第6話 unnamed world


 衝撃的な電話から四日後。私は声優プロダクション『キャラメルスカイ』の事務所の一室にいた。


 電話で指定された場所に行くと、スーツを着た男性に案内されて……そこからはよく覚えてない。緊張していて記憶があいまいだった。


 壁際に長机とパイプ椅子がたくさん置かれているが、現在は使われていない。どうやら多目的室のような場所らしい。


「星川愛さん」

「は、はい」


 目の前に座っているのは二人。銀縁フレームの眼鏡がやけに似合う好青年と、小太りの中年の男性だった。今私の名前を呼んだのは眼鏡の方。見た感じ、三十歳くらいだろうか。オーディションのときには端に座っていたような気がする。


「初めまして。浅海晃路こうじといいます。職業……というか、肩書は色々あるんだけど、一言で表すとすれば、プロデューサーになりますかね」


 この人が浅海さん……。落ち着いたその声は、電話で聞いていたものよりも少し低いような気がする。


「プロデューサー……ですか?」

 プロデューサーという仕事は知っているつもりでいたけれど、よく考えると詳しくは何をしているのかよくわからない。というか、肩書が色々あるってどういうこと?


「うん。コンテンツを作る仕事だと思ってもらえればいいよ」

 私の心を読んだように、浅海さんは説明してくれた。


 コンテンツという言葉も、なんとなく理解していただけで、正確な意味はわからなかったけれど、これ以上突っ込むのも申し訳なくて「ああ、はい」と納得したふりをする。


 隣にいる小太りの男性は何も言葉を発することなく、沈黙を貫いている。口元に小さな笑みをたたえたまま、表情は動かない。なんだか不気味だ。


「さて。星川さんは、好きな歌とかはあるかい?」

 浅海さんの突然の質問にたじろぐ。


「えっと……歌、ですか?」

 思わず聞き返してしまう。

「うん、歌。邦楽でも洋楽でもアニソンでも演歌でも、何でもいいんだけど」


 好きな歌……か。アニメが好きなだけあって、アニメソングは好きだった。その中から特に気に入っている曲を三曲ほど挙げる。私を救ってくれたアニメのオープニングも含まれていた。


 私の答えを聞いて、浅海さんは満足げにうなずいた。

 でも、好きな歌なんて、どうして質問されてるんだろう。その意味は、浅海さんの次の発言ですぐにわかった。


「じゃあ、歌ってみてもらえるかな」

「ここで、ですか?」

 私は思わず聞き返す。


「そうだ」

 浅海さんが、組んだ指の上に顎を乗せて言う。雰囲気が変わった。逆らえない威圧感のようなものが、全身からにじみ出ている。


「……わかりました」

 こうなったらやるしかない。覚悟を決めて私はうなずいた。


 浅海さんはタブレット機器を操作し、私が挙げた曲の中から、一曲チョイスして再生した。軽やかなサビの部分が流れる。


「この曲でいいかな」

 あまりの仕事の速さに私は驚きつつ、緊張が全身を支配していくのを感じる。


「は、はい」

 やっぱりもうちょっと待って。まだ心の準備が……。そう言いたかったけれど、もちろん言えない。


「それじゃあいくよ」

 浅海さんはいったん再生を止め、私に言った。


 間もなく前奏が始まる。

 心臓が暴れだし、呼吸が早くなる。


 大丈夫。何度も聴いてきたお気に入りの曲だ。ちゃんと歌えるはず。

 そうして、私の小さなステージが幕を開けた。


 私はよく、ボイストレーニングをするためにカラオケに行く。そのときに息抜きとして歌うことがあるが、きちんと練習したことはなかった。声を使う職業を目指しているから、そこそこ自信はあるけれど、プロレベルかと言われると自信を持ってうなずけない。最低限の音程の確保とリズム感。それだけで精いっぱいだ。


 今歌っている曲は、その中でもうまく歌えると思っている曲だ。

 しかし、緊張のせいで思い通りの声が出ない。誰かの前で一人で歌うことなんて初めてだった。


 音程もガタガタ。この話がなしになってしまったらどうしよう。そんな不安で、さらに緊張は加速していく。


 自分の声をどこからどうやって出しているのか、わからなくなってくる。生きた心地がしなかった。指先は感覚をなくして、首の後ろが熱くなる。


 なんとか歌いきった。が、本調子とは言い難い。

 突然だったから仕方ないじゃないか。もし前もって歌を歌わされることを知らされていたら、もっと上手く歌えた自信がある。練習だってするし、喉のコンディションだって整えてきた。


 ――いや、そんなのは言い訳以外の何ものでもない。


 私が歌い終わっても、しばらくその場の誰も言葉を発さなかった。その数秒が、私には一分にも、一時間にも感じられた。


「どうです? 社長」

 ようやく沈黙を破った浅海さんの言葉は、私ではなくもう一人、隣に座る小太りの中年の男性に向けて発されたものだった。


 え? 待って。今、なんて……!?

 社長。浅海さんは確かにそう言った。


 その男性——社長は、肉付きの良い口元をさらに緩ませると、無言で親指を立てた。

 少なくともいい方向に評価されているようで、私は心の中で胸をなでおろした。


「あ、この人、社長ね。歌の前に言ったら余計緊張するかなと思って。ね」

「はぁ……」

 優しいのか意地悪なのか、よくわからない。


「ちなみに、社長っていっても『キャラメルスカイ』の社長ってわけじゃないから」

「どういうことですか?」

 私は浅海さんに尋ねた。


「『ムジカ』って会社は知ってる?」

「はい」

 私は即答した。『ムジカ』といえば、私でも知っている大企業だ。むしろ知らない人がいるのかってくらい。


「京野さんは、その『ムジカ』の社長なんだ。ま、とりあえず今から色々と説明するよ」

 そうして、浅海さんは話し始めた。

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