4-16 魔術師として正しいのは


 響子が見た者。

 それは人生において一番のパートナーと言っても過言ではないはずの者。

 決して裏切りなど在ってはいけない関係。

 だがそこには、皇正希――夫の姿があった。

「フフッ……フフフ……どう、夫に裏切られた気分は?」

 花枝は如何にもわざとらしく、手で口元を隠すようにしている。

「……何故、だ……お前……お前」

「フフフフ……滑稽、無様。あなたにお似合いね……薔薇の貴女レディーローザさん?」

 花枝が堪え切れずに高らかに笑う。反面、正希は無関心の表情を浮かべ、響子を見ていた。

「ゴホッ……お前……のせい、か。正希……そうか……ケホッ……」

 響子は心臓部に手を摩る。べっとりと血糊がこびりついていた。

「フフッ、残念ね、あなたの夫は私達の組織、『黒金くろがね黄昏たそがれ団』と繋がりのある魔術師なのよ?」

「花枝、余計な発言は慎め。それよりも術斎の場所は判明した。まだ今なら間に合うかも知れない。急ぐぞ」

「あらあら、妻が少し名残惜しいのかしら? まあそういう事だから。さようなら哀れな女」

 正希の後を追うように花枝はついていく。

「待て!」

 響子の緊迫した鋭い声が大廊下で響く。

 二人は足を止め、振り返り驚く。

 響子が血をまき散らしながらそこに立っていた。

「正希……答えろ。どうして裏切った」

「ゴキブリ並みにしぶといわね。いいから黙って死になさい!」

 花枝が遠距離から闇の暴風を解き放つ。

 遠距離なら避けられない響子ではない、しかし今の状態で避けるのは不可能だった。

 刹那――闇の暴風は響子に直撃する前、不自然に捻じ曲がり大廊下を突き破っていった。

 それも響子が手を伸ばし、握るように捻っただけのことだった。

「答えろ! どうして裏切った⁉」

 再び花枝が魔術を行使しようとした時。

「待て」

「何よ?」

「花枝、先に行け。場所はこのメモのとおりだ」

「あなた……最初からそういうつもり? まあいいけど、これで契約は成立するから、私は好きにするわ」

 花枝はそう言って、一階へと降りて行った。

 そして正希は、じっと響子の血に染まった瞳を見つめ、答える。

「……ただ、そうしないといけなかった」

 只の一言。

 何の答えにもなってない一言。正希の眼差しは真っ直ぐに。

 その低い声質は静かな大廊下にて、重く浸透する。

 それなのに響子はたったその一言で、何かが吹っ切れたように口元を緩ませた。

「フッ、フフフ……お前らしい答えだな。どうせ両親を人質にでも脅されたんだろう」

「っ……気付いていたのか?」

「さあな。普段から何かに対して関心を殆ど持たないんだから、あるとすればそれくらいだろ」

「……響子……済まない……私は……」

「謝るな」

「え?」

「それが一人、悩み苦しんだ結果だろ。私が同じ立場だったら同じ事をするかもしれない」

「……そんな事はない。君なら最善の限りを尽くして今の現状を」

「言わなくていいから」

「……」

「私達、まがいなりにも夫婦って奴なんだろ。まぁ世間一般的なものとは少し色合いが違うのかも知れないが……。

 それでもパートナーがミスをすればお互いの責任なのは変わらない。

 それに関係の無い人達の命を奪われた。響希の友人もだ。

 魔術師なら、特に割り切ってしまえばいいのかもしれない。これは有象無象の事件の一つだと。それで仕切り直しだってね……」

「響……子……」

 その時、正希の瞳から大粒の涙が堪えるように溜まっていた。夫婦生活十年と少し、響子はそんな正希を見るのは初めてだった。

「でもそんな訳ないだろうっ‼」

 響子の張り詰めた声で叫んだ。

「私は大切な人がいなくなったら寂しいよ、悲しいし、苦しいよ、恨み、憎しみだって生まれるかもしれない。たとえそれが仕事仲間や友人、もしくは恋人や家族であれば当たり前にそういうのってあるんだよっ‼」

「……本当に……変わったんだな……」

「じゃあ……もう覚悟は出来てるな」

 正希は何も言わずゆっくりと頷いた。

 響子は予備の薔薇杖を胸ポケットから取り出し、のろのろと正希の元へ歩いて行く。歩く度に血がボタボタと床を濡らし、血痕を残す。

 正希はそれに対し、逃げようとは露ほども考えなかった。

 響子はその少しの間、考えていた。

 皇家に付け入る隙があるとすれば確かに正希だった、と。

 月歌は養子だが両親はいないのでその辺の心配は無かった。それにあの性格だ。百パーセントと言わないが俗に流される可能性は極めて低い。

 次に可能性として使用人達だが、こちらに付けこんだとしても重要な情報を得る筈も無いのは、誰でも理解できるだろう。むしろ接触するリスクの方が大きい。

 それに高難易度の結界操作が出来る者は、使用人として誰一人採用はしていない。

 あと使用人が皇邸に客人を呼ぶ事は決してない。

 結界については、客人として呼ぶ権限を持つ準当主の正希が、手引きした可能性が濃厚だ。

 だがそもそもの話、今の時代、人間術をまともに求める輩など、十年前にここを訪れた宮下夫妻くらいだったので、響子自身も何処か油断していたのかもしれない。

 それと術斎には、花枝が求める情報は本当に何も無いのも事実。

 それを宮下夫妻の旦那は、近い段階で推察していた。妻である花枝は、愚かにも気付かなかったみたいだか。

 旦那は日夜研鑽を積む中で、人間術とは何かという所まで見出していたのかもしれない。

 しかし当主ではない正希も、皇家のしきたりにおいて、人間術とその他諸々を一切知らない。

 ――当然か、人間術は時代が選ぶなんてデタラメ染みたことを誰が信じる。

 今回の事件、一帯何処に落ち度があったのだろうか。

 正希を信じた響子か。それとも純粋に術を追い求めた時代にそぐわない生き方を貫いた花枝の存在か。それとも魔術師として両親を切り捨てなかった正希か。

「私達は、何を間違えていたのだろうな」

 響子は血塗られた右手で正希の頬に触れた。

「響子……君は何も間違ってなどは」

「もう分かってるだろう。私はとっくに六年前から魔術師としては終わっていたんだよ」

「……君から非情さが消えたのも、確かにそこからだった」

 そこでグヂュッと生々しく肉を穿つ音を立てて、薔薇の刀身が正希の胸元を貫いた。

「ゲホッ」

 正希は吐血する。

 響子は一息に刀身を引き抜いて、二人は互いに床へと崩れ落ちた……。

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