第17話 セツナ Ring a Bell
レッスンと並行して、声の収録も始まった。
「私は……やってみたい! ねえ、やろうよ! 奏ちゃん、美亜さん、菖蒲ちゃん!」
ガラス張りの防音設備の空間で、マイクに向かって台詞を読み上げる。
小豆の演じる奏たちと一緒に、MASKとしての活動を事務所から提案され、ためらいながらも一歩踏み出すシーンだ。
不安や怖さがある中で、朱里は勇気を出して仲間に呼びかける。MASK結成のターニングポイントともいうべき場面。
画面の中の朱里が羨ましかった。今の彼女は、私と同じように悩んでいる。これから苦しむ場面も出てくる。しかし、彼女はゲームの中の存在だ。私と違って、すでに悩みが解決することが確定している。
ゲームは作りものだ。作りものだから、結末が決まっている。成功する未来がすでに約束されている。
それに対し、現実はそう甘くない。悩みの解決も、明るい未来も約束されていない。
だからこそ人は、努力を重ね、考え、ときにつらい思いもしながら進んでいく。
それはとても尊いことなのだけど、たまに疲れてしまうこともある。好きなこと、楽しいことをしているだけで、すべてが上手くいったらいいのに。つい、そんな都合のいいことを考えてしまう。
声の収録は、歌やダンスに比べれば、ずっと声優らしい仕事だった。
しかし『ティンクル・シンフォニー』はアニメとは違い、ほとんど静止画の状態のキャラクターに声を当てることになる。最低限の表情の変化はあるが、それだけだ。私は声だけで朱里の感情を表現しなくてはならない。
「奏ちゃんはさ、いつも頑張ってるよ。頑張りすぎなくらい。だから、きっと大丈夫だよ」
失敗をして落ち込む静葉奏を励ますシーン。
「美亜さん。いつもありがとう。これからも美亜さんのままでいてね」
グループの母親役でもある熊貝美亜に感謝するシーン。
「菖蒲ちゃん! その変なサングラス、かえって目立ってるよ! ほら、みんな見てるから! 外したほうがいいって!」
街中で逆効果の変装をする南白菖蒲にツッコミを入れるシーン。
納得がいかなければ、何度も録り直した。疲れて泣きたくなることも、上手くいかなくて逃げ出したくなることもあったけれど、妥協はしたくなかった。
霞朱里の声を確立し、彼女を染め上げていく。その行為は、幸せ以外の何ものでもなかった。
彼女が悩んでいるときは導いて、彼女が頑張っているときは精一杯応援して、彼女が喜んでいるときは一緒に嬉しくなって。私に母親の経験なんてないけれど、自分の子どもに対する愛情っていうのは、きっとこういう気持ちなのだろう。
「なあ、ちょっといいか」
小豆から声をかけられたのは、何回目かの声の収録があった日の夜だ。
「うん。どうしたの?」
彼女の様子がいつもと違う。モジモジしていて、どこか小豆らしくない。
「あのさ、もしこのあと空いてたら――」
彼女の提案で、二人でご飯を食べに行くことになった。こういったことは初めてで、少しだけ緊張する。
キャラメルスカイの事務所から少し離れたファミレスに入る。
歩いている間も、ファミレスに入ってからも、小豆は落ち着かない様子だった。
店員に注文をして、食事を待っている間も彼女は無言だった。何かを考え込むように腕を組んでいる。周りは家族連れが多く、店内は賑やかだった。
注文が到着してからも、会話をすることなく食事を口に運ぶ。話はとりあえず食べ終わってからということらしい。私も小豆にならって、注文したドリアを食べる。熱くて美味しい。
「あのさ、演技のコツとかって、なんかあるか?」
私が食事を食べ終えたタイミングで、彼女は切り出した。
「どうしたの?」
頭でも打った? そんなニュアンスを込めて私は聞き返す。
声優という仕事に興味はないはずの彼女が、そんなことを聞くなんて。予想もしてみなかった。
「……スタッフの視線が気に入らねえんだよ」
小豆は私とは別の場所に視線を向けながら言った。
「どういうこと?」
詳細を聞いてみると……どうやらスタッフは小豆の演技に対し、釈然としない表情ながらもOKを出すのだという。
声優には初挑戦だし、こんなものか。そういう諦めの感情が伝わってくるらしい。小豆はそれが気に入らないみたいだ。
気持ちはわからなくもない。期待されないというのは、思ったよりもつらいものだ。
「うーん。コツっていってもなぁ」
練習あるのみ、くらいしかアドバイスできそうもない。けれど小豆も、それくらいは当たり前のように理解しているはずだ。
「何でもいいんだ。小さいことでも」
小豆は身を乗り出してくる。整った凛々しい顔が迫ってきて、少しドキッとしてしまう。
彼女とは馬が合わないとはいえ、同じグループの仲間だ。別に彼女のことが嫌いなわけではない。どうにかして、有益な助言をしてあげたいが……。
「あ、身振り手振りを入れてみたら?」
一つだけ思いついて、私は提案する。
「どういうことだ?」
小豆は眉間にしわを寄せて疑問を露わにする。
「声と行動って、私たちが思ってるよりも連動するの。例えばさ、電話で謝るときに実際に頭下げる人いるじゃん。あれは、実際に謝る動作をしたときに申し訳なさそうな声が出るからで……」
我ながら例えが下手だと思った。少しでも役に立てればいいのだが……。
「なるほどな」小豆は感心したように言う。元々、彼女は素直な性格だ。「わかった。明日からやってみる。あと、今日の支払いは任せろ。これで貸し借りなしだからな」
そう言って、小豆は伝票を持って席を立った。お財布がピンチな私は、お言葉に甘えることにした。今まで入った給料は必要な分以外、家に入れている。
小豆と別れて岐路につきながら、違和感を覚えた。
あれ。小豆は明日からやってみるって言ってたけれど、明日は声の収録はなかったような気がする……。
このときは、単に小豆の言い間違いだと思っていた。
二日後、浅海さんからある噂を聞いた。小豆がスタッフに自ら頼み込んで声の再集録をしたらしい。そして、前回よりも質が大幅に上がっていたという。
「ありがとね、星川さん」
浅海さんはなんでもお見通しらしい。ここまでくると少し怖いけど……。
「な、なんのことですか?」と答えた私に、彼は微笑を返した。
私たちのデビューライブはすぐそこまで迫っていた。
決して小さくはない悩みを抱えながらも、ここまで走ってきた。
不安は日々膨らんでいくばかりで、それに押しつぶされないように、ひたすらに練習に励む毎日。
全然つらくないと言えば、それは嘘になる。
けれども、何かが変わるかもしれない。そんな期待も確かにあった。
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