アリス――鏡の中の(9)
水族館の外へと出ると、もう陽は傾き、ほんのりとオレンジ色に染まり始める頃でした。
「糞。タイミング、悪いな……」
ほんの数メートル歩いたところで辿り着いたタクシープールには一台の姿もありません。
待っている客はあたしたちだけ。
それでもあたしと
ようやくやって来たタクシーに乗り込むと、白兎さんは運転手に口早に告げます。
「『県立総合リハビリテーションセンター』まで頼む」
「はいはい」
タクシーの運転手はのんびりと応じると、窺うような視線をミラー越しに投げて尋ねます。
「面会の方、ですかね?」
「ああ。十七時三〇分までには着きたいんだが……」
「じゃあ、上、使って良いですかね? ギリギリなもんで――」
「任せるよ。高速でも何でも構わない」
「はい、了解っと。それじゃあ参りますよ」
一連のやりとりを済ませた白兎さんは、ふう、と息を吐き、シートに身体を預けました。その拍子にビニール張りのシートが、ぎゅっ、と窮屈そうな音を立てます。
『県立総合リハビリテーションセンター』。
もちろんその名前には聞き覚えがあります。
でも、今日は――。
「……実はな、木曜日以外に行くのは久しぶりなんだ」
ぼんやりしていたあたしは、白兎さんが話しかけている現実にすぐ気づけませんでした。
「だから、道の混雑具合とか全然見当がついてなくってさ。何ならひと眠りしてくれてても構わないぜ、
「あ、あの……」
「ん? 何だい?」
あたしは少し躊躇います。
それから意を決してこう尋ねてみました。
「あ、あの……ですね。あ、安里寿さん、こう言っていたんです。『これが最後になるかもしれない。あたしがあたしでいられるのは』って。それって一体……どういう意味なんです?」
「あいつ……そんなこと言ったのか」
白兎さんはまっすぐ見つめるあたしの瞳から逃げ隠れもせずに苦々しくそう応えました。
だからこそ、不思議だったんです。とっても。
「そんなこと、って……白兎さん、分かってるはずじゃないんですか?」
そう尋ね返しても、白兎さんはあたしをまっすぐ見据えたまま逸らそうとはしません。
「……全部が全部じゃないんだ。あいつが隠したいと思うなら俺には伝わらない。馬鹿げた話だと思うだろうが、これは事実なんだ。逆に……俺が考えていること、俺がやることなすことの一切はあいつには分からない。わざわざ俺からあいつに話して聞かせてやらない限りはな」
「そんなのって……」
「言いたいことは分かるよ」
白兎さんは訝し気なあたしの表情を見て、済まなそうに肩を
「到底信じ難い話だろうからな。俺だって、もし祥子ちゃんの立場だったら信じられないさ。からかわれてる、騙そうとしてる、馬鹿にされてる、きっとそう思うだろう。それでも、だ」
「それでも、
「それは少し……正確じゃない」
白兎さんは、続く言葉を口にするのを嫌がるように、それがまるで罪深い行為であるかのように躊躇ってから、皺枯れた掠れた声でこう告げました。
「確かに……存在……していたんだ。四十九院安里寿、俺のかけがえのない『もう半分』は」
あたしは――何も言えずに。
白兎さんは後方へと流れ去っていく景色を見つめ、背を向けてシートにもたれかかります。
「悪ぃ。ちょっと眠る。……着いたら起こしてくれ」
あたしには分かっていたんです。
それが、今はまだ話したくない、というサインだということが。
病院に着くまでの間、あたしはカーラジオから流れる時代遅れの歌謡曲を聴きながら、車内をゆっくりと染めていく揺らめくオレンジ色をただぼんやりと見つめていたのです。
「――着いたぞ、祥子ちゃん。先に降りててくれ」
気付けば起されたのはあたしの方。いつの間に眠っていたんでしょう。ふよふよとした倦怠感に戸惑いながらも開いたドアから一足先にコンクリート敷きのアプローチに降り立ちます。
たぶん、ここは正面玄関。一般の病院とは違い、ガラス越しの視界にはあまり人気がありません。自動ドアの脇に設置されているパステルカラーで塗り分けられた施設配置図を見てみると、敷地内には大小六棟の建物があるようで、それぞれが渡り廊下や連絡通路で繋がっているみたいです。かなり広い印象。建物はそれぞれが機能・役割を持っていて、病室は――。
「待たせたな。こっちだ。少し急ぐぞ」
「あ、はい」
大股で先を急ぐ白兎さんに続いて自動ドアをくぐります。総合受付らしきカウンターの上にある時計に目をやると、今の時間は十七時四〇分。予定より遅くなってしまったようです。診察室のエリアを通り抜け、薬局を横目に右へと曲がり、しばらく進んだ先にようやく目的のエレベーターがありました。さっき見た配置図どおりならここはF棟だったはず。
一息つくように一拍置いてから、白兎さんは上階行きのボタンを押します。
それからあたしに向かってこう告げたのです。
「これからある人に会う。ただ……一つだけ約束して欲しい。頼めるか?」
「約束……? なんでしょうか?」
「その人の前で俺たちの名前を口にしないでくれ、絶対に。……いいか?」
――ぽーん。
到着したエレベーターが年季を感じさせる歪なチャイムをホール内に響かせて、白兎さんが口にした『約束』が生み出した違和感を絶妙なタイミングで曖昧にしてしまいます。けれど。
「わ、分かりました。でも、あの――」
「理由と説明なら後だ。さあ、行こう」
乗り込んですぐ白兎さんは、五と書かれたボタンを押してエレベーターの壁に寄りかかります。ほのかに漂う消毒液の臭い。見上げると扉の上にはパネルがあって、行先は病室フロアだと分かります。微かな振動と共にゆっくりとあたしたちを乗せて鉄の箱が上昇していきます。
――ぽーん。
がたつく扉が開くと、目の前にナースステーションがありました。そろそろ夕食の時間が近いのでしょう、皆忙しそうに動き回る中を白兎さんは進み、慣れた様子でバインダーに挟まれた用紙に備え付けのボールペンで何やら書き付けます。それを目にした看護師さんは、書かれた名前と白兎さんの顔をしばし見比べ、何か思い当たるフシがあるような表情をしましたが、
「面会時間は、十八時〇〇分までですので――」
とだけ告げました。
無言で頷き返してほの暗い廊下を進んで行く白兎さんの後をあたしは追います。
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