第16話 モノクロームオーバードライブ
レッスンがすべて終わった後、なんだかすぐに帰る気になれなくて、私は休憩スペースのソファに座っていた。
「愛ちゃん、どうしたの?」
常温の緑茶を片手にボーっとしていると、背後から声をかけられた。
この優しい声は……。
「あっ、
私は姿勢を正して振り向く。
天月
事務所に入ってからまだ月日が浅く、廊下で迷っていた私を見かけて、優しく話しかけてくれたのが、私と先輩との出会いだった。
天月先輩はかなり有名な声優で、もちろん私も存じ上げていたので、いきなり本物の先輩に話しかけられたときは心臓が止まるかと思った。
年齢は非公開だが、おそらく三十五歳くらいだろう。一般男性と結婚して、子供が二人いる。最近はアニメの声優をしつつ、ナレーターなどもやっている。
また、アーティストとしても活動していて、アニメの主題歌を担当することも多い。今までに三枚のアルバムをリリースしていて、ライブ活動も行っている。去年は全国ツアーも開催していた。
いつも笑顔でニコニコしていて、この世の希望をぎゅっと詰め込んだみたいな、そんな存在だ。もちろん声優だから、声だって素敵。
なんとなく年上の人と話すのは苦手なのだけれど、天月先輩とは緊張しながらもナチュラルに話すことができる。先輩の人柄のおかげだと思う。
ちなみに先輩は『ティンクル・シンフォニー』でも、ラナンキュラスというグループのリーダー、ツバキを演じている。私たちMASKのように現実での活動はないが、歌や声の収録はある。力強さとしなやかさを両立させた歌声は、聴いていてとても心地よい。
そんな天月先輩が隣に座って、私の顔を心配そうに覗く。ふんわりしたアロマ系の香りに、思わずドキドキしてしまう。
「……わからないんです」
私は少し迷ってから口を開いた。
「何が?」
「声優って、裏方の仕事じゃないんですか?」
先輩は、この仕事をどう思っているんだろう。私なんかより実力も経験もある先輩なら、私の抱えている悩みに明確な答えをくれるのではないか。そんな期待があった。
「ええ。裏方よ」
私のその一言で、先輩は私の悩んでいることがわかったらしく、微笑みながら言った。
「じゃあどうして、歌とか踊りを練習しなくちゃいけないんですか?」
こんなの子供みたいだ。けれどつい、天月先輩の優しさに甘えてしまう
「愛ちゃんは、声優って具体的にどんな仕事だと思ってた?」
「キャラクターに、声をつける仕事……です」
「そうね。じゃあ、キャラクターに声がつくとどうなる?」
私は思い出す。アニメを見ているときの高ぶった感情を。キャラクターの声によって、その人物が画面から浮き上がってくるような感覚。
「キャラクターが、まるでそこにいるかのように、生き生きして見えます」
「うん。そうね」天月先輩はなおも優しく微笑む。「声優は、キャラクターを現実の世界に近づける仕事なの。その手段のうちの一つが声。もちろん、声優の本来の役目は声だけ。でも、それ以上のことができたら、それはすごく素敵なことじゃない?」
「それが歌だったり、踊りだったりってことですか?」
二次元に存在するキャラクターは、三次元のこちらから見ると遠く感じることもある。違う世界なのだから当たり前だけれど。
声優の役目は、キャラクターを現実にグッと近づけることだと先輩は言う。
でも、そんなのは詭弁じゃないか。
「そういうこと。まあ、あくまで私の考えだけどね」
「私は、そうは思いません」
つい、強めの口調になってしまった。
私の反論に先輩は驚くことなく、再び優しくふわっと笑う。
「うん。どう考えるのも自由。でも、経験もなしに決めつけるのはよくないし、もったいない。可能性を自ら狭めることになるかもしれない。一回ステージに立てばわかるかもよ」
結局、私の悩みは解決することはなく、いいように言いくるめられてしまったような気がする。
「そういうもの……なんですかね」
「人間って一人ひとり、性格も考え方も好きなものも違うからね。そこは難しいところだけど。でも愛ちゃんなら大丈夫。今、これだけ悩んで、真正面から壁にぶつかってる。いつかきっと、素敵な景色が見れると思うの」
素敵な、景色……? 今の私にはピンとこない言葉だった。でも、
「ありがとうございます。話したら少しだけ楽になりました」
「よかった。話を聞くくらいならいつでもできるから、またいつでも気軽に声をかけてね」
「はいかけて。わかりました」
とは言ったものの、尊敬する大先輩を相手に気軽に相談できるわけがない。今日は偶然、先輩の方から声をかけていただいただけであって……。
結局、考えても、誰かに相談しても答えは出ない。
だから、今はただ、自分のできることをしよう。
声優だとかアイドルだとか、そういう職業のカテゴリの前に、私はプロとして仕事をもらったのだ。まずは目の前のことに集中する。天月先輩のアドバイス通り、ステージに立ってみれば何かがわかるかもしれない。考えるのはそれからでも遅くはないと思う。
基礎的なトレーニングが減り、MASKとしての練習が増える。歌を合わせ、踊りを合わせ、私たちは二か月後のステージに向かって、真っ直ぐにとはいかないまでも、同じ目標を共有して一心に進んでいた。
楽曲のレコーディングも行った。
私たちのデビュー曲をはじめ、MASKの曲が数曲と、霞朱里のソロ曲。そのすべてが素敵な曲だった。休憩中、往復の電車で、お風呂で、何度も音源を聴いた。
私は気持ちを込めて歌った。朱里ならきっと、こんな風に歌う。
緊張して最初はなかなかうまく歌えなかったけれど、テイクを重ねるごとに良くなっているのが自分でもわかる。
完成した音源も素敵だった。ミキシングが施された楽曲を聴いて、少し不安のあった私は安心した。
これがゲームに収録され、CDとして発売されるのだと思うと、感動で目頭が熱くなる。
ある日のレッスンで、四人揃ってダンスを合わせているときのことだった。
「足、揃ってない」
曲が終わるや否や、小豆が私の方を見て指摘する。少し苛立った口調だ。
「ごめん」
私は素直に謝る。頭で動きをシミュレートしながら、次はミスをしないように意識に刻み付ける。
「あの、小豆ちゃん。もう少し優しく言ってあげても――」
友が恐る恐る、たしなめるように言う。彼女は優しくて、こういうピリッとした雰囲気が少し苦手なのだろう。
「大丈夫。ありがとう、小豆。友も、ありがとう」
私は友の言葉を遮って言う。
私は、小豆のように言いたいことをはっきりと言ってくれた方が楽だった。原因不明のままイライラされるより百倍マシだ。それに、適度な緊張感も必要だ。どうせ、本番ではもっと緊張するに決まっている。
一方、瑠璃は私たちの方を気にすることなく、一人で動きをさらっていた。目つきは真剣で、自分の世界に没頭している。私たちの会話を気にしていないというよりも、集中するあまり、周りの音が耳に入っていないのだろう。
私が認識していた限り、今の瑠璃の動きは完ぺきだったように思う。それなのに、まだ足りない何かを追い求めているというのだろうか。
彼女にあるのは、輝かしい才能だけではない。こうして、目的に向かってひたむきに進むことができる力を持っている。
才能と努力というのはよく比較されるが、才能があるわけではない私は、才能もあって努力をしている人間に、どうやって勝てばいいのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます