明日は今日より輝いて

蒼山皆水

第1章 夢のはじまり

第1話 Ready!!


 進もう。私たちの明日あしたへ。


 幾度も繰り返し聞いたその台詞を、頭の中に響かせる。それは魔法の呪文だった。少なくとも、私にとっては。


 私の心の中には、優しくて強い明音あかねの姿がある。苦しいこともつらいことも、彼女のおかげで乗り越えてこれた。


 大手声優プロダクション『キャラメルスカイ』の、第十二回新人声優オーディション。その最終審査。ふるいにかけられた声優の卵たちが集まる一室で——。


「373番。星川ほしかわあいさん」

 私の名前が呼ばれた。


「はい」

 歯切れの良い返事をして椅子を立ち、前へ出る。全身が心臓になってしまったんじゃないかってくらいに、胸の鼓動が激しく鳴っていた。


 私にとって、今日は運命の日だ。人生の分岐点と言っても過言ではない。

 本格的に声優を目指して三年目になる私は、様々なプロダクションのオーディションを受けてきた。


 声優養成所——いわゆる声優になるための学校のような場所に通ってからプロダクションへと進むのが、声優を目指す人の歩む一般的なルートだが、星川家にそんなお金はない。


 私が小学生の頃に両親は離婚し、私は母親に引き取られた。彼女は保険会社で働きながら女手一つで私を育ててくれた。それがどれほど大変なことか、今ならばわかる。


 私の年齢は二十一歳。働いていてもおかしくない年齢だ。それなのに、声優という夢を諦められない私を、母は応援してくれている。「気が済むまで頑張りなさい」と、そう言ってくれている。そのあとに「でも、やるなら本気でやりなさい」と続けて。私の母はとても優しくて、とても強い人だ。


 ネットや本で仕入れた知識で自分なりのボイストレーニングをこなしつつ、空いた時間に在宅でできるようなデータ入力のアルバイトをする日々。せめて少しでも母を助けようと、料理や洗濯、掃除などの家事は積極的にするようにしている。


 録画した話題のアニメを音無しで再生しながら、自分で声を当ててみたりもする。それを録音して聞き返し、客観的に自分の声を採点。正直、悪くないと思う。


 今回のように、声優プロダクションのオーディションを受けて、最終審査までこぎつけた経験も何度かある。それでも、プロの声優になるためには狭き門をくぐらなくてはならず、なかなか次のステップへと進めないでいた。


 ここまで育ててくれた母のため、家にお金を入れなくてはいけないのに……。

 オーディションに落ちるたびに情けない気持ちになる。もう声優なんて諦めてやる。そんなことを何度も思うのだけれど、一度寝て起きると、次の朝には考えが変わってしまう。


 やっぱり、声優になりたい。

 どうしようもなく、私は声優になりたいのだ。


 けれどこの世界は——夢に向かって努力しているからといって、それだけで生きていることを許されるように、そんな簡単にはできていない。そのことを理解するのに、三年という月日は十分だった。


 みっともなくしがみついて、あがいて、もがいて。そんなことを、いったい何度繰り返しただろう。いい加減、現実を生きていかなくてはならない。願った夢がきちんと報われる人生なんて、しょせんはアニメの中の話なんだ。


 青春の全部を懸けて努力したところで、その努力が報われるとは限らない。挑戦すればするほどに、私は現実の厳しさを知ってきた。


 それでもほんの一匙の希望を胸に、ここまで走り続けてきた。

 そして今、憧れていた『キャラメルスカイ』のオーディションの最終審査。決戦の舞台に私は立っている。もう少しで、夢に手が届きそうなところまできている。そんな手ごたえが、たしかにあった。


 同時に私は感じていた。

 そろそろ、限界かもしれない。


 いくら夢のためとはいえ、頑張り続けるためには、エネルギーがいる。結果の出ない努力。先の見えない未来。心は着実にすり減っていく。


 今度こそ最後の挑戦にしよう。

 これでダメだったら、声優の夢は綺麗さっぱり諦めよう。

 そう決めて、私は今、ここにいる。




 都心にそびえたつビルの七階。その一室でオーディションは行われていた。


 レンタルしたであろうその会場に、書類審査と録音による声の審査を突破した、二十人の声優の卵が集まっていた。オーディションは女性限定で、中学生にしか見えないような幼い少女から、三十台と思われる人までいる。


 この中から、一人がグランプリに選ばれ、華々しくデビューする。

 たった一人。選ばれた一人しか座れない椅子がある。

 その椅子を手に入れるため、私は横一列に並んで座る五人の審査員の前に立った。

 合計十個の目が、私をじっと見据える。


 胸の鼓動は速いままだ。呼吸が浅くなっているのがわかる。

 ——憶するな。

 私は緊張しにここへ来たんじゃない。グランプリをつかみに来たんだ。


 最終審査は実演形式。あらかじめ台詞が決められた台本があって、前に出て一人ずつ読み上げるような形だ。


 私の順番は最後から三番目だった。他の人の演技を見ることができて一見有利なようにも思えるが、緊張状態が続くし、自分より前の人たちの演技の良し悪しがメンタルに大きくかかわってくる。つまり、精神的にかなりきつい。早く解放されたいとう一心で待ち時間を過ごしていた。


 実際、審査が始まってから現在まで二時間も経っていないはずだが、倍以上にも感じられた。


 正面の審査員だけではなく、後方からもたくさんの視線を感じて、それがさらに胸の鼓動を増幅させる。


 大丈夫だ。私よりも前の人に、これといったグランプリ候補はいないように思えた。上手い人なら何人もいたけれど、そんなことは当たり前だ。最終審査なのだから。


 そしてそれは、私にも可能性があることを意味する。いや、そんなことを考えていてはだめだ。今は私の番。集中しろ。自分に言い聞かせる。


 小さく息を吐いて、私は口を開いた。

「373番、星川愛です。よろしくお願いします」

 審査員の前で、深く一礼する。

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