第2章 アイドル声優

第9話 Super Noisy Nova

 予想外の事態により、声優としての第一歩を踏み出すことになってから、数日が経過した。


 月が変わって四月。進級、進学。新学期、新生活。何か新しいことを始めるのに、これ以上ふさわしい時期はない。

 ポカポカと温かく澄んだ空気が心地よく、無条件に気持ちが浮き立つ。


 オーディションには落ちたものの、スカウトという形で声をかけられ、私は大手声優プロダクション『キャラメルスカイ』に所属することになった。思いもよらない展開だったが、とにかく、憧れていた場所へ立つことができた。


 オーディションでグランプリを取ったわけでもないのに、なんだか少し罪悪感を抱いてしまう。いや、一応最終選考までは残ってたんだし。もう少し自信を持とう。


「こ、ここに名前を書けばいいんですよね」

 ペンを持つ手を震わせながら、私は浅海あさみさんに尋ねる。


「そうそう。そんな緊張しなくても大丈夫だよ。失敗してもまたすぐに印刷できるから」

 彼は苦笑いして答えた。


 入所初日。私は『キャラメルスカイ』の事務所で、契約書にサインをしていた。書いてあることは難しかったけど、浅海さんが丁寧にかみ砕いて教えてくれた。ちなみに、捺印を二回ほど失敗して浅海さんに笑われた。手が震えるんだから仕方ないじゃないか。


 他にも、お給料の振り込みの手続きや緊急連絡先などの記入を行う。様々な書類に名前を書き、印鑑を捺していくと、自分が声優になるという実感がわいてきてついつい頬が緩んでしまう。次第に緊張もほぐれていった。


 続いて事務所の施設の案内。防音設備のある部屋や、大きな会議室、さらには仮眠室まである。

 声優事務所の基準なんてわからないけれど、かなり綺麗だと感じた。


 廊下を歩いていると、すれ違う人々が浅海さんに対して「お疲れ様です」と会釈する。それに対して彼もにこやかに挨拶を返す。


 浅海さんに対する人々の態度や眼差しからは、尊敬とか崇拝とか、そういった感情が読み取れた。もしかしてこのプロデューサーは、私が思っているよりもすごい人なのだろうか……。


 一通り施設の案内が終わって、私と浅海さんは休憩スペースとして使われている広めのロビーにいた。別の場所よりも天井が高く、開放感が感じられる作りになっている。


 綺麗な脚を伸ばしてリラックスしている様子の女性は、もしかして声優の方だろうか。

 パソコンのキーを勢いよく叩いているスーツ姿の男性は、きっと浅海さんと同じようなマネジメント業務をしている人だろう。


 飲み物やアイスクリームの自動販売機も設置されていて、一様にリラックスした雰囲気が醸し出されている。


「よし。今日はこんなところかな」

 浅海さんがそう言って椅子に座った。私も同様に腰を下ろすと、二人掛けのテーブルに向かい合って座っている状態になる。


「はい。ありがとうございました。飲み物までおごっていただいて」

 私の前に置かれている緑茶は、浅海さんに買ってもらったものだ。彼はホットココアを飲んでいる。


「で、どうだった? 星川ほしかわさん。何か感想は?」

 浅海さんは一点の曇りもない笑顔を私に向けて尋ねる。


「えっと……そうですね」私は言葉に詰まる。「本当に、声優になるんだなーって。すごいなーって思いました」


 いきなり聞かれても、そんなことしか言えない。まるで小学生の感想文みたいに薄っぺらい。


「あははは。小学生の感想文みたい」

 浅海さんが私の思っていたことをそのまま口にする。はいはい。どうせ私の語彙力は小学生並みですよ。


「じゃあ、さっそく明日からレッスンが始まるということで」浅海さんがかばんからクリアファイルを取り出す。「これ。スケジュール表」


 クリアファイルの中には一枚の紙が入っていて、一か月分のスケジュールが印刷されていた。

「ありがとうございます」


 七列五行に区切られたカレンダーにざっと目を通す。基本的に日曜日は休みだが、それ以外は土曜日も含め、この事務所でレッスンや収録が行われる。


 なんとなくだけど、駆け出し声優というのは、仕事がもらえなくてアルバイトで生計を立てる、みたいなイメージがあった。最初に話を聞いた時点で、かなり濃密なスケジュールになることはわかってはいたけれど、それでも驚いてしまう。


 これが普通の会社だったらうんざりしていただろうが、自分で選んでようやくつかみ取った声優の仕事だ。当然、不満も文句もない。むしろ楽しみなくらいだ。


 最初の方はボイストレーニングが多めだが、三週間もしないうちに声の収録の予定も入っている。今から緊張してきた。

 細かい部分まで見ていくと、歌のレッスンやダンスのレッスンという項目も目に入る。


 先日の面談でもわかった通り、私は歌声を評価されているらしい。音楽事務所に所属するキャラクターの役を与えられるため、歌の練習もしなくてはならない。しかし、ダンスのレッスンをする意味がわからなくて、私は浅海さんに質問をした。


「浅海さん。この、ダンスのレッスンって何ですか?」

「ああ、ごめん。まだ詳しく話してなかったっけ。星川さんは、2.5次元って知ってる?」


「はい。数字が意味する通り、2次元と3次元の間って意味ですよね。漫画の舞台化とか、そういうやつ……で合ってますか?」


 ミュージカル俳優なんかが漫画やアニメのキャラクターを演じたり、声優がキャラクターソングを歌うことなどが2・5次元に含まれる……という認識で正しいのだろうか。漫画の実写化を俳優が演じることは少し違うみたいで……とまあ、私はその程度のあいまいな知識しかないけれど。


「そうそう。まあ、僕も正確な定義は僕もよくわからないんだけどね。『ティンクル・シンフォニー』は大規模なメディアミックスプロジェクトってことはこの前も説明したと思うんだけど、覚えてるかな。ゲームの中のキャラクターたちが、現実でも活躍するって話」


「現実でも……。ああ、はい」

 そういえば、最初の説明のときにも言っていた。

 メディアミックスプロジェクトの一環として、リアルの世界でも活動してもらう。


 あのときはいっぱいいっぱいで、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。けれど、歌った歌がゲームに収録される、くらいしか想像していなかったから、あまり大げさに受け止めていなかったのだ。


「そう。ライブをするんだ。バンドとかアイドルみたいに」

 ライブ……。心臓が大きく跳ねた。


 それって、観客の前で、ステージでパフォーマンスを披露するってことだよね。

 動画投稿サイトにアップされていた、好きなアーティストのライブ映像を思い出す。


 えっと……つまり、キャラクターの声優として活動しながら、実際にファンの前で歌ったり踊ったりもするということか。


 たしかに、今はそういったプロジェクトがたくさんある。実際にゲームのキャラを演じる声優が、キャラクターそのものとしてステージに立ち、歌って踊る。それは立派な、一種のエンターテインメントの形だ。


 けれど……どうしても、私がステージで歌って踊る、そんな未来が見えなかった。


 考え込む私に、浅海さんが言った。

「星川さんたちは、ゲームの世界と現実をつなぐ架け橋になるんだ」


 その台詞を口にした浅海さんの表情は、上手く言えないけど、とにかくキラキラ輝いていた。これから先に起こることのすべてが希望で満ち溢れていることが、すでにわかっているかのように。ただでさえ若い外見なのに、さらに若くなったみたいだった。

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