第2話 運命の檻
「それでは始めてください」
左端の若い審査員が名簿らしき紙を確認し、渋い声で促す。
同じようなことをもう十数回繰り返しているはずなのに、審査員たちは集中を切らすことなく、視線をまっすぐに私へと向けていた。彼らは一様に、金の卵を探し出そうとする、鋭い目をしていた。
全神経をお腹に、喉に、声に集中させて、息を吸う。
「いっけなーい。遅刻遅刻。せっかくの入学式なのに。もう、私のバカ! お母さん、行ってきまーす」
私は与えられた台本を読み上げた。うん。悪くない。良い声が出せているように思う。ベタな台詞だが、その分実力に差が出やすい。
「ええっ⁉ 坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いたんですか⁉ そうなのよ。それに、除雪車除雪作業中らしいのよ。そんな! じゃあこの竹垣に竹立てかけたのは竹立てかけたかったから立てかけたってことですか⁉」
続いて早口言葉。このセリフを言いきることに集中するあまり、二人の人間の会話であるということを忘れて、同じような声音になってしまわないように注意だ。
しっかりと高い声と低い声を使い分ける。無理はしすぎない程度に、演技の幅の広さをアピール。
さらにこの後、少年役、お婆さん役、バラエティ番組のナレーションなど、様々な台詞を読み上げる。五分間にも満たなかったはずの時間が、非常に長く感じた。
「ありがとうございました」
私は審査員に向かって頭を下げる。
「はい。ありがとうございました」
左端の審査員が穏やかな声音で返答する。その声と表情だけでは、私に対する評価を推し量ることはできなそうだ。
席に戻ろうとしたその瞬間——。
右から二番目に座っていた男性の審査員の表情が変わった。口元に小さく笑みが浮かんだのだ。
レベルが低いな、というバカにした笑みだったのかもしれないし、そもそも気のせいだったのかもしれない。真意はわからないけれど「今、笑いませんでした?」などと、確かめるわけにもいかなかった。
とにかく、私の番は終わったのだ。今さら何を気にしたところで、評価が良くなるわけでもない。
特に失敗はなかった……ように思う。私が台本を読み上げている間、審査員の顔を観察する余裕などはなかったけれど、上手くできた手応えはあった。想定していたより、声も震えなかった。
思考はよく回っているのに、動きはぎこちない。緊張で温度の上がった体を落ち着かせながら、私はさびついたロボットのような動作で席に戻る。心臓がうるさかったので、小さく深呼吸した。
私の次の子の演技は悪くないけれど平凡で、早口言葉でも二度躓いた。それを聞きながら私は思う。
もしかしたら、いけるかもしれない。小さく拳を握る。
しかし——その次。エントリーナンバー390番の少女が、絶望を運んできた。
「390番。
堂々とした様子で挨拶をした最後の候補者である彼女は、私よりもいくつか若いように見受けられる。ひょっとしたら、まだ高校生かもしれない。
そして声の実演が始まり、彼女の第一声が耳に入った瞬間、私は負けたことを悟った。
「いっけなーい。遅刻遅刻。せっかくの入学式なのに。もう、私のバカ!」
期待で膨らんでいた心に、敗北の二文字が突き刺さって、小さくしぼんでいく。
審査員の表情も、心なしか、真剣になったように思えた。
演技としては若干たどたどしいが、そんなことがどうでもよくなるくらい、彼女の声質は特殊だった。
他の誰にも出せないような、唯一無二の声。
私みたいな一般人がいくら手を伸ばしても届かない、魅惑的で魅力的な、天使のような澄んだ声。
同じセリフを読んでいるはずなのに、彼女の演技は圧倒的なまでに他の誰とも異なっていた。
彼女が立っている場所はもはや、オーディション会場などではない。
せっかくの入学式の日に寝坊してしまった可愛らしい女の子が、私の目の前に、たしかに存在した。
気づけば、腕には鳥肌が立っていた。
彼女の声によって、架空の少女に人格が宿る。想像は実態となり、台本上にしかなかったはずの女の子の存在が、現実へと浮上する。
「お母さん、行ってきまーす」
その短い台詞だけで、少女とその母親の積み上げてきた優しい関係性が浮き彫りになる。仲良く、互いに思いやりを持って暮らす、理想的な母娘の姿だ。
そして、聞こえるはずがないのに――少女がドアを閉めた音までもが響いた。
これから待ち受ける晴れやかで素敵な高校生活の青春を、私の耳は感じ取る。
全てを引き込んでしまう圧倒的な存在感。それが彼女の声にはあった。
紛れもなく、世界を創ることができる声だった。
今までたくさんのオーディションを受けてきた中で、彼女ほどの才能の持ち主はいなかった。
もしもこの子がグランプリでなければ、このオーディションは出来レースだ。もしくは、審査員たちの耳が節穴だ。
私は呆然としながらも、悲しさや悔しさは感じていなかった。それどころか、むしろ心はすっきりしているといってもよかった。
本当の才能というものを思い知った。
才能なんて関係ない。努力次第でどうにでもなる。願い続ければ、きっと夢は叶う。
私が今まで大事に抱いていた、きれいごとにも似たそんな考えは、彼女の声によって見事に打ち砕かれた。粉々になって、地面にこぼれて、風に吹かれて——どこかへ消えた。
努力ではどうにもならない壁がある。
精神論や根性などでは乗り越えられないような、高い壁が——。
唐澤瑠璃。
私はその少女の名前を、心に刻み付ける。死ぬまで忘れられないくらいに、強く。
最後に良いものを聞けて、すがすがしい気分だった。おそらく彼女は、これからのアニメ業界で活躍していくのだろう。
私はきっと、彼女がヒロインを演じているアニメを見ながら、この人と同じオーディションを受けたことがあるんだ、と、心の中だけでひっそりと、そんな悲しい自慢をしながら、平均よりもちょっとだけ不幸せな日々を生きていく。
現実を見据えて、明日から地道に生きていこう。とりあえず本格的に、長期のアルバイトでも始めてみようかな……。
「ありがとうございました」
気がつくと、唐澤瑠璃の番もいつの間にか終わっていた。早口言葉をはじめ、他の部分でも特にミスはなかった。それどころか、声質を変化させながらも透き通ったような声は健在で、より彼女の才能を感じさせられた。
彼女が席へ戻ろうと振り返る。そこで初めて、唐澤瑠璃の顔を見た。眉の上で直線に切りそろえられた前髪。その下に覗く瞳からは、強い目力が感じられた。全体的に整った顔立ちをしていた。
こちらへ歩いてくる彼女を目で追う。一瞬、目が合ったような気がして、慌てて下を向く。別に、やましいことなど何もないのに。
審査員の一人が立ち上がり、クリップボードを見ながら口を開いた。
「えー、以上でオーディションは終了です。グランプリの方には一か月以内にこちらからお電話にて連絡いたします。本日はお疲れさまでした」
おそらくこの時点で、自分の元へ連絡がないということは、唐澤瑠璃以外の候補者はわかっていたと思う。もちろん私も例外ではない。
ひょっとしたら……。もしかすると……。そんな淡い期待なんて、一ミリたりとも抱くことなく。
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