第5話 fantastic dreamer
書店で働き始めて一週間が経過した。
店長も、数人いるパートの人も優しく仕事を教えてくれる。
カバー掛けはまだ上手にできないけど、「恐れ入ります」という、普段はあまり使わない接客用語は自然に口から出るようになった。レジもある程度は打てるようになった。でも、図書カードを出されるとテンパってしまう。
今日は四日ぶりにバイトも休みで、家でゴロゴロしていた。環境の変化は自覚以上の負担があったようで、すっかり肩や腰が痛くなってしまっていた。
「んんん~」
ソファに座った状態で思いっきり体を伸ばすと、間抜けな声が出た。そのまま左右に体を曲げる。わき腹に気持ちの良いピリッとした感覚が走る。
と、ストレッチに興じていると、
「愛~? スマホ鳴ってるよ?」
昼食を作っている母が私を呼んだ。台所からは炒め物の美味しそうな匂いが漂ってきている。
「はいはーい」
ソファを贅沢に使って前屈していた私は、テーブルに置きっぱなしになっていたスマートフォンを手に取ろうと立ち上がる。
バイブレーターの振動が木製のテーブルに伝わり、ヴヴヴ、ヴヴヴという音を奏でていた。かなり長く振動しているので、電話だとわかる。
一瞬、バイト先の書店からかと思ったけれど、画面に表示されているのは知らない番号だ。
心当たりは……。
私は息をのんだ。体を流れる血液のスピードが上がる感覚。
予感が身体を駆け巡って……。
いや、まさかね——。
「……もしもし」
緊張しながら電話に出る。手が汗ばんできた。
〈わたくし『キャラメルスカイ』の
心臓が、ドクンと大きく鼓動した。
その〝まさか〟が一気に近づいてくる。
「は、はい。そうです。星川です」
〈えっと、先日受けていただいたオーディションに関しまして、お話がありまして〉
「……えっと、はい」
浮遊感。地面がぐらついている。まっすぐに立っていられなくて、私はテーブルの端に手をつく。
〈あー、えっと、申し訳ありません。グランプリではないのですが……〉
向こうも私の緊張を感じ取ったらしく、本当に申し訳なさそうに言った。
私は小さく息を吐く。
そうだ。冷静に考えてみれば、あの子――唐澤瑠璃がいた。彼女がいる限り、私がグランプリをとれるはずがない。一瞬、ほんの一瞬だけ、グランプリ受賞の連絡かと思って期待してしまったではないか。
でも——グランプリじゃなかったらこの電話は何なのだろう。グランプリは一人だけということは決まっているし、準グランプリなどもないはずだ。会場に忘れ物でもしたのだろうか……。
〈一度、お話を聞いていただきたくてですね〉
浅海という男は、落ち着きのある、淡々とした声で告げた。
「話を……ですか?」
グランプリでもないのに、いったい何の話があるというのだろう。
〈声優として、デビューしてみませんか?〉
電話越しの声は、平静を取り戻しつつあった私の心に、高破壊力の爆弾を投下した。
「へっ⁉」
驚いたときの、声が裏返るような演技が苦手で、今まで何度も練習してきたけれど、まさか実体験でそうなることがあるんなんて……。
〈実は、とあるプロジェクトが進行中で、それに携わる声優を探していたのですが……その候補に星川さんがピッタリだと思いましてですね……。詳しいことは、直接お会いして話したいと思っております。もちろん、今断ってくれても、話を聞いてから断ってくれても構いませんし、交通費もお出しします〉
まだ現実を把握しきれていない私の耳に、言葉が一気に流れ込んでくる。
プロジェクト。声優。デビュー。直接お会いして……。
それらの言葉を一つずつ、かみ砕いて理解する。
しぼみかけた期待が再び膨らんで、緊張が支配を取り戻す。
「……わ、かりました」
私が言葉にできたのはそれだけで、あとは浅海という男の言葉に対し、返事をすることしかできなかった。
彼は活動内容やこれからの予定の簡単な説明もしてくれた。もちろん、決めるのは話を聞いてからでいいとのこと。
日時と場所を再確認し、電話を切る。
夢……だろうか。アニメの中でキャラクターがよくそうするように、私は頬をつねる。痛い。どうやら現実らしい。
「何の電話だったの?」
母がベーコンを炒めながら尋ねる。しかし、その質問に答える余裕など、私には皆無で。
まずはかかってきた番号を確かめる。ネットで検索して間違いなく『キャラメルスカイ』のものであるということを確認。一応、詐欺ではないらしい。
バクバクという心臓の音は鳴り止まない。
「ちょっと、愛。聞いてる?」
大きく息を吸って、深く吐く。私はそれを数回繰り返す。
そこまでしてようやく、まともに喋れるようになった。
「どうしよう。お母さん……」
震える声で私は言った。
「どうしようって、何がよ」
「声優になれるかもしれない……」
「ええっ⁉ すごいじゃない! どうしましょ! 今のうちにサイン考えておきなさいよ!」母が大きな声で騒ぎ立てる。「って、何突っ立ってんの⁉ あんたもっと喜びなさいよ!」
無理を言わないでほしい。戸惑いがはるかに大きくて、喜びの入る余地など、今の私の心にはないのだ。
「あ……バイト、どうしよう……」
おじいちゃんにも報告しなきゃ! と電話をかけようとする母を必死で止めながら、私が次に口にしたのはそんな現実的な問題だった。
さきほどの電話で、大まかに活動の内容を聞いたが、とてもアルバイトをしている余裕はない。
あまりに急すぎて、私は考えることなく返事をしてしまっていた。
思いがけない電話の翌日。始業前。
アルバイト先の書店のバックヤードで、私は店長と向かい合っていた。
「店長、ごめんなさい」
プロダクションから電話がかかってきたということ。もしかすると、声優になれる可能性が出てきたということ。それらを正直に打ち明ける。
せっかく雇ってもらったのに。仕事も少しは覚えてきたのに。罪悪感にさいなまれながらも、私はアルバイトを辞めるかもしれない、ということを告げた。
さすがにいくら人の好い店長でも、いい顔はしないだろう。そう思っていたのだが、
「よかった」
私の耳に飛び込んできたのは、予想外の言葉だった。
彼はなぜか、安堵したようにそう言った。
「本当によかった。星川さん、まだ夢に未練があったんだろうなって、見ててわかったから」
「未練……ですか?」
自分では、未練などないと思っていた。
私はあの日のオーディションで、自分ではどうあがいても届かない才能に出会い、すべてを綺麗さっぱり諦めたはずだった。でももしかすると、諦めたと思っていただけで、心のどこかに、納得できない自分がいたのかもしれない。
「実は僕も昔、夢を諦めたんだ。そのときの自分と、おんなじような顔をしてたからね」
「え?」
店長にも、夢が……?
「ああ、声優じゃないんだけどね。僕は小説家になりたかった。昔から本を読むのが好きでさ。別にいじめられてたとかじゃないんだけど、なかなか上手く人と話せなかったんだ。ずっと一人で本を読んでるような子供だった」
思い出すように視線を上の方に向けながら、店長は話す。
「物語が、僕の全部だった。いつしか、自分で物語を作ってみたいって思うようになって。結局、全然だめだったけどね。でも、僕を救ってくれた物語たちに、どうにかして恩返しがしたくて。だから今こうして、本を売る仕事をしてる」
私と同じだ。私もあのとき、アニメに救われた。『救世主はプリンセス』のおかげで、ここまで生きてこれた。
今度は自分が誰かのそんな存在になれたらいいな、なんて思って、声優を志した……。
「情けない話をしちゃったね。僕の分までってわけじゃないけど、頑張って。あ、たまには本も買いに来てよ?」
「ありがとうございます!」
私は頭を下げる。罪悪感はもちろんある。でも、澤畑店長の言葉のおかげで、心は軽くなった。そしてそれ以上に、期待で胸がいっぱいだった。
これから待ち受ける未来を想像して、なんだか楽しい気持ちになる。
彼の言う通り、どうやら私はまだ、夢を諦めきれていなかったみたいだ。
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