第30話 その声が地図になる


 僕は、他人の感情に人一倍敏感な人間だった。いつも周りの目ばかり気にしていた。


 笑い声が聞こえるだけで、自分のことを笑ってるんじゃないかって思って、ビクビクしてしまう。昔からずっと、そんな性格だった。


 中学一年生の五月、僕は学校に行かなくなった。

 大型連休が明けて、どうしても学校に行く気力が出なかった。


 今は充電期間だ。少し休んだらまた学校に行こう。そんな言い訳をして、二日だけ休むことを決めた。


 充電期間はそのままずるずると長引いて――僕は不登校になった。まあ、たぶんよくある話だ。


 父も母もあきれたように、小言をぶつけてきた。それらはチクチクと僕の心をえぐった。いつしか耐えがたい苦痛になって、あまり両親と話さないようになった。

 僕は自分の部屋に引きこもり、昼夜逆転の生活を送るようになる。


 隣の部屋は三つ上の兄の部屋で、たまに廊下などで会ったときには、さげすんだ視線を向けられる。


 兄は僕よりも優秀で、学校でも人気者だった。

 兄と僕は、昔からよく比較されてきた。勉強も運動もできる兄に比べて、僕は何もできない子どもだった。それでいて、自分がどう見られているかを気にすることにかけては必要以上に得意で、劣等感を感じながら生きてきた。


 不登校生活を続けて、およそ一年が経った。

 今さら学校に行ったところで、クラスメイトからは、どうして来たんだ、みたいなことを思われるだけだ。たくさんの人間から、兄みたいな軽蔑のこもった視線を向けられる場面を想像して気持ち悪くなる。


 でも、このまま外に出なければ、他人とかかわらずに済む。そういう意味では、引きこもりは楽だったけれど、同時に、このままでいるわけにはいかないと、心のどこかでは危機感も持っていた。


 一日中、ほとんど家で過ごしていた僕が熱中したのは、スマートフォン向けのゲームだった。


 スマホが一台あれば、通信料だけで何でもできてしまう時代だ。便利な世の中になった。ネットでは大人たちのそういった声をたくさん聞く。この時代に生まれてきた僕には、昔のことはよくわからないけれど、たしかにスマホは便利だと思う。


 暇つぶしのためのアイテムとして、これ以上優れたものは他にないだろう。パズルやRPG、アクション。様々なゲームが無料で遊べるのだ。


 日々、ランキングをチェックしては新作を一通り遊んで、面白いものは継続、つまらないものは削除。飽きたものは削除、久しぶりにやってみたくなったら、またダウンロード。そんなゲーム三昧の日々を繰り返して、僕は廃人みたいになった。


 そんな生活が、もう半年以上続いていた。

 正直、どんなに面白いゲームだとしても、いつしか飽きはくる。キャラの能力がインフレーションしすぎたり、更新の頻度が高すぎて、ユーザーが追いつけなくなったり。


 ゲームに熱中している時間は楽しいけれど、総合的に見れば、つまらない日々だった。

 日が昇って、世の中が活動を始める時間帯に僕は眠る。


 スマホを置いて目を閉じ、寝ようとして――ふと思ってしまう。

 ゲームなんか、何の役にも立たないじゃないか。何も残らない。プレイしている間は楽しいかもしれないけれど、それが何だっていうんだ。


 その、何の役にも立たないものしかしていない僕も、何の役にも立たないし、誰の役にも立てない。とても虚しくて、ひどく惨めな気持ちになる。


 でも、それ以外にすることを見つけられないのも事実だ。現実から目を反らして、スマホのディスプレイを食い入るように凝視する日常を送ることしかできないでいる。




 そんな腐った日常を変えたのは、一つのゲームと、一人の女の子だった。


 本当ならば、中学二年生になって数か月が過ぎているはずのある日、とても面白いゲームに、僕は出会った。

 それは『ティンクル・シンフォニー』という音楽リズムゲームだった。


 今まで音楽ゲームもたくさん遊んできたけれど、あまりのめり込めずに終わってしまったものがほとんどだ。元々リズム感がなく、ゲームとしても苦手だった。


 しかしこのゲームは別格だった。キャラクター、音楽、ストーリー、そのすべてが神がかっていた。世間的に高評価なのもうなずける。


 クルシンは僕の中で、生きがいと呼べるほどになっていた。リリースから一か月も経たないうちに、ただの暇つぶしではなくなっていた。このゲームが、僕の救いだった。


 ゲームの中でも、特に好きなキャラクターがいた。

 かすみ朱里しゅりという少女だ。


 現実に存在したらさぞ目立つであろうオレンジ色の髪をした、少し引っ込み思案で努力家の、とても可愛い女の子だった。


 転機が訪れたのは、クルシンを初めて二か月が経ったときだった。その頃にはすでに、他のゲームはほとんど遊ばなくなっていた。


 ゲームのアップデートにより、新しくストーリーが更新された。

 霞朱里が主役の話で、彼女が自分自身のネガティブな性格と向き合うストーリーだった。


 彼女の所属するMASKマスクというグループに、大きなフェスへ出演の誘いが来るが、朱里はあまり乗り気ではない。その理由は、彼女に自信がないからだった。それに対し、向上心にあふれる静葉しずはかなでが苛立ってしまう。


「まだそんな大きなステージでやれる実力がないって言うけどさ、じゃあいつになったらできるようになるの? 一年後? 三年後? それとも十年後? 自信がないなんてふざけた理由で、せっかくのチャンスを台無しにする気? いい加減にしてほしいんだけど」

 そうして、MASKのメンバーがバラバラになりかける。


 いつも悪い方向に考えて、自身を過小評価する朱里に、南白みなしろ菖蒲あやめが言う。

「朱里の、その謙虚な考え方はすごく素敵だと思う。でも、あんまり自分のことを悪く言うのはダメ。朱里だって、自分の好きな人やものが悪く言われるのは嫌でしょう? あなたのことを好きな人はたくさんいるんだから。ね?」

 

 菖蒲はミステリアスな少女で、いつもは何を考えているかわからないけれど、ときどき核心を突いたような鋭い発言をする。


 その言葉が朱里の胸に刺さる。

 朱里は思い悩み、昔よく来ていた公園で、一人きりブランコに揺られる。


 彼女は言った。

「変わろうとしなきゃ、だめなんだ」


 彼女は自分の殻を破って、何か大きなものに立ち向かおうとしている。

 涙が出てきた。


 単純な物語だ。世の中には腐るほどあふれているだろう。

 だけどなぜか、強く響いた。


 一番の要因は、霞朱里を演じる星川ほしかわあい――ほっしーの声だった。

 彼女の声は、僕の心にスッと入ってくる。どうしてかはわからないけれど、とにかく真っ直ぐに届くのだ。

 

 朱里が勇気を出したことによって、MASKの四人は仲直りし、さらに強い絆で結ばれる。


 もちろんそれはゲームの中の話で、うまくいったのだって、創作だからだ。

 それでも僕は、心を動かされてしまった。


 ——変わろうとしなきゃ、だめなんだ。


 僕は、学校に行くことを決意した。明日は金曜日だ。この機会を逃してしまえば、またズルズルとこんな生活を続けてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。朱里からもらった勇気を、無駄にしたくなかった。


 次の日の朝、制服を着てかばんを持った僕を見た母親は、ハトが豆鉄砲を食ったような顔をした。そりゃそうだろう。一年以上引きこもっていた息子が、いきなり学校に行こうとしているんだから。


「行ってきます」

 少しだけ震える声でそう告げて、僕は玄関をのドアを開けた。


 太陽がまぶしかった。日光を浴びるのは久しぶりだ。

 通学路を歩きながら、何度もくじけそうになる。

 静葉奏みたいに強いハートがあればいいのに。


 学校に着いてクラスに入ると、視線が刺さった。いきなり一年以上不登校だった男子が現れたのだ。無理もない


 南白菖蒲のように、周りの目を気にしない度胸が欲しい。

 かといって、誰からも話しかけられないのは、それはそれできつい。好奇の視線にさらされて、変な汗が出てくる。


 熊谷くまがい美亜みあみたいな、優しい人がいればいいのに……。

 耐えきれなくなって、トイレにでも逃げ込もうと席を立とうとしたとき、僕は声をかけられた。


「なあ」

 話しかけてきたのは一人の男子だった。名前はたしか、岡なんとか……だったはずだけど、思い出せない。


 イケメンで、クラスのカースト最上位です、といわんばかりの雰囲気をまき散らしている。兄の姿が重なった。それだけでもう苦手意識が確立されてしまう。


「それってさ……」

 その男子は、僕のかばんに付けられていた霞朱里のキーホルダーを指さして言った。


「ひゃっ、ひゃい」

 変な声が出た。ダメだ。もうおしまいだ。

 きっとこのあと、アニメ好きなことを馬鹿にされて笑われるんだ。


 あ、それはアニメではなくてゲームのキャラクターで、いや、もちろんいつかアニメ化してほしいけれどね。で、その女の子は霞朱里っていう子で、とても謙虚で、すごく努力家で、自分に自信が持てなかったけど最近は少しポジティブな考え方もするようになってきて、この前のストーリーでは……なんて反論及び演説をしようものなら恥を塗り重ねるだけだ。


 僕の中学校生活は今日で終了。また来週からは引きこもりの生活に逆戻り。ごめん、朱里。僕は結局、情けない人間なんだ。目をつぶって裁きの瞬間を待つ。


 だからその男子から「クルシンのキャラだよな。俺も最近ダウンロードしてさ。ハードの難易度がなかなかクリアできなくって……」なんて台詞が出てきたら、僕の思考は止まってしまうに決まっているのだ。


「なあ、なんか言えよ」

「ああ、うん。そう。霞朱里」


「ああ、そう。それそれ。俺、みくべりの曲が好きでさ」

 みっくすBerryべりー。六人組の可愛い系アイドル系ユニットだ。


「意外……だね」

 なんとか言葉を紡ぐが、これは失礼だっただろうか。


「そうか? だって可愛いじゃん」

 イケメンはさして気にしていないようだった。


「うん。まあ……そうだね」

「そうだ。フレンドになろうぜ。IDメモるからちょい待って」

「うん」


 名前もうろ覚えな彼が、何やらノートを持ってくる間、他の男子も僕の周りに集まってきた。


「お、お前クルシンやってんの?」「星五レア、何人持ってる?」

「あ、えっと……」

 僕は困惑しながら、一つずつ質問に答えていく。驚くほど自然に会話ができていた。


 ありがとう。

 その言葉をどうしても直接、朱里に伝えたくなった。

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