オーガストガール

伴美砂都

オーガストガール

 夏休みの図書館は忙しい。ここ、わかば分室はふだん一日にせいぜい十数人しか訪れないような小さな、労働人口ぶん自家用車がなければ生活できないようなド地方の図書館のしかも分室で、利用者は年配の人ばかりだ。けれど7月の終わりから8月にかけては、親子連れや小学生が(ふだんに比較すればだけど)たくさん訪れる。

 分室の入っている平屋建ての建物には、ほかに公民館と、住民票の発行なんかの簡単な行政手続きをするための窓口が入っている。古い建物で、どのドアも建てつけが悪い。


 キイと音を立てて入り口のドアが開き、上に取りつけられた小さなベルがカラカラと鳴る。ドアの音でわかるからベルは無駄な気もするんだけど、これも、たぶんずっとついている。

 入ってきたタカミさんの姿を見て、またか、とわたしは内心ため息を吐いた。

 タカミさんは、元、この市の図書館職員だったらしい。もう、とっくの昔に退職している。今はほとんど毎日わかば分室にやって来ては、雑談なのか質問なのかわからない、つじつまの合わないような話を長い時間していく。別にクレームを言ったり怒鳴ったりするわけじゃないんだけど、とにかく話が長いから、タカミさんが来ている間は仕事にならない。たぶん、ちょっとボケ始めているんだと思う。


 タカミさんがむかし図書館職員だったということを、わたしはわかば分室のもう一人の職員である中田なかださんに聞いた。分室の職員はいわゆる業務委託で、だからわたしたちは図書館のある自治体の職員ではなく、人材派遣会社に雇われている。

 中田さんは五十代の大ベテランで、ここに来る前は嘱託の市職員として長いこと本館に勤めていた。そのときタカミさんは正職員として、そこにいたらしい。


 「独裁政権みたいに怖い人だったのよお、今のご時世ならパワハラよ、もう、顔見るだけで冷や汗」


 劣化して瀕死のブラインドをむりやり閉めながら、そうなんですか、とわたしは答えた。分室には一館につき二人しか職員が配置されていなくて、月曜の休館日は二人そろって休みで、ふだんは土日のどちらか、夏休み期間は、水曜か木曜のどちらかが一人勤務になる。あした一人かあ、やだなあ、と思いながらひもを引くと、日焼けしてもとの色がもうわからないブラインドは、ギュ、と苦しそうな音を立てた。

 今日もタカミさんは午前中いっぱいカウンターに居座って、むかしここで見たのよ、絶対よ、と言って、どんなに探しても見つからないうろ覚えの本のことを言い続けた。もう何回も同じことを言われていて、本館に問い合わせてもインターネットで調べても出てこなかったし、何度もそう伝えているのに、絶対にあきらめてくれない。その前は、十何年もまえの新聞に出ていたなんとかさんという人の連絡先を知りたいと言って、でも肝心の人の名前がまちがっているのかやっぱりどう調べても出てこなかった。そのうち、そのなんとかさんとよく遊んだとか、あの人は英語も話せる立派な人だとか、そんな知り合いなんだったら直接連絡とればいいのにい、と終業後につい言うと、まあ、どこまで思い込みかわかんないからねえ、と中田さんはさすがに落ち着いた様子だった。


 「ご本人の中ではそれがほんとだし、まあ、さみしくて、話して聞いてほしいだけなのよね、きっと」


 そうかあ、と、少しだけ納得してしまった。興奮してくると身を乗り出して、絶対載ってたのよ、ちゃんと探したの、どうしてよ、と大きな声になるタカミさん。真夏なのに、派手な色の服を何枚も重ね着して、かばんにキーホルダーをたくさんつけているタカミさん。むかし図書館で働いていた、タカミさん。最初はびっくりしたけど、いつものことだからもう慣れて、適当にあしらうようになってきてしまった。タカミさんのさみしさを、わたしは考えたこともなかった。



 8月に入ってから、わかば分室をほぼ毎日訪れる人がもう一人いる。こちらは、小さい女の子だ。小さい、といっても、たぶん小学校1年生か、2年生ぐらい。すごく痩せていて、いつも水色のワンピースを着ている。名前はわからない。パソコンで本を借りるためのカードをスキャンすれば画面に名前が表示されるのだが、わたしがおぼえている限り、彼女は一度も本を借りたことがなかった。向こうから話しかけてこない利用者さんには、子どもであってもこちらから積極的に声をかけることはしない。だから、彼女はずっと知らない子のままだった。

 タカミさんが去ったお昼すぎぐらいから気が付くと絵本のコーナーにそっと座って本を広げていて、閉館までには、いなくなっている。あれ、絵本のところにいなくなったな、と思ったら、書架の向こう側に長い髪の揺れるのだけ見えたりする。近くの幼稚園や小学校の子たちはほぼ常連だから、よく来る子はだいたい名前と顔が一致する。彼女は、そのなかの誰にも当てはまらなかったし、誰とも、仲良くしている様子もなかった。

 毎日、いつ来館しているかも、はっきりとはわからない。たぶん、ほかの利用者さんの対応や書架整理をしていたり、タカミさんのボルテージが上がってしまって相手をするのに必死のときなんかに、静かにそっと入ってきているのだろうけれど。

 いつ、帰っていくのかも、わからない。そして、顔を見たときにはなんとなく、かわいらしい子だよな、と思うのに、帰ったあと顔を思い出そうとしても、ぼんやりと霞がかかったようになって、思い出せないのだった。


 「あの、いつも来る女の子、どこの子か知ってます?」


 瀕死のブラインドはついに壊れて、操作するための取手のプラスチック部分が割れてしまった。回せなくはないけどどうするかなあ、と手なぐさみにガムテープを巻く。消耗品のガムテープはそれ自体古くて、手がちょっとペタッとした。中田さんは向こうのほうで手ばやく戸締りを確認しながら、声だけで言った。


 「ああ、オーガストガール?」

 「え、オーガストガール?」


 そう、とカウンターの中に戻ってきて、明日書架に出す雑誌をカウンターの上に重ねながら言う。


 「……え、外国の子?……なんですか?」

 「ううん、あのね、あの子でしょ?水色のワンピースの」

 「はい、そうです」

 「なおちゃん4月から来たから知らなかったのね、あの子ね、毎年8月になると来るのよねえ、しゃべりかけても返事しないし、だから名前も知らないし、たぶんここらへんの子じゃない気もするんだけど、必ず毎年来るの、8月だけね、だから勝手にオーガストガールって呼んでるの」


 さ、帰るわよ、と中田さんは言って電気のスイッチに手をかけ、私が通路へ出るまで待ってくれた。


 「夜ごはん何にするんですか」

 「そうねえ、ま、ソーメンね、あと肉」

 「いいですね」

 「怪獣三匹だからね、じゃ、お疲れさまあ」

 「おつかれさまです」


 中田さんはもう孫が3人もいる。男の子3人。共働きの娘夫婦と同居していて、孫育てに忙しいのだという。駐車場から、白の軽自動車がゆっくり出て行くのを横目で見送る。

 まだ日差しは強く、一瞬で額から汗が噴き出た。公園の中を突っ切って歩く。わたしの家までここから歩いて五分もかからない。24歳実家暮らし。もう近所の子どもたちは家に帰ってしまったのか、そもそも最近はもう暑すぎて外では遊ばないのか、公園には人影はない。樹々はまだ地面に濃い影を落としている。周りを見渡しながら歩いてみたけれど、オーガストガールの姿もなかった。



 タカミさんの支離滅裂な言動は日に日にひどくなっていっているように思えた。日によっては、饐えた臭いが身体から漂う。かばんにつけた、若い子が持つようなぬいぐるみのユニコーンのキーホルダーは、もとは白かったのだろうに汚れて真っ黒になってしまっている。カウンターに居座る時間も、まえより長くなっていた。

 ただ、来館するのは決まって少し人波が途切れた瞬間で、ほかの利用者さんの対応の邪魔をするわけではなく(だれか来たらそのときだけはどいてくれる)、暴れて誰かに危害を加えるわけでもなく、長いとはいえ昼まえには帰って行く。そうするとむしろ業務妨害として追い出すようなこともできず、ただ、毎日、答えの出ない問い合わせと堂々巡りの昔話に、わたしか中田さんのどちらかが片手間に付き合うだけだった。



 一人勤務の朝は、いつも二人でする開館準備を一人でこなすから、とにかく慌ただしい。新聞をホッチキスでとめてラックにかけ、今日から貸出開始になる雑誌をデータ登録して棚に置き、ブックポストの本を大急ぎで返却しているうちに、もう開館時間になった。

 ブックポストの返却本を返し終え、少しほっとしたところでふと、絵本のコーナーに目をやると、今日はもうオーガストガールが座っていた。あれ、と思う。入り口のドアベルは、鳴ったっけ。

 カラカラと今度こそベルが鳴り、ドアが開く。そのまえからうっすら嫌な予感、というか臭いはしていたのだけれど、案の定、タカミさんだった。お盆が近いせいか夏休みにしては利用者さんの数は少なく、空いたカウンターにタカミさんはまっすぐ歩いてくる。胸のうちだけでため息を吐きながら、おはようございます、とあいさつをした。


 「あのね、ちょっと探してるものがあるんだけど」


 タカミさんの話は、いつもこの言葉から始まる。今日も長くなりそうだな、と思いつつ、はい、と返事をしたところで、電話が鳴った。すみません、と一応、タカミさんに断わって、電話に出る。はい、図書館わかば分室です、と言うかどうかの瞬間から、電話の相手はひどく怒っていた。

 電話してきたのは、近所に住む小学生の保護者だという女の人だった。クレームの内容は、きのう図書館に電話したときの対応について。昨日は中田さんが一人勤務だったけれど、とくにクレームの引き継ぎは受けていないし、中田さんはベテランだけあって利用者対応も上手だから、対応に苦情を言われるのはすごく珍しいような気もするんだけど。

 クレームは日報に書いて本館に送らなければならない。メモ用紙を取るためにカウンターのほうを向くと、タカミさんは微動だにせずそこに立っていた。ほかの利用者さんがいないのが幸いだけど、これでタカミさんまでハッスルし始めたらまずいなあ、と思いつつ、汗ばんだ手でペンをにぎる。

 電話の相手の人は、モモノイさんと名乗った。え、モノイさまですか、と聞き返してしまい、モ、モ、ノ、イ、ですっ、と余計に怒られる。利用者番号を照会したかったけれど、それ以上の情報を得ることはできなかった。

 モモノイさんがわかば分室に電話をしたのは、昨日の午後。小学生の息子がキッズ携帯を忘れて出かけてしまい、塾の時間になっても帰ってこないので、図書館にいるかと思って電話をかけた、のだそうだ。青のTシャツ、黒に黄色ラインのハーフパンツ、四年生ぐらいのメガネをかけた男の子。特徴を伝え、来ていませんか、と電話口の中田さんに尋ねたところ、中田さんは、こう言った。


 「特定の利用者さんがいらしているかどうかの情報をお伝えすることはできません、館内を見てきて、似たお子さんがいらっしゃれば声をかけて、こちらから電話してもらうように伝えることはできます」


 なるほど、とつい言ってしまい、また怒られた。こっちが親だって言ってるのに、疑われてるみたいで気分が悪い。電話口に本人を出してくれればいい話じゃないの。図書館は公共施設なのに、親が子どもの安全確認をするのを邪魔したいっていうの。

 結局、中田さんは恐竜図鑑に夢中になっていたモモノイくん(子)に声をかけて自宅に電話するよう伝え、図書館の電話を貸すと伝えた。モモノイくん(子)はモモノイさん(母)に電話し、帰宅したのだという。時間のムダじゃないのっ、と電話の向こうで、バンッと机かなにかを叩く音がした。

 たしかになあ、とは思った。言わんとすることは、わかる。でも、と、中田さんの顔を思い浮かべた。


 春、ここに入ってすぐのときに、私も同じような電話を受けたことがある。確認してきます、と言って電話を保留にした私に、ちょっと代わってね、と言って、中田さんは同じ対応をした。そのときは、とくにクレームになったりはしなかったと思う。 どうして、そう言うんですか、と聞いた私に、中田さんは真面目な顔で言った。


 「図書館はね、利用者の秘密を守らないといけないの」

 「利用者の、秘密」

 「そう、だれがどんな本借りたとか、どんな本読んでたとか、そもそも、図書館に来たかどうかも、ぜんぶ秘密」

 「え、……そうなんですか」


 たぶん、きちんと司書になるための勉強をした人なら、だれでも知っていることだっただろう。でも、私は司書の勉強をしたことがなかった。分室の委託先である人材派遣会社の、図書館に配属されるための要件として、司書資格はあくまで「有資格者優遇」で必須ではなかった。だって司書じゃないじゃん、あのひとたち、と、本館の司書さんたちに陰口を言われていたのを、一度だけ聞いてしまったことがある。まあ、そうだよなあ、としか思わなかった。公務員試験に失敗して就職試験に落ちて派遣社員になった私は、仕事に愛情も夢も情熱も、持っていなかった。中田さんも、たぶんそのことはうすうす気づいていた。でも、それでも、真面目な顔をして私に、利用者の秘密のことを話してくれた。


 「たとえば夫婦でも、奥さんがこっそり離婚に関する本を借りてたとして、それは旦那さんにうっかり伝わっちゃったら、大変なことになるでしょ?」

 「はい」

 「たとえば親子だって言って電話かけてきたとして、それが嘘で、その子を狙ってる誘拐犯だったら、大変なことになるでしょ?」

 「……はい、」

 「もし本当に親子だったとして、親が子どもを虐待していて、図書館が子どもの唯一の逃げ場だったかもしれない」

 「……」

 「そんな大袈裟なことじゃなくたってね、誰にも居場所を知られずに、一人になりたいときだって、あるじゃない、ね?」

 「……、はい」

 「図書館員にとってはねえ、どんなに近しい人たちでも、一人ひとり個々の利用者さんだし、どんなに小さなひとでも、一人の利用者さんなの、みんな等しく、秘密」

 

 ま、めんどくさいけどねえ、と言って中田さんは、ふっくらした手で私の肩をポンと叩いてガハハと笑った。


 そのときの中田さんの顔を思い浮かべながら説明を試みたけどうまくいかなくて、結局、怒鳴りに怒鳴られてガチャンと電話を切られた。とくに何か回答や対応を求められているとかじゃなくて、とにかく気に入らなくて言いたいことを言って切られたという感じだったけれど、ぐったりした気持ちで受話器を置く。

 ふっと振り返ると、まだタカミさんがそこに立っていた。クレームの電話に気を取られてタカミさんのことをすっかり忘れてしまっていたから、重ね着したボロボロの服のあまりにちぐはぐなカラーリングにぎょっとしてしまって、心臓がドクンと音を立てた。

 こちらを見ていたタカミさんと、目があった。タカミさんはいつも、ちょっと怖いぐらいこちらをまっすぐ見つめながら話すのに、どうしてだか、いま、はじめて、タカミさんと目が合った、というふうに感じた。


 「むかしね」


 タカミさんが言った。りんとした声だった。タカミさんはこんな声だっただろうか、と思った。初めて、タカミさんの声を聞いた気がした。


 「わたし、ここの分室に勤めていたわ」


 それは、初めて聞いた話だった。また、いつもの思い込みかもしれない。でも、ずっと前、中田さんが嘱託として本館で働きはじめたころには、分室はまだ直営分館で、市の職員が配置されていたのだと聞いたことがある。

 最近はタカミさんの話を、もう、ぜんぶ、いつも嘘だと思って聞いていた。けれど、なんでかそのことだけは、本当だとわかった。


 「……、そう、なんですか」


 頷いたタカミさんがわたしの目からふっと視線を外した。その視線はわたしの後ろ、カウンターの中にある、電話のほうを向いているようにも思えた。


 「……8月にね、……そう、こんな8月」

 「……、」

 「毎日来る女の子がいたの、小さな子だったわ、小さな……痩せていたから、小さく見えたのね、きっと、もう小学生にはなっていたわ、でも小さかった、いつも、絵本の絨毯のところにね、静かに、座って本を読んでた」

 「……」

 「ほかの子どもたちと違ってね、カウンターに話しかけに来るような子じゃなかったわ、友達もいないみたいだった、でも、朝来て、夕方まで、ずっと、ただ居たの……恥ずかしがりやだったのかしらね、話しかけても、あまり返事もしてくれなかった、……でもね、ほかにお客さんがだれもいないとき、話したわ、名前も教えてくれて、好きな本はね、『大きな森の小さな家』だって言ってた、ごはんが美味しそうなのが好きなんだって、ブタの尻尾を焼いたのはどんな味なのかなって、美味しそうねって言って、笑ったわ」

 「……、」

 「……流産して、離婚して、一人ぼっちになったところだったから、嬉しかった……まるで子どもができた気がして、変ね、慕ってくれる子は、ほかにもいたのに……きっと、ふだんあんまりお話をしない子が、心を開いてくれた気がして、嬉しかったのね、それから、ほかにだれもいないときだけ、二人で話すようになった、……でも、あの子は一度も本を借りなかったし、名前以外は、なにも知らなかったわ」

 

 ずっとタカミさんの方を見ていたはずなのに、何かが違う気がして瞬きをした。もう一度見ると、タカミさんはぼさぼさの白髪ではなく、肩口できっちりと切り揃えた黒髪で、色褪せたピンクや緑や紫のぼろ布のような服ではなく、見覚えのある、図書館の茶色いエプロンを着けていた。カウンターの中にいるのはわたしのはずなのに、タカミさんの背後には、予約票を挟んだ連絡待ちの本や、本館から届いたばかりの紐でくくられた新刊本を置いた、まだあたらしい木の棚が見えた。


 「ある日、電話がかかってきたわ」


 タカミさんの、皺ひとつない白い頬を涙が滑って落ちた。唇が少し荒れて血が滲んでいる。涙は、としょかん、とひらがなで刺繍された、エプロンの胸もとにぽつんと染みをつくった。


 「彼女の、母親という人だった」


 いつの間にか、タカミさんの隣に、オーガストガールが立っていた。水色のワンピースは、近くで見るとよれて袖と裾が黒く汚れていた。胸のところにある刺繍は、白いユニコーンを象ったものに見えた。それも、黒ずんでいる。前髪も肩まで伸びたのを分けた、長い髪からは、うっすらと汗と垢の臭いがした。


 「うちの娘がそちらへ行っていませんか、と言った声は切実に聞こえたわ、……引っ越してきたばかりで、迷子になってしまったと思う、と言ったの、長い黒髪、水色のワンピース、白いスニーカー、すべての特徴が当てはまったわ、……わたし、わたしね、言ってしまったの、はい、娘さんと似た女の子が、来ていますよって、……しばらくして、彼女のお母さんがやって来たわ、上品な、スーツの女性だった、当時はまだ珍しい、キャリアウーマンなのねって思ったわ、お母さんに連れられて、彼女は帰って行った」


 オーガストガールはまるい目でタカミさんのほうをちらりと見た。左目の下にうすくあざがあった。


 「数日後の新聞に、女の子が虐待されて死んだと出たわ、……新聞に写った写真は、っ、か、彼女だった、亡くなったのは、……殺されたのは、……あの日、わたしが、電話に出て、彼女の、居場所を、お母さんに、教えた日、」


 タカミさんは俯いて何度か嗚咽し、手の甲で涙を拭った。そして顔を上げ、ふっとオーガストガールのほうを向いた。その手には、いつの間にかユニコーンのキーホルダーが握られていた。汚れては、いない。真っ白のユニコーンは薄紫色のキラキラした布でできた角を輝かせ、黒いボタンでできたつぶらな眼をオーガストガールのほうに向けていた。


 「ごめんなさいね」


 オーガストガールの目をまっすぐ見ながらタカミさんが言った。涙は頬に、顎に、胸もとにどんどん落ち、エプロンの上を滑って、おなかのあたりまでぽつりぽつりと雨のように濡らした。生まれてこられなかったタカミさんの子どもが、入っていたおなか。


 「ゆるしてなんて、言えないわ、わたし、……わたし、あなたを、まも、守って、あげられなかった、……ごめんなさい、……ごめんなさい、わたし、……」


 タカミさんがその手に持ったユニコーンを、そっとオーガストガールのほうへ差し出した。


 「なおちゃん、」


 あ、同じ名前だ、と思った。そうしたらわたしの目からも涙がぼろぼろと流れた。


 「今度来たときに、あげようと思ってたのよ、あなたに」


 オーガストガールは、なおちゃんは、おそるおそる手を伸ばして、そして、ユニコーンを受け取った。


 「ありがとう」


 にっこりと笑ったオーガストガールの頬にもうあざはなかった。水色のワンピースはお気に入りのものなのか少し着古されてはいたけれど、きちんと洗濯されていてやわらかにその健康そうな身体を包んでいた。袖口のほつれたところはカラフルなチロリアンテープで器用に直され、胸もとに、真っ白なユニコーンの刺繍が輝いている。


 「たかみさん、図書館のおねえさん、ありがとう」


 オーガストガールは消えた。ああああ、と声を上げて、タカミさんは長い時間、カウンターの前で泣き続けた。



 そのあと、タカミさんは一度もわかば分室に来ない。あの日、あのあとタカミさんがいつ去ったのか、わたしはどうしても思い出すことができない。タカミさん、どうしたんですかねえ、と本館に送る予約本を梱包しながら中田さんに言うと、そうねえ、と一言だけ返ってくる。その言い方に、中田さんもタカミさんのことを、気にしているんだなとわかった。

 でも、わたしはタカミさんのことを何も知らない。いつの頃からかタカミさんは、ここを訪れても一冊も本を借りていなかった。予約の本も延滞の督促もなければ、図書館から利用者さんに電話をすることはない。利用者カードの番号を調べれば住所もわかるけど、もちろん、尋ねて行ったりしてはいけない。わたしたちは、タカミさんについて知る術をひとつももたない。


 夏が終わりに近づくにつれて、図書館も静けさを取り戻す。蝉の声がツクツクボウシに変わり、五時の閉館のあと外に出るとほんの少しだけ、空気に涼しさが混ざるようになった。

 8月が終わる。オーガストガールも、もう現れない。


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オーガストガール 伴美砂都 @misatovan

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