第36話 Everyday前進


 歌い終えた私は、いったんステージから移動する。

 興奮はなかなか醒めない。まだ心臓がバクバクいっている。その音が、今はとても心地よい。


 さっきまでいた場所には、天月先輩はもういなかった。あとでお礼を言わなくては。


 反対側の袖から、熊貝美亜を演じる城咲友が登場する。

 アイドルらしさを残しつつ、一人の声優として成長した彼女は、堂々と歌い始めた。


  目標が遠くたって

  いつの間にか近づいてる


  たまには寄り道もいいよね

  出会いと別れを繰り返して


 安定感のある癒しボイスだ。苦手だったダンスもたくさん練習して、自信をつけて臨んでいる。学業との両立は、きっと大変だろう。それでも彼女は、これ以上ないってくらいストイックに、甘さなど一切捨てて練習をしてきた。


  さあ行こう

  私たち一緒なら

  永遠だって目指せる


  Everyday前に進め!

  少しずつでもいいから

  昨日よりも素敵な自分に


 あのふわふわした笑顔の裏には、血の滲むような努力がある。それもすべては、応援してくれているファンのために。


 友は一度、練習中に疲労で倒れたことがある。彼女は突然座り込んだかと思うと、気を失って医務室へ運ばれた。


 私はレッスンの合間に、医務室へ様子を見に行った。

「大丈夫?」

 ベッドに寝ている友に尋ねる。


「大丈夫。ただちょっと疲れただけ。ご心配をおかけしました」

 友はぺこりと頭を下げた。


「無理、しないでね」

 そうは言ったものの、きっと友はまた自分を追い込んでしまうのだろう。


「ごめん……。でも、なかなかできるようにならなくって。それで焦っちゃって」

 自らの足元を見つめながら小さく言った友は、自分に苛立っている様子だった。


 頑張っても頑張っても、少しずつしか前に進めない。

 友の気持ちが痛いほどにわかる私は、それ以上に何も言えなかった。


 数秒の沈黙のあと、友はポツリと漏らした。

「……このままじゃ、ダメ」

「え?」


「私のことを応援してくれているファンのためにも、最高のパフォーマンスをしなきゃいけない。最大限の努力をしなければ、それは裏切りになってしまう」

 穏やかそうに見えた彼女の心の底には、とても熱い何かがある。


 アイドル時代のコネみたいなもので声優になったのだろう。友に対してそんなことを思っていた自分を、力いっぱいひっぱたきたくなる。


 彼女はこんなにも真摯に、ひたむきに、自分のすべきことと向き合っているのだ。命をも削るような覚悟で。


「あ、でも安心して。ちゃんと休むことも仕事のうちだから。明日から、また頑張る!」

 友はそう言って笑った。


 少しずつしか進めなくても、少しずつでいいから進んでいくんだ。

 彼女の想いが、ファンの心へ届いてほしい。私は彼女の歌を聴きながらそのことを祈る。


  プラス思考と笑顔だけあれば

  他には何もいらない


  疲れたら立ち止まって

  またゆっくり歩きだす


  Everyday前に進め!

  少しずつでもいいから

  昨日よりも素敵な自分に


 今や彼女は、ストイックな元アイドルの城咲友ではない。

 普段はおっとりしたお嬢様だけど、ステージでは可憐に舞う熊貝美亜だ。


 瑠璃や小豆がキャラクターを引き寄せるタイプなら、友は逆に、キャラクターに寄り添うタイプだ。


 私はどうだろう。たぶん、キャラクターと歩み寄るタイプだ。これからも少しずつ、朱里とお互いに歩み寄っていけたらいいなと思う。


 袖で待機している間、私は瑠璃と話していた。

「愛さん、素敵なステージでした! 私も頑張ります」


 瑠璃は未だに、私に敬語を使って話してくる。彼女はとても礼儀正しい子だ。たまにちょっとからかってきたりもするけれど。絶妙な距離感の取り方も彼女の一つの才能だと思う。


「ありがとう。私も瑠璃の歌、超楽しみにしてるから。瑠璃なら絶対に素敵なステージにできるよ」


 気づけば私はいつの間にか、彼女のファンになっていた。圧倒的なオーラですべてを魅了する瑠璃の歌声が、私は大好きだった。


「えへへ。ありがとうございます」

 少し困ったように、眉を下げて笑い、瑠璃は答えた。


 ……どうしたのだろう。今、瑠璃の表情に少し不安の色が見えた気がした。

 でも、瑠璃が緊張なんてするわけないか。いつだって堂々としている彼女が不安になるところなんて、上手く想像することができない。


 だから私は、

「うん。あ、そろそろ友の歌が終わるよ。頑張ってきて」

 そう言って瑠璃を送り出した。


 彼女はステージに向かって歩き出す。

 いつもより背中が小さく見えたのも、私の気のせいだと思う。

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