第3話 BRIGHT STREAM


 私が声優を目指したきっかけは、とあるアニメだった。


 中学一年生の秋、私は学校に行けなくなった。いじめだとか人間関係だとか、そういう類の理由ではない。ただ単に、私は他の人よりちょっと繊細で、心が弱かっただけだ。


 まあ、簡単に言ってしまえば、些細なことですぐ不安になってしまうような、神経質な性格だったのだ。


 誰かが笑っていると、自分が笑われていると思ってしまう。

 クラスメイトと話した後に、上手く話せていたかどうか不安に襲われてしまう。


 小学生の頃には無意識にできていたはずの、クラスメイトとの交流が、どうしようもなく苦痛になってしまったのだ。そのことがショックで、さらに苦しくなる。悪循環。


 学校のことを考えるとお腹が痛くなるようになって、気分が沈んで、それがどうしても耐えられず、私は不登校になった。


 優しい母は、無理して学校に行かなくてもいいと言ってくれた。当時の担任も理解がある大人で、保健室登校という手段や、フリースクールという制度を教えてくれた。今思えば、私は周囲の人たちに恵まれていた。


 けれど、そんな周りの優しさすらも、私にとってはストレスの一因でしかなかった。もちろん、母親や担任の教師が悪いだなんて思っていない。優しさに甘えて何もできない自分が、どうしようもなく嫌だったのだ。


 情けなさと罪悪感に押しつぶされて、どうにかなってしまいそうだった。

 身動きが取れなくなった私は、もう死んでしまおうかとすら思っていた。だって、このまま生きていても、どうしようもないじゃないか。


 もちろんそれは、思春期真っ只中の中学生がよく抱くような薄っぺらい自殺願望で、私には実行に移す気力も勇気もなかった。

 ただ、生きている意味を感じられなかったことはたしかだ。


 こんなつまらない人生に、なんの意味があるのか。そもそも、人間に生きている価値なんてあるのか。

 当時の私は、そんなことを思っていた。


 よく考えれば、たった十年ちょっと生きただけで、世界の何がわかるというのか。二十歳を過ぎた今ではそう思うけれど、当時の私は家と学校が世界のすべてだった。十三歳の少女なりに必死ではあったのだろう。


 そんな、世界に絶望していた私を救ってくれたのは、あるアニメ作品だった。


 ある日の深夜。眠れなくてリビングで温かいお茶を飲んでいたときのこと。

 何気なく点けたテレビに映っていたのは、瞳を爛々と輝かせた可愛い女の子だった。髪の毛は鮮やかな赤に染まっていて、現実にいたら目立つこと間違いなしである。


 アニメのタイトルは『救世主はプリンセス』。略称はヒメシア。プリンセスを日本語訳して姫、救世主を英訳してメシアだ。


 一人の少女がひょんなことから異能力を手に入れて、悪の組織と戦って世界を救う、ありがちといえばありがちな、壮大なファンタジーだった。


 私がテレビを点けたときは、まだアニメの放送は始まったばかりだったようで、展開に置いていかれることもなかった。


 気がついたら、三十分の放送が終わっていた。

 私の中で、何かが変わった。


 ヒメシアは、アニメ好きの間ではそこそこ評価は高かったらしい。しかし、大ヒットと呼べるほどではなく、すでに人々の記憶からは忘れ去られているような、そんな作品だ。


 作品の脚本を担当したのが若手の新人脚本家らしく、細かいところで詰めが甘い、というような批評がなされていた。もちろん、当時の私はそんなことは知らなかったが。


 私の中で『救世主はプリンセス』は、今でも一番に大好きなアニメである。

 まあ、思い出補正と言わると否定はできないけれど……。


 とにかく、人生という名の迷路に迷っていた私はアニメ『救世主はプリンセス』に救われた。


 不思議だった。

 言ってしまえば、ただの絵。それが動いているだけのはずなのに。


 どうしてこんなにも心を揺さぶるのだろう。


 どうしてこんなにも胸が熱くなるのだろう。


 どうしてこんなにも——涙があふれてくるのだろう。


 ——そうか。キャラクターが喋っているからか。


 テレビ画面の中の彼女たちは、まるで命が宿っているかのように話して、笑って、戦っていた。


 生き生きと動きながら言葉を紡ぐ次元の異なる人物たちが、すぐそこにいるように、とても身近に感じられた。


 私は彼女たちの声に魅了されたらしかった。


 その中でも特に、主人公の声が好きだった。

 ときに強く、ときに切なく、映像では見えないはずの彼女の心までも。キャラクターのすべてがその声に詰まっていた。


 もっと小さい頃もアニメは見ていたけれど、声優という職業をあまり意識してはいなかった。

 ヒメシアの一話を観た私は、作品にのめり込むと同時に、声優という職業に興味を持った。


 私が好きになったヒメシアの主人公は、明音という女の子だった。真っ赤な髪がトレードマーク。どんなときも笑顔で、ポジティブで、自分を貫ける強い女の子。ときには悩んでしまうこともあるけれど、そんなときは仲間がいつも助けてくれる。


 私とは何もかもが真逆だった。羨望と憧れ。明音になりたいとまでは思わなかったし、なれるとも思ってなかったけれど、少しでも明音みたいに強くなりたいと思った。


 それから私は毎週『救世主はプリンセス』を楽しみにして過ごした。オープニングもエンディングも歌えるようになった。


 敵はどんどん強力になっていくけれど、最後は必ず明音たちが勝つのだ。

 想いの強さで威力が増す必殺技を使えば、どんな悪でも打ち倒せる。


 しかし、最後の敵は一味違った。世界中の負の感情を吸収して巨大化する悪魔のようなラスボスだった。


 明音たちがいくら攻撃をしても、敵には通用しなかった。それどころか、諦めや苛立ちなどの負の感情を吸い取られてしまう。

 それでもなんとか彼女たちは勇敢に闘い、決戦は最終回へ持ち込まれる。


『進もう。私たちの明日へ』

 迎えた最終回。敵の覚醒により大ピンチに陥るシーンで、主人公の明音が仲間を励ます台詞だ。


 圧倒的に強大な力を前に、誰もが諦めていた。私もテレビの前で、不安を露わにしていた。彼女たちが救おうとしている世界は、いったいどうなってしまうのだろう。


 仲間のプリンセスたちはみんな傷つき、ボロボロになって、下を向いてしまっている。私も彼女たちを応援しながら、心のどこかでもうダメだと思っていた。


 しかし一人だけ、まだ諦めていない女の子がいた。画面の中の彼女の目には、希望が灯っていた。


 そして明音は前を向いて、笑顔で言ったのだ。私の大好きな声で。

「進もう。私たちの明日へ」


 それは敵との最終決戦に向けて、世界を救おうとする女の子の台詞であるのと同時に、現実を生きる私たち視聴者の心を鼓舞する台詞でもあった。そう感じるほどに、心に響く声だった。


 明るい日と書いて明日。そんな未来へ、明音は私を導こうとしている。

『進もう。私たちの明日へ』

 その台詞の『私たち』の中には、きっと自分も含まれている。それは願望でも推測でもなく、確信だった。


 明音を演じる声優が気になって、インターネットで検索してみた。どうやら、かなり人気な声優らしく、たくさんの作品に出演していた。


 私は、その声優が出ている他の作品も見てみることにした。そして驚いた。彼女が出演している作品と演じているキャラクターの情報が本当に正しいのか、数回たしかめた。


 声が——明音と全然違うのだ。

 おしとやかなお母さん役。元気な少年役。

 そのすべてを同一人物が演じているなんて、とても信じられなかった。


 それでも何度かその声を聴いているうちに、私は気づきはじめる。

 イントネーションやトーン、細かい息遣いまで、何もかもが違う。それなのに、その声の奥深くには共通する何かがあるように思えて——。


 この出来事をきっかけに、私は声優という職業により興味を持った。そしていつの間にか、声優を志すまでになっていた。


 あれから十年が経ったけれど、きっかけをくれたヒメシアは、DVDを買って何度も繰り返し見ている。


『進もう。私たちの明日へ』

 その言葉が、あの時の私を救ってくれて。

 その言葉が、今の私を形作っている。


 結局、学校に再び通うことはなかったけれど、私は夢を見つけた。


 遅れを取り戻すように勉強して、通信制の高校に入学した。レポートやスクーリングをこなしながら、色々なアニメを見て、私の中の夢は膨らんでいった。


 高校を無事に卒業した後は、本格的に声優を目指した。独学で声優の勉強をしながら、オーディションを受け続けた。


 そうして、およそ三年が過ぎた。

 精一杯のことはしてきた。そのつもりだった。でも、何かが足りなかった。その欠けている部分が努力なのか考え方なのか、はたまた才能なのか。それはわからなかったけれど。


 そう。私は出会ってしまったのだ。本物の天才と。

 二十一歳の今。

 夢は本当の意味で夢となった。

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