臓の鼓動が早まっているのが感じられる。大丈夫だ。もう前回のような失敗は繰り返さない。今日はライブを楽しみに来たのだ。そう。前回みたいなことには……。


 ——あれ、二番の歌いだしの歌詞ってなんだっけ?

 Cメロのメロディって、どんなだったっけ。何度も聴き込んで、歌い込んでいるはずの曲なのに……。


 そもそも、どのタイミングで出ればいいんだっけ。

 曲の余韻が尾を引く中、小豆はステージの真ん中で目をつぶって。割れるような拍手を浴びている。


 少しも怖くない。むしろ楽しみなはずなのに——前回のライブで、失敗したときのことを思い出す。完全に摘み取ったと思っていた恐怖は、新しく芽を出して私の心をむしばんでいた。


 頭の中が真っ白になって——。

「どうしよう……」

 下を向いて、力なく呟いた。


 心臓が激しく鼓動し、息は上がっている。

 焦れば焦るほど、空回りしていく。わかっているのに……。


 そうだ。おまじないだ。

 私の大好きなアニメの、何十回、何百回と見返したシーン。


 瞳を強く輝かせた明音あかねが言う。

 ——進もう。私たちの明日へ。

 よし。少しだけ落ち着いてきた。


 実際に声に出して呟いてみる。

「進もう。私たちの明日へ」

 息を大きく吐き出す。


 これで大丈夫。

 でもまだ、少し怖い。


 時間は無情にも迫りくる。

 小豆がステージの反対側へ歩いていって、もう二十秒もしないうちに、私はステージに立っていなければならない。


 そんなとき、背後から足音が響いて——


「進もう。私たちの明日へ」


 それは、あのときの声だった。

 いっときたりとも忘れたことのない、私の大好きな明音の声。

 私が声優になるきっかけとなったあの声。


 つまり、今私がここに立っているのも、すべてこの声があったからで——。

「え? 先輩、どうしてここに?」


「ライブには出ないけど、ゲームには出演してて私も一応関係者だし、こっそり中に入れてもらったの」


 七年前、私の大好きなアニメ『救世主はプリンセス』で、明音を演じていた天月あまつきあゆむ先輩が、優しく笑いながら言った。


「いや、そうじゃなくて……」

 さっきの台詞のことなんだけど。


「ふふふ。ごめんね。あいちゃんのあのインタビュー、読ませてもらっちゃった」

 天月先輩はいたずらっぽく笑う。


 私のインタビューが収録された雑誌は、まだ発売はしていないはずだけど、本自体はすでに完成しているらしく、関係者には配られている。どうやら天月先輩はそれを読んだらしい。私はまだ怖くて読めてないけれど。


「あ、ありがとうございます」

 生で聞いた明音の台詞が、今さら体にしみ込んできた。私は泣きそうになって、それをこらえるように口をぎゅっと引き締める。


「ほら、泣かないで。これから歌うんでしょ」

 天月先輩が私の頭を優しくなでる。


 そんなことされたら、余計泣きそうなんですけど。

 でも、おかげで歌えそうだ。


「ほら、もう出番。行ってらっしゃい」

「はい!」

 私はステージに向かって歩き出す。


 さっきまでの緊張が嘘みたいに、怖いくらいに落ち着いていた。今なら何でもできそうな全能感を感じながら、一歩一歩、足を踏み出す。


 また誰かに助けてもらってしまった。

「本当に……情けないな……」

 そう呟いて。


 ——ステージでは最高のパフォーマンスをしてやる。

 心の中で続ける。


 私は堂々と、ステージの真ん中へ向かう。


 大きな歓声が聞こえる。熱と期待の入り混じった絶叫。

 プレッシャーは感じない。

 今は、何も怖くない。


「みんなー! お待たせー!」

 スポットライトが私を明るく照らして、前奏が始まる。

 生まれ変わった星川愛の、いや、霞朱里のお披露目だ。


 あごを引いて、マイクを力強く握って、観客と笑顔を交信する。

 私の中にいる朱里を、強く強くイメージして——。

 そのすべてを声と動きに込める。


  もっと笑顔広まればいいね

  僕はパッとひらめいた


  きっと笑顔伝わるはずだよ

  君はそう答えたんだ


  でも

  凹みそうになる日だってある


  そんなときは浮かぶ雲眺めて

  Honey&Smile


  始めよう

  大好きな君と


 歌詞を間違うことも、動きが止まることもなく、私はソロ曲の『Honey&Smile』を歌い上げる。客席を見渡す余裕もある。


  きついことも泣きそうなことも

  全部笑顔に変えてゆこう


  くよくよしても

  意味はないから


  スマイル全開

  笑っていきましょ


 曲はサビに差し掛かる。

 練習通りの、いや、練習以上のパフォーマンスをすることができている。

 ダンスも歌も、前回のステージが嘘のように楽しかった。


 眼前には、鮮やかなオレンジ色の景色が広がっている。

 楽しさと嬉しさと喜びと、そんな感情と共に見た、揺れるオレンジとたくさんの笑顔は、最高だった。ただただ最高で、それ以上でもそれ以下でもなかった。


  どうしてもダメな日だってある

  そんなときは僕が 隣で笑っているから


  だから

  Honey&Smile


  歌ってこう

  大好きな歌を


  つらいことも苦しいことも

  全部笑顔に変えてゆこう


  悩んでたって

  仕方がないから


  スマイル全開

  楽しくいきましょ

  笑顔でいきましょ


「ありがとうございましたっ‼」

 頭を下げる。拍手が鳴りやまなくて、顔を上げるタイミングがわからない。


 少し拍手が小さくなってきて、恐る恐る顔を上げる。その瞬間、客席の中に知った顔を見つけた。


 ——あと、次のライブ行きます! 絶対に行きます!


 彼は、隣にいる友人らしき少年と、楽しそうに笑っていた。それを見て、涙が出そうになる。


 手を振りながら、私はステージをあとにした。

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