第29話 走り始めたばかりのキミに
二日間の休みを経て、私はレッスンに今まで以上に熱心に取り組んだ。
次は絶対に失敗なんかしてやらない。
自分にこんなに負けず嫌いな一面があったなんて思っていなかった。これもきっと、朱里が教えてくれたことだ。だから、最高のパフォーマンスで彼女に恩返しをしなくてはならない。
次のステージでは、朱里をもっと輝かせてみせる。
でも、アイドル声優という立場でいることに対するモヤモヤは、相変わらず心に居座っていた。
初めてのライブは濃密な経験だったことは間違いないけれど、そのことは解決していない。この悩みが解決しないままズルズルと、私は今の仕事を続けていくのだろうか。
「今日も一日、頑張りましょう!」
スマートフォンから朱里の、つまり私の声が響く。
画面をタップして、ログインボーナスを受け取った。
「朱里はいいよね。正真正銘のアーティストなんだから。別にアーティスト志望じゃないけど、私だって何か一つのことを極めたいよ」
メニュー画面の左下で笑顔を浮かべている朱里に向け、私は愚痴をこぼす。
この仕事は、悪い言い方をすれば中途半端なのだ。キャラクターに声を当て、歌を歌い、ダンスを踊る。全部をプロ級に完璧にこなせたら最高かもしれないけれど、そんなの無理だ。
それに、あくまで主人公は私ではなく朱里。声優ではなく、キャラクターである。
私が目指していた声優は、キャラクターを通して、人に勇気を与える存在だ。
あの日、世界に絶望していた自分が救われたみたいに、誰かの世界に希望を差し伸べる声優に、私はなりたいのだ。
八月。私たちMASKのデビューシングルが発売された。
『Masking Girls』と『Sing to the Light』の両A面シングル。
デビュー作としては異例のヒットを飛ばし、オリコンランキングでもウィークリー三位に入った。
もちろん嬉しかったけれど、素直に喜ぶことはできない。この結果は私の実力ではないのだ。
大手企業『ムジカ』の企画力、宣伝力。話題の作曲グループ『
発売に合わせて、CDのリリースイベントが行われた。
略してリリイベ。お渡し会とも呼ぶらしい。私たちが手渡しでファンにCDを渡すイベント。いわゆる、アイドルの握手会みたいなものだ。
声優のこういった活動に、当初抱いていた嫌悪感はいくらか薄らいだが、まだモヤモヤは消え去ったわけではない。
今回のイベントは、MASKのCDを購入すると、その場で私たち四人の誰かから商品を手渡され、三十秒くらいの会話ができるというものだった。あまりメジャーでないアイドルグループなんかがよくやっている。
誰から手渡されるかは完全にランダムで、基本的には嬉しそうに受け取ってもらえたけれど、たまにそうでないお客さんもいる。露骨に興味のなさそうな顔でCDを受け取り、むすっとした顔で一言「頑張ってください」と添えてすぐに立ち去ってしまう。おそらく、私以外の三人の誰かが目当てで参加したのだろう。
たしかに気の毒だし、こちらも申し訳なくなってくる。でもルールはルールだ。CDは定価なのだから文句を言われる筋合いもない。そんな理論武装で、精神的ダメージをごまかす。
でも「ファンです!」とか「大好きです!」とか「これからも応援してます!」なんて言われると、やっぱり嬉しいし、芸能人がよく言うような『ファンの応援が原動力になってます』という言葉が嘘ではなかったこともわかる。
小豆は不愛想ながらも、礼儀正しくCDを手渡している。
友はさすがというべきか、慣れている感じでファンとのコミュニケーションを楽しんでいた。
瑠璃もいつも通り、マイペースで対応している。
イベントの終了時間が近づいてきて、人も少なくなってきた。
私の列に割り当てられたのは一人の少年だった。身長と雰囲気からして、中学生か高校生だろう。男子にしては少し長めの髪。猫背気味で、失礼を承知で言ってしまえば根暗な印象。
「こんにちは。応援ありがとうございます」
特に彼の方から話しかけてくる様子も見られないので、私は定型文を口にする。このあたりは数をこなしたことで、かなり慣れてきた。
CDを手渡すと、少年はおずおずと受け取る。緊張しているようだった。
「あっ、あの。……僕、学校に行けるようになったんです」
突然、脈絡もなく少年は話し出した。
「え?」
よくわからなくて、戸惑ったような反応を返してしまった。事実、戸惑っていたのだけれど。
「あの、えっと……すみません。えっと……僕、中学一年生のときからずっと学校が嫌で不登校だったんですけど」
彼は一つひとつ、丁寧に言葉を紡いでいく。顔は下に向けながらも、視線はちらちらと私をとらえていた。
「クルシンの、この前のストーリーを見て、あ、あと、MASKの曲とかも聴いて、それで……そしたら頑張ろうって思えてきて。しゅりと、ほっしーのおかげです」
彼の言っていることを理解した瞬間、胸が熱くなった。
目の前の少年と、あの日の私が重なった。
『救世主はプリンセス』を見て、
私は思い出した。声優を目指すと決めた日のことを。
次は私が誰かに勇気を与える番だと、そう決意してこの道を選んだのだ。
「時間です」と、ストップウォッチを持ったスタッフが終了を告げる。
「だから、これからも頑張ってください! あ! あと、次のライブ行きます! 絶対に行きます!」
少年は列から離れながら、顔だけこちらに向けて早口で言った。さっきよりも少しだけ大きな声だった。
きっと端から見れば、声優とそのファンのただのほほえましい接触だけど、私にとってはそれ以上の意味があった。
私はちゃんと、誰かに勇気を与えられていたのだと、名前も知らない少年が教えてくれた。
「うん。ありがとう。頑張ります」
涙がこぼれそうになったけれど、ぐっとこらえた。私はプロで、今は仕事中だから。
営業用スマイルをする必要もなく、自然とこぼれた笑顔で私は答えた。
今日は来てくれてありがとう。
私を見つけてくれてありがとう。
もう一度、夢を思い出させてくれてありがとう。
私にとって大きな意味のあったリリースイベントは、夕方の六時過ぎに終了した。
「あれ、星川さん。何かいつもより楽しそう」
帰りの送迎バスの中で、浅海さんが言った。
「そう見えますか?」
人を観察する眼はさすがだと思った。少し怖くもあるけれど。
「うん。何かが吹っ切れたみたいな感じがする。頼もしいなぁ」
眉を下げ、自分の知らないところで成長する娘を見る父親のような、少し寂しそうな表情をした。
「ふふ。これからもよろしくお願いしますね」
「こちらこそ」
気がつくと、胸にあったモヤモヤはなくなっていた。
これからの私は、この仕事をちゃんと誇りに思える。
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