アリス――鏡の中の(10)



四十九院つるしいん祥歌』。


 五二〇号室のスライドドアに貼り付けられたネームプレートにはそう書かれていました。




「こう書いて『しょうか』って読むんだ」


 白兎はくとさんはあたしの心を読んだかのように素っ気なく告げて、小気味良い音を立ててドアを三回ノックします――が、中の人物からの返事はありません。しかし、それを予期していたかのように白兎さんは構わずドアのパイプ状の取っ手に手をかけます。


「い、良いんですか?」

「問題ない。いつものことだから」


 開けてみると――。


 がらん、とした病室内には一つきりのリクライニング・ベッドがあって、上半身を起こした姿勢で夕闇に染まりゆく景色を見つめたままこちらを向こうともしない女性の姿がありました――その表情はうかがい知れません。淡藤色の患者衣の上からでも分かるほっそりと痩せたシルエット。あらわになった首筋や横顔のラインからは、相応の年月の経過を見て取れます。髪は長く銀糸のように白くて。でもそこには、永年入院していることを感じさせない清潔さが――いいえ、むしろあたしは不躾ぶしつけにも、人間味がない、と感じてしまったのです。


「何見てるんだ?」

「……」


 白兎さんの問いかけにも答えはなくって。

 まるで聴こえていないような、そもそもそこにいないような、そんな錯覚すら。


 といっても、問いかけた白兎さん自身も答えが返らないのは先刻承知の上だったようです。


「ずっとこの調子だ」

「いつから、なんです?」

「一〇年前からだ。もう一〇年、ずっとこんな状態さ」


 一〇年――それは有海から聞いた話と一致します。

 あまりにも長い、長すぎる年月。


 白兎さんはいつものごとくと、さほど乱れていない寝具を整え、ゴミ箱の中身を確認し、床に置かれたスリッパを揃え、ベッドサイドに置かれたチェストの上のこまごました品々を丁寧に並べていきます。けれど、どれにも使われた様子はありません。




 しかし、


「……ん?」


 窓枠に置かれた小さな翡翠ヒスイ色の花瓶を見て、白兎さんははじめていぶかし気に手を止めました。




「誰か……来たのか?」


 白兎さんは祥歌さんを見つめて尋ねましたが答えはありません。闇に染まりつつある窓辺へと近づいて、白兎さんはまじまじと観察します。そこには一輪、紫色のボールのような花が。


「珍しい形の花ですね。なんだか葱坊主に似てます」

「アリウムだ」白兎さんは取り上げた花瓶を頭上へかざし、白色灯の光ごしに角度を変えて眺めます。「花言葉は確か……『深い悲しみ』。それにしても、一体誰が見舞なんかに……?」

「ご親戚の方、とかですかね?」

「そんなものいない」


 白兎さんはぶっきらぼうに言い捨てると花瓶を元の場所に戻し、振り返って祥歌さんの視線の行方を辿ってみますが、


「こいつを見てる、って訳でもないんだな。面倒だが、一応帰る前に面会帳を調べるか」


 そうして白兎さんはベッドの上で微動だにしない祥歌さんにゆっくり近寄ると、差し伸べた指先で優しく白く輝く前髪の流れを整え、最後に痩せた頬に触れてから静かに囁きかけます。


「じゃあ、そろそろ帰るよ。また――」






 結局、祥歌さんとは一言も交わさないまま、あたしたちは病室を後にしました。それと入れ替わるように到着した夕食を載せたワゴンには見向きもせず、白兎さんの足はまっすぐナースステーションへと向かいます。


「すみません。面会、終わりましたので」

「では、こちらにご記入を」


 一人残っていた若い看護師さんから面会帳を受け取って、白兎さんはいやにのんびりした動作で面会の終わり時間を記入しようとしたのですけれど、彼女は待ちきれないといわんばかりに受け取りもせず配膳支度のために小走りで駆け出していってしまいました。


「どうやら慌てる必要はなくなったな。早速調べさせてもらおう」

「さっきの花瓶の持ち主、ってことです?」

「そうだ」


 木曜日には安里寿ありすさんがお見舞いに来ていますから、その時なかった物であれば昨日か今日訪れた見舞客の仕業でしょう。運が良いことに、面会帳は月曜日ごとに一新しているようでした。であれば、昨日の分もここに書かれているはず。


 しかし、


「……やっぱり面会客なんて来てない。来る訳ないんだ」


 すぐにも白兎さんはリストをひととおり眺め終え、沈んだトーンで呟きます。


「あ、あの、一つ思ったんですけど」

「ん?」

「その面会帳って、面会先の病室番号まで書くじゃないですか。でも……確かにそこに行ったかどうかってところまでチェックするんですかね?」

「さすがに見張ってるほど暇じゃないだろうが――」


 あたしの一言で白兎さんはもう一度面会帳に書かれている名前を一つずつ指でなぞります。


 ひゅっ――。


 すると、今日の分に書かれたある名前のところでわずかに息を呑むような音が聴こえます。


「………………まさかな。考え過ぎだ」


 白兎さんは口端に薄い笑みを貼り付かせて首を振り、面会帳の束をそっと閉じて無人のカウンターの上に置きます。それから背を向け、エレベーターの方へと歩き出しました。


 そこに書かれていた名前、あたしにも見えました。

 丸っこい文字で、『宮後寧子』と。






 あたしたちが『県立総合リハビリテーションセンター』を出た頃にはすっかり夜の帳が降りていました。小高い丘の上に建つこの場所から見下ろすと、曲がりくねった道沿いに、ぽつり、ぽつり、とほのかな光を放つ街灯が道しるべのように灯っています。


 県道まで降りないとタクシーも来なくってね――言い訳のようにそう言った白兎さんの丸まった背中を見つめ、あたしは何も言わずにその後ろをゆっくりと歩きます。


「……聞かないんだな、あの人は誰なんですか、って」


 やがて呟いたのは白兎さんでした。あたしはしばし躊躇ってからこう応えます。


「えと……。聞いて欲しくなさそう……でしたので」

「ははは。だったら祥子しょうこちゃんを連れて来ないだろ」




 乾いた笑い。空虚で、何処か寂しげで。


 そんな白兎さんに向けてあたしが言えることなんて、全然大したことじゃなくって――。



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