アリス――鏡の中の(11)
「……煙草、吸って良いですよ? 今日一本も吸ってないですよね」
辛うじて言えたのはこんな台詞でした。
ですが、
「お、おいおい。一体どういう風の吹き回しで――」
「あそこにベンチと自動販売機があります。代わりに何か奢ってください」
白兎さんは前へ視線を投げ、改めてあたしの方にぎこちない笑みを浮かべて振り返ります。
「……オーケー。交渉成立、だな」
梅雨も明け、もうすぐ本格的な夏到来だというのに、街灯に照らされた白いプラスチック製のベンチに腰掛けると少しひんやりします。がこん――静寂の中に響き渡り、白兎さんは拾い上げた缶を左右の手に持ちつつ近寄りながら、ん? と尋ねました。
「そっちはいつもの缶コーヒーじゃないですか。甘くてミルク入りの、白兎さん御用達の奴」
「別にこっち選んだって良いんだぜ?」
「やですよ。あたし、コーヒー得意じゃないですし」
あたしは大袈裟に唇を尖らせて拗ねたふりをしてみせます。それを見て白兎さんは愉快そうに鼻を鳴らし、もう一方の手に持ったレモネードの良く冷えた缶をあたしの頬に――ひゃっ――押し付けて、今度は声に出して笑いました。まったく……とますますふてくされていると。
「あー……。そういやあ、言ってなかったな」
「何をです?」
「今日のファッション、可愛いなって思ったから。結構そういうのも似合うぜ、
「え、え――?」
それは、完全なる不意打ち。
夜で良かった――薄闇がすべてを隠してくれているはず。
きっとこの人は、真っ赤になったあたしを見て、からかうだろうから。
日差しの眩しさに目を細めるような困ったような笑みを浮かべながら。
その時あたしは彼の顔を見てきっと、思わず照れたような微笑を
あたしは急に居心地悪い気持ちになってうろうろと視線を泳がせながら、冷やされた金属面に浮き出始めた水滴と一緒に手のひらにじんわり染み出てきた汗を、太腿で挟み込むようにしてスカートで拭い去ります。今まで買ったことも着たこともなかった膝丈のフレアスカート。
「あ、ありがとう……ございます」
「いつも学校帰りだから、制服姿しか見たことなかったからな。うん、そっちの方が可愛い」
「な、何度も言わなくて良いですってば」
「はははっ」
ぐびり――白兎さんは一気に缶の中身を口腔に流し込むと、自動販売機の脇にあるゴミ箱へと歩み寄りながら続けて言います。
がらん――しゅぼっ――ふぅ。
「……少し、独り言だ。もし聴こえちまっても気にするなよ」
薄闇の中にたなびく紫煙。
「あ、あの……」
「独り言だ、って言ったろ? 良いじゃないか、少しくらい」
白兎さんは薄く笑ったようでした。
「ウチは三人きりの家族だった。親父は……いない。俺たちがまだ小さかった頃に癌で逝っちまってね。お袋と安里寿と俺の三人。それでも特に苦労することもなく、普通に成長して普通に学校へ通い、毎日をそこそこ幸せに過ごしてた。俺と
その社名なら、就活なんて遠い未来の話、と呑気に構えているあたしですら知っていました。無言で頷きます。
「でも、あの日だけは珍しく有休を取っててね。何故かってそれは、親父の命日でもあったからさ。毎年その日に三人揃って墓参りをするのが決まりになっていた。なってたんだが――」
あの日?
白兎さんは言いづらそうに言葉を切り、一つ息を吐き漏らしてから続けました。
「――俺は、どうしても行きたくなかった。大した理由なんかなかった。本当に、本当につまらない、ちっぽけで些細なことさ。前の晩に、あいつと、安里寿とその……喧嘩をしたんだ」
ふふっ――白兎さんは自嘲混じりの声を漏らします。
「俺たち双子、大の仲良しだった、だなんて下らない嘘はつかない。お互い支え合って、互いをライバル視して競い合って、それでも何処か根っこのところでは認め合ってて。同じ学校でクラスこそ違っていたけれど、周りからみたら仲の良い
ちょうど今のあたしと同世代。その頃の安里寿さんと白兎さん。
きっと二人とも相当人気だったんじゃないでしょうか。想像がつきますよね。
「安里寿は学校の成績は優秀で、スポーツもそつなくこなせた。面倒見は良いし、あのとおり明るくて人見知りしない大らかな性格だ。誰とでもすぐ仲良くなれるし、人一倍正義感が強かった。教師に対してだろうが親友に対してだろうが、間違っていることは間違っているとはっきり言ってのけるし、信じる正義のためなら自ら犠牲になることも厭わない、そういう奴だ」
白兎さんは、やれやれ、と首を振ってあたしに同意を求めるような視線を投げます。
「でもな? 俺は安里寿とは正反対だった。試験やスポーツの成績なんかで後れを取る気はなかったが、あくまで他人は他人、俺は俺って考えだ。付き合う相手は選り好みするし、気に喰わない奴は気に喰わない。正義感? はっ、そんなの偽善者のやることだ。痛い目や厄介ごとはごめん
ぴん――弾かれた火のついた煙草が虚空に弧を描き、くるくると飛んで行きました。
「ちょっと? 白兎さん?」
「分かったよ。拾うって。変なところで話の腰折るな」
ひらひらと鬱陶しそうに手を振り、ぶつぶつ溢しながら面倒臭そうに草映えを降りていく白兎さん。拾い上げて戻りつつポケットからしれっと登場したのは携帯用灰皿。まったく……。
「で、どこまでだ? ……ああ、そうだ。安里寿と俺は違う、ってところまでだったな」
白兎さんは芝居がかった仕草で灰皿に煙草をしまう様子を見せつけてから話を続けます。
「さっきも言ったとおり、その頃俺はひねくれてたんだ。……ま、今も大して変わらんが。ともかく当時は、安里寿のやることなすことが
む――と首をひねるあたしを尻目に、白兎さんは降参とばかりに両手を挙げてみせました。
「なんと安里寿は、わざわざお袋のスーツに着替えて親代理として現れやがったのさ。そして頭を下げて詫びながらも、俺以外の連中から聞いた情報を整理して、やむを得なかった当時の状況を根気強く説明し続け、退学処分のところを一か月の自宅謹慎で済むようにしちまった」
「よ、良かったじゃないですか」
「……何が良いんだよ、ちっとも良くねえ」
白兎さんは吐き捨てます。
「俺はあいつに守られた、守られちまったんだ! 対等であるはずのあいつに、保護者面した優等生のあいつにだ! その時の俺の気持ち分かるか? 分かるはずないよな? 俺がどれだけ苦労してやっと――」
その絞り出すように掠れ震える台詞の続きは、あたしのところまでは届きません。
やがて――しゅぼっ――ふぅ。
蛍のような朧げな光が瞬き、また消えて、かすかな風に乗って煙が細く流れていきます。
「……もう一〇年だ。一〇年経っちまった、あの日から。俺が一人取り残されたあの日から」
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