第18話 FLAWLESS

 いつもより多めのダンスの練習でくたくたになった日の夜。私はベッドに横になって、眠ろうとしていた。

 心地よい眠気に揺られながら天井を見上げていると、ふと昔の出来事を思い出した。


 知らない女の人に勇気をもらったのは、私が十八歳のときだった。

 あの出来事がなければ、私は今、声優になれなかったかもしれない。




「……さっむ」

 喫茶店から出て呟く。時刻は六時を回ったところで辺りは暗くなっていた。空気が冷えていて、セーターを着ていてもうっすらと寒さを感じる。


 決意を胸に家を出てから、すでに七時間以上が過ぎている。

 私はため息をついた。


 近くにあった公園のベンチに腰かけて、かばんに入った封筒を取り出す。

 中にはとある声優のオーディション応募要項が入っている。初めての応募だった。いや、まだ応募してないんだけど……。


 私なんかが本気で声優を目指してもいいのだろうか。ずっと迷っていて、やっと書類を投函するために外出したのに、結局出せないままでいる。


 顔も名前も知らない誰かが、私の応募した履歴書を見て、鼻で笑っているシーンを想像して怖くなる。どこまでも私は臆病だ。


 糊付けもして、切手も貼って、あとは送るだけ。書いた内容は何回も見直したけれど、それでも不安だ。書き忘れたところはないか、誤字脱字はないか……。

 この封筒さえ投函すれば、逃げ道はなくなるのに。


 昼前に家を出た私は、電車を使って少し遠い場所へ来ていた。交通費まで使ってわざわざ外出していることにして、目標である応募書類の投函を意地でも果たそうという魂胆だった。


 そんな遠回りな方法で勇気を奮い立たせている自分を情けなく思った。

 そこまでしても私は、封筒をポストに入れることを躊躇ってしまう。


 昼前には小腹が空いたこともあり、いったん落ち着こうと、食事をとることにした。


 ファストフード店でハンバーガーを食べて、いざ投函しようとするも、そこでも足踏みしてしまう。さらに散歩をしても気持ちは固まらず、リラックスしようと思い、近くの喫茶店に入ったのがもう三時間前のことだった。


 勇気を出す勇気が出ないまま、私は立ちすくんでいた。


 昼と夜の境目で、駅前は賑わっていた。部活帰りのジャージを着た中学生。散歩中の、小さな子供を連れた夫婦。友人とゲームセンターに入っていく高校生。仕事が終わって晴れやかな顔をしている社会人。落ち着かない様子でそわそわしている男の人は……デートの待ち合わせだろうか。


 みんな頑張って今日を生きている。私も頑張らなくては。

 深呼吸して気持ちを落ち着けようとする私の耳に、歌声が届いた。冷たい夜空のように澄んだ、強い歌声だった。


 この辺りでは、平日休日を問わず、路上ライブが盛んに行われていた。テレビにもよく出ている有名なアーティストが、昔この場所で路上ライブをしていた、なんて話もある。有名になる前の下積み時代というやつだ。今はまだ小さな舞台でも、いつか大きく羽ばたくことを信じて、夢を追って歌う。今、聴こえている声もその類のものだろう。


 聞きに行ってみよう。明確な理由はないけれど、なんとなくそう思った。

 耳を澄ませて方向を特定する。


 決して広くはないスペースで歌っていたのは、私と年齢のそう変わらない一人の少女だった。粗削りではあるが、力強い歌声が響き渡っている。マイクを片手に、恥じることも憶することもせず、前だけを見て歌っていた。彼女の声には、宇宙まで届きそうな強さがあった。


「すごい……」

 思わず私は呟く。


 彼女の姿に、なぜか涙が出そうになった。感動、とはちょっと違う。同じくらいの年の人がこんなにすごいことをしているのに、私はなんて情けないんだろう。そんな悔しさもあるけれど、それ以上に感じたのは、憧れだった。


 自分のすべてをさらけ出している。足を止めて聴いている人は十人もいないけれど、自分自身の声で堂々と歌っている彼女のことが、私は羨ましかった。


 私は彼女の歌が終わるのを待たずに、その場から駆け出した。かばんから乱暴に封筒を取り出し、ポストを探す。


 なかなかポストが見つからず、五分ほどさまよってやっと発見した。

 息を切らしながら、私は祈りを込めて応募書類を投函する。そこにはもう、迷いはなかった。


 こうして、一人の少女の歌に背中を押されて、私は一歩を踏み出すことができた。


 帰りに少女が歌っていた場所へ立ち寄ったが、彼女はすでにいなくなっていた。

 名前だけでもチェックしておけばよかった。顔もあまり思い出せない。またこの場所に来れば会えるかもしれないけれど、進んでそうしたいという気にもなれなかった。


 ありがとう。

 私は心の中で、少女にお礼を告げる。


 私はあの少女の姿を、またどこかで見れるような、そんな気がしていた。

 どこかの路上ライブで。

 テレビの向こう側で。

 あるいは――。

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