アリス――鏡の中の(2)



 ――ばしいっ!


「ふざけないでっ!」


 いまだ四人がかりで床に縫い止められたまま、身動き一つとれない田ノ中たのなかさんの上に馬乗りにでもなる気かといわんばかりの勢いと物凄い剣幕で、このあたし、嬉野うれしの祥子しょうこが頬を引っ叩き、止める間もなく彼女の胸倉に掴みかかって叫んだのだそうです。




 ……信じられませんけれど。




「な、何するのよ!?」

「ふざけないでください、そう言ってるんですよ! 理解できませんでしたか!?」


 あまりの力の入りように、田ノ中さんの顔が一瞬真横を向いたほど、とも聞かされました。




 でも……さすがに盛ってますよね?

 たちの悪い冗談……ですよね?




「あなたの今までの人生がどれほど悲惨で、どれほど苦痛に満ち耐え難いものだったか、その点については同情に値すると思います。辛かったでしょう。到底受け入れ難いものだったでしょう。けれど、だからといってあなたがしたこと、しようとしたことは決して許されません」


 同情――正直あたしが、彼女の不遇な人生についてそんな感情を抱いたのは事実でした。


 ですが。

 だからといって。


「あなたは! 円城寺えんじょうじさんの大切なものを傷つけたんです! 円城寺さんの人生を横取りしようとしたんです! 円城寺さんのうわべだけを見てすべてを理解したつもりでいい気になって、自惚うぬぼれてすべてをぶち壊して、何もかもを台無しにしようとしたんです! 違いますか?」

「そんなはずない……。あたしはもう円城寺杏子そのものなのに……」

「あなたが一体円城寺さんの何を理解しているっていうんです!? 容姿、振舞い、その声――ええ、確かに見てくれはあなたの仰るとおりなのかもしれませんね。……ですが、どう見たってあなたは、出来の悪い粗悪なイミテーション、醜悪で狡猾な単なる贋作にすぎないです」

「な、何を根拠にそんな――!」

「だったら、あたしの名前、言えます? あなたの、円城寺杏子のお友達の一人ですよ? この人の名前はご存知ですか? そう、あなたが憎しみの刃を向けた人ですけどね? どうしてこの人が命を賭けてでも守ろうとしてくれたのか、あなたが円城寺杏子その人だというのならちゃんと分かっているはずですよ? ほら、何も答えられないじゃないですか。どうです?」


 田ノ中さんは言葉に、ぐ、と詰まり、目を背けて吐き捨てるように言います。


「そんなの分かる訳ないじゃない……」

「ですよね。分かる訳がない、理解できる訳がないんです。所詮、その程度なんですよ」


 そう言ったあたしは田ノ中さんの顔を乱暴に掴むと、無理矢理自分の方へ捻じ曲げます。


「ええ、そうですよ。物事の表面にしか目を向けていなかったあなたには、どうしたって分かりっこないんです。姿を変え、形を真似て、声を作り、振舞い装って、同じ物、同じ匂いを纏おうとも、杏子の心まで自分のものにすることはできなかった。だから、薄っぺらいんです」

「く……っ」


 田ノ中さんは悔しそうに歯噛みして、恨みがましげな目であたしを睨みます。


「あなたなら……そう、きっとあなたならあたしの気持ちは理解できるはずよ? 世の中は不公平だと思ったことはないの? 何であたしだけ、そう思ったことは何度もあるはずだわ! ああ、あんな風になれたら、そう羨んだことだってあるはず! 誰かを憎んだことだって!」




 あたしは――即答できませんでした。

 答えに躊躇してしまったのです。




 ひとつ息をつき、ようやく偽りない言葉を静かに吐き出します。


「あたしはあなたとは違うんです――はっきりそう答えられたのなら、どんなに恰好良かっただろう、本気でそう思います。ええ、このとおり平凡で地味なあたしですから、たったの一度もそんな思いを抱かなかっただなんて綺麗な嘘は言えません。もしあたしが、あなたと同じ境遇に置かれたら、同じあやまちを犯していたかもしれません。……でも、一つだけ言えます」


 あたしは田ノ中さんの身体を解放して立ち上がると、彼女を見下ろして告げたのです。


「あなたは決して越えてはならない一線を越えてしまった、自らの意志で。その罪の重さを受け止め、償わなければならないんです! それこそが、あたしとあなたの決定的な違いです」






 ふらり、とよろめくようにその場を離れようとするのと入れ違いに、ようやく到着した警官隊と救急隊があたしと人混みを掻き分けるようにして現場に殺到します。ほんの少し触れられただけで、あたしの身体は簡単に揺らぎ、傾き、何度もその場に倒れそうになります。


「ちょこ。あんまり。無茶しちゃ。駄目」


 半ば魂が抜けたように、憑き物が落ちたかのように頼りない足取りで歩くあたしの身体を、優しい匂いがしっかりと受け止めてくれました。途端、今まで張り詰めていた糸が切れたように身体は震え、感情が溢れてきます。そのすべてを受け止めるように美弥みやさんは囁きました。


「ね? 一緒に。帰ろ。今日は。ずっと。一緒にいて。あげるから」

「う――ううううう……っ!」


 あたしは美弥さんの胸に顔を埋め、ただただ子供のように泣きじゃくったのです。






 その日のことについて、他に覚えていることはもう一つだけ。





「あたしは諦めない……。幸せになるには一つになるしかない……そうあの人は言ったもの」


 そしてその背中越しに投げつけられた田ノ中さんの最後の台詞は、いつまでもいつまでも、永遠に生き続ける亡霊のようにあたしにつきまとうことになるのでした。




 ◆◆◆




 ふと気付いた時には、すっかり見慣れた気がするソファーの上に身体を横たえ、あまりまじまじと観察したことなぞなかった白い天井を見上げていたのでした。相当ぼーっとしていたんでしょうね。ついおかしな気持ちに――はとてもなれなくて、疲れ切った瞳を容赦のない鋭さで刺し貫いてくるケミカルな白色光を避けるように、右腕で顔を覆って溜息をつきました。


 と、腕を挙げた拍子に、あたしの身体にそっと掛けられていた毛布に気付きます。


「……?」


 美弥さん……でしょうか?


 その答えを示すかのように、事務所奥のドアが、がちゃり、と音を立てました。

 そして、声が聴こえたのです。


「今日は済まなかった、祥子ちゃん。俺の……ミスだ。本当に済まない」

白兎はくとさん……なんです?」

「ああ。美弥には外してもらった。あとは俺がやるからと言って。話したいこともあるしな」

「話したい……こと?」


 あたしの声は震えてうわずっていました。




 怒り、失望、後悔。

 そして歯痒さと不甲斐なさ。


 そんな感情の奔流を抑えることがどうしてもできなくって。




「一体……何をです? 今日来れなかったことですか? 白兎さんの立てた作戦どおりになんて、ちっともいかなかったことですか? ストーカーがあの田ノ中さんだってことを突き止めるのが遅くなったことですか? それとも! そのせいで蛭間ひるまさんが……蛭間ひるまさんが……!」




 白兎さんさえいれば、あんなことにはならなかったはずなのに――どうして――いいえ!




「あなたが一人二役のごっこ遊びなんてしてなければ、こんなことにはならなかったのに!」



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