第8話 REALISTIC


 駅から離れた住宅街にたたずむ、小さくはないがそれほど大規模でもない、中途半端な書店。そこで僕は店長として、出版業界の不況の影響を受けながらも、なんとか経営を続けていた。


「ありがとうございました。またお越しくださいませ」

 発売したばかりのコミックを購入した少女に頭を下げる。制服は着ていないけれど、高校生くらいに見えた。小さく口元がほころんでいる。きっと、物語の続きを楽しみにしていたのだろう。


「ありがとうございます」

 僕と目を合わせて微笑むと、彼女は言った。普段はお客様からお礼を言われることがあまりないので、少し驚いた。


 同時に、とても綺麗な声だと思った。一つひとつの音が自然で、流れるように紡がれたその発声は、耳に心地よかった。


 視線が合ったとき、その瞳の奥に見えた輝きに、僕――澤畑恵吾けいごは既視感を覚える。

 その正体は、昔の自分だった。


 いつか絶対に小説家になってやる。そんな身の程知らずな夢を抱いていた、あのころの自分の目と同じだった。




 僕は幼いころから本が好きだった。

 空いている時間のほとんどを読書に費やし、物語に没頭した。


 たくさんの世界を体験した。面白い本を読むことが僕の生きがいだった。

 そして、読んだ本が千を超えるころには、いつしか自らも物語を生み出したいと思い始めていた。


 りんごが重力にしたがって落下するみたいに、そうなることが当たり前だというように自然に、僕は小説家という職業に憧れを抱き、高校三年生のときに、二年かけて執筆した自信作を初めて新人賞に応募した。


 その結果は一次選考落選。まあまあ自信があっただけに落ち込んだけど、その程度で諦めるような、いい加減な夢ではなかった。


 大学生になっても創作活動は続け、まあまあ大きな賞の二次選考を突破したことも三回ほどあった。けれど、そこまでだった。


 結果を出すためには努力が必要だけど、努力をすれば必ず結果が出るわけではない。そんなことは、痛いほどにわかっていた。


 夢が本当の意味で夢になるのに、それほど時間はかからなかった。

 僕が小説家になることを諦めたのは、大学四年生の春だった。


 その作品を書き上げたときは最高傑作だと思った。今度こそデビューに手が届くかもしれない。本気でそう信じていた。


 予想通り、僕の作品は三次選考を突破し、最終選考へ駒を進めた。最終選考にまで残ったのは六作品。その中に自分の作った物語が入っていることが、たまらなく誇らしくて嬉しかった。


 ワクワクしながら、僕は出版社からの電話を待った。待ち続けている間は、何も手につかなかった。


 時が経つにつれて、気分は落ち込んでいった。それでも藁にも縋る思いで、鳴らない電話を待ち続けて――。


 結局、電話がこないまま、最終選考の結果発表を迎えた。


 大賞に選ばれたのは、自分より四歳も年下の、高校生の書いた作品だった。


 出版されたその作品を読んで、僕は思い知った。どれだけ長く生きようと、多くの努力をしようと、決して追いつけないものがあることを。


 僕は大学を卒業し、書店員となった。バイトから契約社員へ。契約社員から正社員へ。正社員から店長へ。


 小説を書いていた学生時代、どうあがいても前へ進めなかった自分が嘘のように、順調にランクは上がっていった。

 そのことが、とてもむなしかった。


 後悔も未練もないと言えば、それは嘘になるけれど。あのままがむしゃらに夢を追っていたところで、その夢が叶えられたのかと聞かれると、すぐに肯定することはできない。


 新人賞を受賞した作品はたくさん入荷してきても、数年後にはもう、その作者の名前は見かけなくなる。そんなことはざらにある。小説の世界は過酷なのだ。


 生活はささやかだけど不幸せではない。

 書店員の仕事は、きついけれど楽しい。


 それで十分だった。

 それで十分だと、自分に言い聞かせながら生きてきた。


 これ以上、何も望むものはないと、自分を説き伏せながら、これからも生きていくのだろう。




 今、コミックを買っていった少女は、夢を追っていたころの自分と同じような顔をしていた。

 きっと彼女も、何かに憧れているのだ。


 頑張れ。

 その夢が叶うかどうかはわからないけれど、僕は心の中でエールを送った。


 気がつくと、彼女はすっかり常連客になっていた。

 本を購入する際には必ず微笑んで「ありがとうございます」と、頭をぺこりと下げる。透き通るような綺麗な声だった。そして、少女は変わらず、何かに憧れている瞳をしていた。


 その少女を初めて見てから数年後、当の本人からアルバイトの応募があったときには驚いた。


 電話のときにはわからなかったが、面接のために訪れた女性を見て気づいた。僕は焦るあまり、思わずセクハラじみた発言をしてしまった。ひかれてなければいいけど……。


 彼女の名前は星川さんというらしい。月に一度は顔を合わせていたにもかかわらず、名前すら知らなかったことに気づいて、ふとおかしくなった。


 一人の人間としてよくできた子だということは、常連としての彼女の接客をしていてわかっていた。彼女はどんなときも必ず、本を購入したときに頭を下げる。


 不要なレシートを乱暴にカウンターに叩きつけるようなお客様も、会計後の商品を乱暴にもぎ取るようにして去って行くお客様も、どうか彼女を見習ってほしいと常々思っていた。


 そんなわけで、彼女の採用は面接に入る前に、すでに決めていた。

 さっさと面接を切り上げて、僕は気になっていたことを聞いてみた。

 声に関して、何か特殊な訓練でもしているのか、と。


 一瞬、ためらう様子を見せてから、星川さんは答えた。

「……実は、声優を目指してたんです」


 なるほど。どうりで声が綺麗なわけだ。

 そして、その夢を諦めた話を聞いて、僕はどうしてか、とても悲しくなった。


 せめて諦めないで、人生の全部を賭けて夢を追ってほしかった。

 中途半端な僕が言えた義理ではないし、自分勝手な願いだということはわかっている。


 彼女自身にも日常があって、叶うかどうかもわからない夢を追い続けるわけにはいかない。

 かといって、僕が何をしてあげられるわけでもない。


 娘でもなければ親戚ですらない赤の他人に、夢を諦めた昔の自分の姿を重ねて、いったい僕は何をしているのだろう。あきれるしかない。




 星川さんはよく気がつく人だった。カバーの補充も棚の整頓も、率先してやってくれる。仕事の覚えは決して早いとは言えないが、常に周りを見ていて、自分が何をすべきかを考えている。


 事態が変わったのは、彼女がアルバイトを始めてから一週間が経ったころだった。

 始業前に、星川さんから「大事な話がある」と言われ、僕は緊張しながら彼女の話を聞いた。


 彼女の元に、声優の仕事をしてみないかという話がきたらしい。


 僕は想像した。出版社から電話がかかってきて――うちで小説を出しませんか? なんて、そんなことを言われて――。


 胸が熱くなった。歓喜とか感動とか、そういった感情とは少し違う。

 強いて言えば、『希望』という言葉が、一番しっくりくる。


 自分が実際にそういった経験をしたわけでもない。

 他人の話なのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろう。

 もしかすると、僕の願いが今になって通じたのかもしれない、なんて、バカみたいなことも思った。


 その日、仕事から帰った僕は、家の押し入れを漁っていた。段ボールを数箱開けると、探していたものが出てきた。


 束になったノートだった。角はすり減っていて、紙は薄茶色に焼けている。ノートには、小説のプロットやアイデアがまとめられていた。パラパラとそれをめくると、どんな風にして小説を書いていたかを思い出す。


 仕事と両立しながら小説を書いているような人もたくさんいるんだ。今からだって、挑戦してみてもいいじゃないか。夢というように純粋な言葉で飾ろうとは思わない。目標、くらいがちょうどいいかもしれない。まずはリハビリからだ。


 今は余暇の時間をほとんど読書に費やしている。それを半分くらいにすれば……。残業も減らそう。そのためには新しいバイトを募集しなくては……。かなり大変かもしれない。

 それでも今は、すごく楽しい気分だった。




 星川さんがのアルバイトを辞めてから一週間後、彼女が店に訪れた。

「こんにちは」

「ああ、星川さん」


 彼女の表情は、とても生き生きとしていた。同時に、どこか不安で、これから訪れる未来を恐れているような、けれどもそれを楽しみにしているような、言葉では表しようのない複雑さも備えていた。


 彼女の瞳は、夢にを叶えようとする瞳でも、夢に破れた瞳でもなく、夢の端に手が届いた瞳だった。


「正式に、声優になることになりました」

 嬉しい報告のはずなのに、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。きっと、アルバイトをすぐに辞めることになってしまったのが原因だろう。


 だから僕は、全然そんなこと気にしてない。そういう笑顔を作って、一言だけ。

「おめでとう」

 それだけを口にした。


 せっかく優秀なアルバイトを雇えたのに……。本当はそういった残念な気持ちもあるけれど、祝福する気持ちの方が圧倒的に強い。


 頑張れ。

 夢のはじまりに手の届いた彼女に、僕は心の中でもう一度エールを送った。


 そして僕は数か月後、飛び上がるほどに驚くことになる。

 キラキラと輝く彼女の姿を見て——。

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