第4話 ワタシイロ


 思い立ったが吉日。オーディションのあった次の日の朝。私は書店のアルバイトに応募した。


 私が声優を目指すきっかけとなった『救世主はプリンセス』からアニメにはまり、その流れで漫画を読むことも好きになった。面白いアニメの原作になっている漫画をまとめ買いすることもあれば、まだ世間に広く知られていない好きな漫画のアニメ化が決定したときに喜んだりもする。


 家から自転車で十五分くらいの場所にある書店には、今でもよく立ち寄る。

 駅からは少し離れた場所にあり、近くに競合店もないため、地元に住んでいる人——主に高齢者を中心に、学生や家族連れにも人気の書店だ。


 外観は決して綺麗とは言えないけれど、品揃えは大型書店にも引けを取らない。木製の棚には、古典的な名作から勢いのある新作まできっちりと並んでいて、在庫管理が行き届いていることがうかがえる。


 その書店にバイト募集の張り紙が掲示されていたことを思い出し、オーディションの帰りに確認したところ、まだそれはあった。時間帯や時給などの項目に軽く目を通して、電話番号をスマートフォンでメモする。


 翌日に勇気を出して電話をかけた。かけるまで躊躇はあったものの、コール音が鳴ってからは思ったよりも緊張しなかった。オーディションへの参加で培ってきた度胸が役に立ったのだろう。


 いくつか質問に答え、その日の午後に面接となった。よほど人が足りていないらしい。


 その日の午後。私は書店へと足を運んだ。

「すみません。アルバイトの面接で伺ったのですが……」

 オーディションのときとは違う種類の緊張に包まれながら、レジにいた男性に話しかける。


「ああ、星川さんですね」穏やかな声。「それじゃ、こちらに」

 黒縁の眼鏡がよく似合っている、三十台くらいの線の細い人だった。書店員という職業がすごくしっくりくる。側頭部の髪がはねているのは寝ぐせだろうか。


「ああ、すみません。申し遅れました。この店の店長をしている澤畑さわはたです」

 私を案内しながら、彼は自己紹介をした。人の好さそうな店長だ。


 木製の引き戸を開けて、バックヤードに通される。元々はそれなりの広さがあったことが予想されるが、壁際に私の身長よりも高い本のタワーが形成されているため、その空間はずいぶんと狭く感じた。


「たまに本を買っていってくれる子だよね」

 澤畑店長と向かい合う形で椅子に座ると、彼は私の顔を見て言った。


「あ、そうです」

 覚えてくれていたことに、嬉しさと驚きが半々。購入内容の多くがマイナーな漫画であることに思い至り、恥ずかしさが上乗せされる。


「いつもありがとうございます」

 と、澤畑店長が深く礼をする。

「いえいえ。こちらこそお世話になってます」

 つられて私も頭を下げた。


「それにしても、星川さんって綺麗な声してるよね。いつもさ、会計のときにお礼を言ってくれるじゃない。それがすごく印象に残っててさ。あ、セクハラになっちゃうね、これ。ごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど……」


 店長の焦った様子に、私は思わず笑みをこぼす。

 彼が良い人だという直感は確信に変わった。


「いえ。大丈夫です。褒めていただいて嬉しいですし」

 それは紛れもない本心だった。声を使う仕事を目指していた以上、ピンポイントで声を褒められれば嬉しいのは当然だ。


「わ。本当に綺麗な声。接客業だから、すごくありがたい」

 再び私の声を褒めて、店長は言った。すごく気持ちよく笑う人だな、と思った。

 え、でも、今の台詞は……どういうこと?


「えっと、それって……」

「うん。合格」

 店長は、人の良さがにじみ出た笑顔でうなずいた。


 合格って……。まだ三分も話してないのに。そんな適当に合否が決まっていいものなのだろうか。


 オーディションに落ち続けた私からすると、簡単に決まってしまうのは逆に不安になる。

 いや、むしろこれが普通なのだろうか。そりゃ、他に競争する相手がいないかもしれないけど……。


「あ、そんないい加減でいいのかって思ったでしょ」

 店長は私の心を読んだように言った。


「まあ、はい」

 私は正直にうなずく。だって、アルバイトとはいえ、お給料は発生するわけだし……。


「店員相手にきちんとお礼が言える人間に悪い人はいないし。何より、人が足りてないんだよね。情けないことに。そんなわけで、明日からさっそく来てもらえるかな?」


 私は書店に限らず、コンビニやスーパーなどでも、お会計のあとは決まって感謝を言葉にしていた。感謝の気持ちを忘れずに。それが、私が幼いころからの母の口癖だった。


 今、感謝の気持ちが巡り巡って私のところに戻って来たのだとしたら、とても素敵なことだと思う。


 なんだか嬉しくなって「はい!」と、思わず大きな声で返事をしてしまう。

「うん。返事もいい声だね。これは単なる興味なんだけど、声に関して、なんか特殊な訓練でもしてるの?」


 特殊な訓練、というほどでもないが、発声のトレーニングなどは今まで散々してきた。それに人一倍、喉の調子には気をつけている。曲がりなりにも、昨日まで声優という職業を目指していたのだ。


 普通だったら適当に流すところだったけど、私はこの人のことを、すっかり全面的に信用していた。


「……実は、声優を目指してたんです」

 私は少しだけ躊躇して打ち明ける。


 その躊躇いの本質を考えたとき、私は気づいてしまった。

 声優を目指しているなんて、恥ずかしい人間だと思われるかもしれない。

 他でもない自分の中にそんな偏見があったことに。


 昨日のオーディションの、あの少女の堂々とした様子を思い出す。私に足りなかったのは、そういうところなのかもしれない。今それがわかったところで、どうしようもないのだけれど。


「ああ、やっぱりそうなんだ」店長は大げさに驚くでもなく、淡々と私の言葉を受け入れてくれた。一安心する。「でも、過去形ってことは……」

 澤畑店長は恐る恐る、といったように、首を傾けながら疑問を口にする。


「昨日、諦めました」

 自分で言って、少し泣きそうになった。

 私よりも年下の少女。決して手の届かない才能。私は唐澤瑠璃の声を思い出す。


 なるべく悲しく見えないように表情をコントロールする。

 夢は必ず叶うだなんて、漫画やアニメでよく言われているけれど、そんなことはない。


 夢は——叶わないから夢なのだ。


「そっか」

 遠い過去を懐かしむような、そんな表情で店長が言った。それ以上は深く追求してこない。


 彼の目は、夢を諦めた当の私よりも悲しそうに見えた。

 どうしてあなたが、そんな悲しそうな顔をするんですか? そう聞こうとしたけれど、聞けなかった。

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