アリス――鏡の中の(3)
しまった――あたしはごちゃまぜになったどす黒い感情にただ流されて、言うまい言うまいと心に決めていたはずの一言を
気まずい沈黙。
あまりに静かで、まるで時間が止まってしまったかのように室内にはねっとりとした重苦しい空気が漂っていました。無であるはずの静寂が、軽いハウリングを立てるように
「――っ」
あたしは罰が悪くって、愚かな自分の吐き捨てた一言を飲み込みたくって――そして、白兎さんが今浮かべているであろう表情を見たくなくって、目元を覆う右腕に一層力を込めます。
どれくらいの時間が過ぎたのでしょう。
やがて、白兎さんは呟きます。
「………………かもしれないな」
自嘲気味に、わざと軽薄そうな口調を装って白兎さんは、ぽつり、と呟いたのですけれど。
あたしの心の中には、とてもそんな風には響かなくって。
「ごめ……ごめんなさい……! あの……あたしが……あたしが言いたかったのは……っ!」
「
え……?
あたしはどうして溢れてきたのか自分でも理解できない目尻から伝い落ちる涙を、大急ぎで制服の袖で拭い取ろうとします。が、それをやんわりと押し留めたのは、いつもと同じ、煙草の臭いのするほっそりとした手でした。その手に握るハンカチからは、もう一人の名探偵が好んで身に纏うパフュームの甘い香りがした――気がしました。すぐ頭の上の、ソファーの肘掛けが重さでたわみ、きゅっ、と音を立てたかと思うと白兎さんの声が優しく降ってきます。
「……辛かったな。苦しかったな。祥子ちゃんをこんな目に遭わせちまったのは、間違いなくこの俺だし、俺たちだ。どんなに詫びても埋め合わせができないってくらい責任を感じてる」
「あ、あの……白兎……さん……?」
「いいだろ、ちょっとくらい頭撫でたって。今くらいは許せ」
そうなんです。
今、白兎さんの手があたしの髪を優しく梳るように、何度も何度も撫でているのです。
「……反省も後悔もたっぷりしてる。けどな? それ以上に、祥子ちゃんが無事だったことが素直に嬉しいんだよ。俺も、あいつもね」
俺たち? あいつ? それって……つまり……?
けれど、いつもより優しくって良く笑う白兎さんは、そのことに気付いていない様子です。
「せめて祥子ちゃんだけは無事に、って思ってな。無理矢理みゃあを呼びつけて、大急ぎでモールへ向かわせたんだ。でも、みゃあはほとんど外出らしい外出しないもんだから迷っちまったらしい。まったく……文句の一つでも言いたいところだが、結局悪いのは俺たちなんだし」
「は、はぁ……。あ、あの……起きてもいいです?」
「ん? ……あ、ああ。だけど、無理はするなよ?」
ふ、と頭の上の温もりが消え去り、少し残念な気持ちになったのは紛れもない事実です。
けれど、ずーっとそうされていると何だか眠ってしまいそうで。
それに嬉野、だんだんと恥ずかしさが込み上げてきてしまって……ですね。
やっとのことでソファーの上に坐り直して身住まいを正したあたしは、時間をかけて心を落ち着かせると、白兎さんに今日起こった出来事の一部始終を話すことにしました。
やがて、
「そうか……。実は、今してくれた話の半分は、クライアントからも聞いていたんだが――」
「クライアント……
「そうだ」白兎さんは頷きます。「祥子ちゃんが思っているより、もうだいぶ時間が経ってるんだぜ? もう夜の一〇時を回ったところだ。……ああ、心配ならいらない、家の人には『今夜は泊まることになったから』って連絡してあるから大丈夫だ。で――話の続きなんだが」
あの……電話したのって、美弥さん……ですよね?
さすがに底辺地味女子のあたしのことには一切無関心な我が親も、見ず知らずのオトコの人からそんな電話がかかってきたら、今頃大騒ぎになっていると思うんですけれど。
「まず、一番心配していそうなことからだな。アイツ――
「良かった……」
「まあ、アイツもそう簡単にくたばる訳にはいかないだろうさ。何せ、絶対に死んだら許しません! ってお嬢さんにべったり付き添われているんだからな。意地でも死ねないだろうよ」
安堵の息を漏らすあたしに、白兎さんがにやりと笑いながら軽口を叩いてみせます。なんだかんだ悪態突いたり突っかかったりしながらも、白兎さんと蛭谷さんってどこか互いを認め合っている仲のような感じがして、ちょっとくすぐったい気持ち。今頃、手術が終わる予定時刻らしく、オペ室の前で円城寺さんをはじめみなさんで手術の成功を祈っていることでしょう。
「んで……問題の、
すうっ、と白兎さんの表情から笑みが消え、瞳の奥には影が降りてきます。
「警察内にも知り合いがいてな? そいつからちょこっと聞いてみたんだが……。容疑として考えられるのは、ストーカー規制法および殺人未遂罪、この二つだ。ただ、あの若さだし初犯だ。それに、一番懸念されているのは彼女の不安定すぎる精神状態にある、という話らしい」
「えと、質問良いです?」
隣に座る白兎さんに手を挙げて尋ねてみます。
「田ノ中さんはそもそも未成年なんです、罪には問われないんじゃないんですか?」
「そいつは祥子ちゃん、『少年法』についての良くある勘違いだよ」
そう言って白兎さんは薄く笑い、自分のデスクから缶コーヒーを二つ持ってくると、一つをあたしに預け、もう一つのプルタブを引き起こして口をつけながら再びソファーに座ります。
「『少年法』が定めているのは、少年保護手続に関する刑事訴訟法の特則だ。これを少し噛み砕いて言い換えるなら、犯罪を犯した未成年者については、オトナとまったく同じ刑事処分を下すんじゃなく、家庭裁判所で性格矯正と環境調整を主目的とする処置を下す、ってことだ」
ハテナ?
言い換えられてもちっとも理解できない不思議。
白兎さんはもっと分かりやすい説明はないものかと眉を
「あー。ま、ともかくアレだ」
……諦めましたね?
「彼女の年齢なら、刑事責任はすでにあるとみなされる。ただし二つの罪のうち、殺人未遂罪についての刑罰は、殺人罪のそれ、つまり死刑または無期懲役もしくは五年以上の懲役よりは減刑されることになるだろうな。少年法が適用される場合には死刑判決は禁止されているし、無期懲役に相当する場合でも大半は減刑されることになるんだ」
「い、いや、ストーカー行為をしていた件だってありますよ?」
「無論、それに関する罪にも問われるだろうが……元々初犯に下される刑罰は一年以下の懲役か罰金、って程度で比較的軽いんだ。いずれにせよあちらさんは、大至急精神鑑定の準備を進めている。極めて不安定な精神状態のままじゃ判断が下しにくい、って考えているんだろう」
「え……? それってつまり……」
「俺たちにとって考えうる最悪のケースは、三年以下の懲役刑で、執行猶予付きだ。だが……現実的にはそうなる可能性が非常に高いと思ってる」
「そ、そんな……!」
あの田ノ中さんが、再びあたしたちの前に現れるんでしょうか?
ふと想像しただけで、あたしの身体は背筋に氷柱を突き込まれたかのようにたちまち震えます。その様子を敏感に察した白兎さんの手があたしの背中に触れ、優しく撫でました。
「きっと大丈夫だ。そんなに心配そうな顔するなよ、祥子ちゃん。それより……だな。ええと……あれだ。明後日の土曜日、空いてるか? 埋め合わせを……したいんだ。あとだな――」
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