最終話『わたしたちのひみつ』
◇
――嘘はどんな形でもなにかひとつのものを歪めてしまう。
まだ中学生だった頃、わたしには仲の良い女子がひとりいた。
ほとんど毎日のようにいっしょに下校していたし、ご飯もいっしょに食べて、休み時間はいつも馬鹿みたいなおしゃべりばかりしていた。いつの間にか、彼女といっしょの時間はそれだけで学校に通う『楽しさ』という価値に変わっていた。
そんなある日のこと、彼女と下校時間がずれたわたしは帰路につこうとした校門のところで忘れ物に気づき、教室へと取りに戻った。
傾いた太陽がオレンジに染める教室、そこに三人の女子の姿があった。
ひとりは女バスにも所属してクラスでも引っ張り役な影響力のある女子、ひとりはその子とよくつるんでいる女子、そうして最後のひとりが文化祭の実行委員会で下校時間のずれたわたしの友だち。
なせかわたしは入るのをためらって、彼女たちから死角になる廊下から会話に耳をそばだてた。
「ねえ、青猫さんのことってどう思ってる?」
突然耳に入ったのがわたしの話だったので思わず緊張する。
わたしがここにいることを気づかれたのだろうか?
いや、誰もこちらの方を見た様子はないし、おそらく私の存在は誰にも気づかれていないはずだ。
「青猫さんって気に入らないよね?」
さらに付け加える。
部員が最近増えた女子バスケ部にマネージャーとして入部して欲しい、という頼みを断って以来、彼女たちがわたしをあまりよく思っていないことには気づいていたのだけれども、まさか、こういう風にわたしの友だちを、自分側に引きこもうとしてるなんて思わなかった。
誰かを嫌うという感情がどれほど簡単に発生するかなんて。そのときのわたしにはまるで分からなかったのだ。
「……」
友だちは、その返答をしづらそうにしていたが少しののち、
「……そうだね」
と答えた。
今ならそれがこの場で誰も傷つけないため、
自分も傷つかないための保身だったことくらい理解できる。
それでもわたしは偶然にもその場に居合わせてしまった。聞かなければ誰も不幸にならないひとことを耳にしてしまったのだ。
ただひとり、不幸になる人間として。
わたしはその話を聞いていない人間として生きることを選んだ。必ずしも友だちの選んだ言葉が「嘘」だったか、未だわたしには分からない。
ただ、わたしは「その言葉を聞いていないという嘘」を吐いてしまったのである。
それからも、友だちとの付き合いは極端には減らなかったけれど、彼女とは紐がゆっくり引きちぎられていくように、少しずつ疎遠になってゆき、クラスメイトの子たちがわたしを見る瞳もおおむね好意的ではなくなった。
わたしの手首から血が出るようになったのはそれからほどなくしてのことだ。
◇
わたしは血を吸って真っ赤になったガーゼを手首から外した。
その瞬間にも手首からの血は止まらず、ゆっくりとした速度ではあったけれど手首から先はほとんど真っ赤になり、いくつもの赤い血の筋が指の先からトイレのタイルへと伸びていった。
諦めるようにして座り込んでしまうと、また出血量が増えたように感じる。左の頬が熱かったから、もしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。
けれど左の手は血だらけでとてもその涙を拭う気にならない。
億劫だった。
手首から流れる血も、目から溢れてこぼれ落ちていく液体も、初めてさぼった授業のことも、誰かにそのわけを言わなければならないことも、大事な友達のことを考えるのも――
そのときだ。
授業中に似つかわしくない、どたばたした足音がわたしの耳へ届いてきたのは。
足音は女子トイレへと入り込んできて、個室の扉をばんばん開けながら、いちばん奥にあるわたしのいる個室へと近づいてきた。
なにかしらの学校の怪談でも似たようなシチュエーションを見聞きした気がする。
そうして、わたしの個室の鍵が閉まっていることを確認したであろうその人物は、ノックもしないで、個室のドアの上の空間から顔を出して、笑顔でこう言うのだ。
「へっへ。やっほー、ぴりっち、元気かな?」
見りゃあ分かんだろ、とわたしは思った。
一方、わたしは足音の主がしろであることを、あんな変なところから顔を出す前に気づいていた。
「……本当にトイレしてたらどうすんのよ」
泣き顔でも悪態をつく元気があったのは、まぎれもなく犬山しろのおかげだった。
「ふひー、んー……役得?」
変なところから身を乗り出しているせいで、息を整えるのも大変そうだった彼女は、わたしによく分からない返答をした。
「馬鹿じゃないの」
「ばかでいいよ。その分、ぴりっちが賢いもん」
わけの分からない理屈で返して、しろはそのままドアの上からわたしのいる個室に侵入してきた。
あんたの小学生パンツでも拝んで馬鹿にしてやろうかと構えていたわたしは、彼女のスカートの中身が短パンであったことに少しがっかりした。
「ねえ、ぴりっち」
しろは真面目な顔をしている。
わたしは知っている。
しろは馬鹿で真面目な顔はあんまりしないけど、大体はあいきゅーがよんじゅーくらいの笑顔ばっかりしてるけど、いつもほんとうに真面目なのだ。
だから、しろが真面目な顔をしているってことはスーパー真面目の超マジなのだ。
しろは未だに血がこぼれているわたしの左手首を掴んで、そしてもうひとつの手でわたしの右手をとって、さぞやひどい顔をしているだろうわたしを立ち上がらせると、壁にドンとまでは言わないけれど壁へと追い込んで、あろうことかしろは自らの手首をわたしのまだ出血を続ける手首にこすりつけて、
「いっしょ」
とか言いやがるのだった。
「汚いよ。病気だったら移るよ。エボラだったらどうするの、死ぬやつだよ」
「汚くないよ。いっしょだからいいよ」
わたしはさっきからずっとしろがなにを言いたいのかさっぱりだったけれど、彼女はそのまま真面目な顔をしていた。
「……わたしの秘密」
観念したわたしは、しろに
もしかしたらもうやけくそになっていたのかもしれないし、しろのよく分からないテンションにつられてただけかもしれない。
ただ、口調もスムーズに打ち明けられたことは自分でも意外だった。
そんなわたしの告白をひととおり聞いてしろは「すごいね」と言う。
「すごくないよ。気持ち悪いよ」とわたしは返す。
「すごいよ。わたしなら出血多量で死んでるよ」
「しろは死なないよ。だってポジティブだもん」
「死ぬよ。いつも不安だもん」
「なにが」
「わたしはみんな、いろんなひとのこと好きだけど」
「それがどうしたの」
「好きはそんなに怖くないけど」
しろの真面目な顔は未だ続いていて、しかも言葉が下手くそだから話が見えない。
うつむき気味になった彼女にわたしは相槌を入れることも忘れる。
「でも、だいすきは、怖いよ」
さらに付け加える。
「だいすきはひとりにしか向かないから、受け入れられないならって、怖くなるよ」
しろはその言葉をぶつけるべき相手がわたしであることを確認するようにまっすぐ見つめた。
「ぴりっち、だいすき」
手首と手を強めに掴んだままトイレの個室で言う台詞じゃねえよ。
「バカ。レイプ魔みたいな体勢で女の子に告白する女子がいるかね」
わたしはさらに悪態をつく。
今のわたしは笑顔と泣き顔が混ざって、きっとさっきよりもひどい顔をしている。
「別にいいもん」
そう言うとしろはわたしの手首に顔を近づけて口を開き、血をその舌で舐め取ろうとする。
「……ッ」
わたしはなすがままだった。
「犬」
「それでもいいもん」
彼女が舐め終えるのを待って、わたしはしろの顔を思いっきりわたしの真っ正面に向けた。
「許さない」
その言葉を聞いたしろは滅多に見せない不安げな顔をした。
この顔を写メってあとでからかおうかという衝動に駆られたけれど、シリアスなシーンなのでやめておくこととする。
「許さない。いくらしろが馬鹿でもわたしがしろを大好きなこと、気づいてなかったのは、許さないからね」
「あ、え……えへへー」
一瞬ののちの理解。
不安げな瞳から笑顔。彼女のそれは全部表情に現れる。
もしかしたら、わたしがしろに素顔を見抜かれるのと同じように、わたしは彼女の心の動きをまるまる理解できてしまうのかもしれない。
しろは照れるような笑顔を続けている。
わたしは「なんか程よい距離にしろの唇があるな」と思い、なんとなくそれを奪ってやった。
唇を重ねた時間はきっととても長かったけれど、それ以上でも以下でもないエロくもなんともないやつだ。
唇を離したわたしたちは、ふたりで笑うと、磁石のようにまたひっつけ合った。
五限終わりのチャイムで唇を離したわたしは、しろを先に個室から出して手首と血の始末だけすると、何食わぬ顔で教室に戻った。
もしかしたら、ひとつくらい仮面の外れた表情のわたしがそこにいたのかもしれない。
◇
それから翌日、
「おはようぴりっちーーーー!!!」
いつもの三割増しでわたしに抱きついてくるしろの姿があった。
「熱いから離れなさいっての」なんて振りほどこうとするフリをしながら、窓際の方にしろを引っ張っていく。
開け放った窓からしたたかに風が吹いた。
その一瞬を見逃すわたしじゃない。
カーテンがふたりだけをつつむそのほんの
S極のしろはキスしてる時も笑顔だった。
わたしは今日も左手首に包帯を巻いている。けれど、今回はいつもと同じ理由じゃない。
白の包帯が守るわたしたちの乙女な秘密。
しろにつけられた
breed my blood 白日朝日 @halciondaze
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