第2話『良い話と悪い話がある』

 四限の終わりを告げるチャイムが鳴り、お昼休みを迎えたわたしは朝礼のあと担任から言われた通り職員室へ向かっていた。


 上履きに緑色の線を入れた三年生の一団が、一階にある売店へとフリーランニングさながらの勢いで我先に駆けて行く。

 おいしいパンは急がないとすぐ売り切れるし、パンがないときに食べるケーキは学生向けの売店に置いてあるわけもない。


 かくいうわたしはお弁当持参勢なので、呼び出しで多少時間を食っても問題になどならないわけだ。ありがとうお母さん、おかげさまで食いっぱぐれずに済んでます。

 

 さて、先生からはどういう話をされるのだろう?

「良い話と悪い話がある」と映画の脚本みたいなフリが来たらどちらから聞こう?


 くよくよ悩んでもしかたがない、早く話を終えてしろとごはんタイムを迎えよう。


 職員室の扉を開き、「失礼します」と軽く一礼。

 わたしの姿を認めた担任の葉月先生は、手を振ってわたしを机へと呼ぶ。


 葉月先生は三十路手前には見えないかわいらしい容姿をしているのだけれど、本人曰くいまのところ独身。食事中でもスーツのネクタイをまったく緩めることのない彼女の机には、しかし砂時計とコンビニの袋とカップ麺が置かれていた。


 葉月先生は待ちきれないのか手に持っていた割り箸を一旦カップの上に置いて、こちらを向く。


「良い話と悪い話がある」

 まさか本当にその質問をされるとは。


「えっと……良い話のほうから……」

「たったいま、わたしの昼ごはんができあがった」

 言い終わるが早いか、砂時計は僅かな青い砂を重力方向に吐き出し終え沈黙した。


「悪い話は……?」

「これからカップ麺の麺がのびる」

「あんたにとっての悪い話かよ!」

 至極どうでも良い話だった。


「そうだけど」

「はやく本題に入りましょうよ。余計に麺のびますよ……」


「それもそうか……えっとな」


 そうして、軽く先生の話を聞き、職員室から出たわたしは少し憂鬱な気持ちになっていた。


 内容をかいつまんでいうと「衛生上の問題もあって、包帯をつけたままでプールの授業は受けられないとPTAや体育教師側から指摘があった」とのことだ。


 わたしは半袖になって隠せなくなった左手首にそっと触れる。

 ガーゼの柔らかく弾力のある感触に加えて、その内側にほんの少しぬるりとした感触。誰にも明かせない秘密の感触。

 憂鬱になってはいけない。分かっていても不安がわたしを縫い止める。

 左手首の秘密を隠し通すことが出来なければ、わたしは色んな人間から弾かれてしまうことだろう。


 ――――あの時みたいに。


 いや、その思考に陥ることだけは絶対だめだと振り払う。


 どうしても包帯を外さなければならないなら、水泳の授業を休めばいい。


「(でも、その事情について誰かに深い質問をされたら?)」


「(誰かに事情を明かさなければならない時が来たら?)」


 たとえばそれが、しろからの質問だったら、わたしはどう答えるべきなのだろう?


 嘘を言うのか?

 わたしにとってなにより誠実な彼女の前で、嘘を重ねるのか?

 わたしはしろに対して誠実になりたい。優しくしたいし、許されたいし、ずっとずっといっしょにいたい。

 けれども、わたしは欠陥品で、それを告げる勇気もどういう結果が出ても受け止めるような心の強さも持ち合わせていない。


 だめだ。

 こんな思考では、だめ。


 つ……と手首と包帯の間をわずかに滴る温かい雫を感じる。

 これはきっと、わたしが仮面をかぶっているせいで流せない涙に違いない。

 だから、まだ、大丈夫だ。この涙は、包帯の外に滲み出ていく量ではない。


 わたしは、教室に戻り、開いたままの扉の中に入っていく。


 そのとき、

 教室のなかのみんなの瞳がこちらを向いているように錯覚した。


 錯覚だ、分かっている。

 頭を冷やしてみれば分かる。

 わたしが錯覚で見た瞳は教室の中にいるクラスメイトとは別の人物のもの、わたしが過去に見た瞳だ。


 ――でも、その包帯を怪しんで見てる人間がいないといえるの?

 大丈夫、大丈夫。

 わたしは元気! 学校が好き! 楽しい! みんなと楽しく過ごしてる。

 しろとの時間も、大好き――


「どーしたの! ぴりっちー」

 言葉より先に、背中に感触がやってきた。

 振り返るとそこには、笑顔と好奇心の瞳を相半ばさせたしろの双眸があった。


「すりすりー」

 ご丁寧に擬態語までつけてわたしを肩越しに抱いて、首と肩の半ば辺りにしろは頬ずりをする。


「なんでもないに決まってるじゃん」

 わたしは笑顔で言ったつもりだった。


「え、でも、ぴりっち、泣いているよ」

 その言葉に、わたしは両手で目のあたりをこすってみる。

 けれど、手に触れる水分はない。


「……からかってる?」

 しろがこんなことをやるなんて意外だった。

 いつも意地悪してる仕返しかしらと身構えていると、


「ん。泣いてないけど、泣いてるよ」


 また、しろらしい、よく分からない日本語でわたしに語りかける。

 表情はほんとうに嘘なんてついてない。

 優しくて慈しむような笑顔。

 そんな彼女に対してなにも嘘がつけなくなる日が来るのかもしれない。


「べつに、なんにもないよ」

 ――そうだ、しろは誠実で馬鹿だけど、わたしのことなら誰よりよく知っている。

「なんにもなくないよ」

 だから、わたしがつらいときはつらいってすぐに分かってしまう。


 甘えたかった。

 わたしの身に起きた事情を説明してすっきりして、その時だけしろに甘えて、許容されて、また明日からはいつもみたいに仲良くして、ふつうに過ごしたかった。


「話し相手になれるなら、教えて?」

「……っ!」

 いろいろな感情が、もう限界だったのだと思う。

 わたしは入ろうとした教室に入らず、肩越しにわたしを抱いていたしろの手も振りはらって、走って逃げた。


 普段だったら、体育会系じゃないわたしはこんなにたくさん走ったりしない。

 がむしゃらに、なにかよく分からない恐怖のようなものを振り払うようにしてわたしは走った。

「廊下は走らない」の張り紙を最高速で横切り、減速もそこそこに人目も気にせず階段を飛び降りるように駆ける。


 逃げたかった。

 わたしがしろに言える正しい言葉なんて見つからなかったし、自分自身をいつわるための言葉すらもう心のなかには残っていなかった。

 ただ扱いようのない気持ちだけがからっぽの器に満たされていく。


 そうしてわたしは、普段なら入らない階の普段なら入らない女子トイレの個室で、荒い呼吸のまま、へたり込んで頭を抱えていた。


 嫌だ。つらい。この二言だけが、頭のなかで大きな文字となってぐるぐる回る。 

 包帯をした手首から手のひらを伝ってゆっくりと赤い雫が爪の先から床に落ちた。

 赤い水玉模様が、ゆっくりと床のタイルに描かれていく。


 わたしの涙は赤くって、血が出ているにもかかわらず、痛いのはその場所じゃなくて、心だった。



 ――五限の開始を告げるチャイムが鳴っていた。


 トイレのタイルで乱れるように反響し、音はまるで現実感を失ったみたいだ。


 ぼうっとした頭のなかで、わたしは、なぜしろから逃げたのかを考えている。

 嘘を言うこともできたのだ。


 わたしが言うのもなんだがしろは馬鹿だから、ある程度凝った嘘をつけば彼女を騙すことなんて簡単にできる。それが彼女を安心させる嘘ならなおのことだ。わたしは自分の気持ちに嘘をつくのが得意だし、保身のためなら多少の嘘は仮面としてあるべきものだと思っている。


 だけど、

 だけど、真っ向から話を聞こうとしたしろに嘘をつくことができなかった。

 それは偽善でもなんでもなくて、ただ一度そんなことをやってしまったらわたしは二度とまっすぐにしろのことを見れなくなりそうな気がしたのだ。

 

 なんで良い子といるだけなのに、わたしは悪いことを考えてしまうのだろう。

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