3-4 血毒匣

 

 六月十一日 午前零時。

 女魔術師――エノア・アトレア――は、消灯時間の為すっかり暗闇となった施設の廊下を歩く。

 コツコツコツと、その場所には不釣り合いなヒールの音を響かせて。

 とある一室の扉は、何の変哲もないスライド式の扉。だが、そこから漏れ出るような濃密な気配と――異臭を漂わせている事を女は知っていた。

「入るぞ」

 相手の返事を待たずに、エノアは部屋へと足を踏み入れる。

 暗がりの狭い一室。

 窓際から差し込む微かな月明かりは、美しい女のシルエットを浮かべていた。

「…………」

 女は勝手に入室してきたエノアを見つめた。

 悲壮に満ちた瞳。だが口元から漏れ出る液体の色は、朱色。

 かつて真っ白なベッドには、鮮血に染め上げられている。

 ベッドには、童男の裸体が飾られている。

 その表情は安らかに眠ったソレで、子供が朝になれば目を覚ましそうな寝顔に見えた。

 だがその童男には決して――朝は来ない。

 理由は明白。

 首を掻っ切られて……血が足りないから。心臓が動いていないから。呼吸が止まっているから。

「…………また、ダメだったわ……同調は良かったのに……」

 裸体の女は、物悲しそうな声で言った。

「……当たり前だろイカレ女。ガキを絶頂させた血で逆にイケると思ってる方がおかしいだろ」

 エノアは血臭ぐらいじゃ何も感じない。だが、裸体女の狂気染みた思考だけは、理解に苦しんだ。

 それは童男に同情してではなく、ただ純粋に裸体女の行動原理が見えてこないというだけのものだが。

「それはそうと……アタシを呼んだってことは……」

「……私、分かったの……もう普通の童男はダメなの……それにこの子は、新たな贄を惹きつけてくれるいい餌になるわ……」

 エノアはベッドの童男に目を向ける。血に濡れた首元以外は、真っ白で綺麗な身体だった。

「……で、死体コイツをどうしろと……」

「燃やしなさい…………但し、骨は残して……それで私とあなたの契約は、叶うでしょう」

「何故、そう言い切れる?」

 女は自らの胸元をその細指で撫でるように滑らせ、そのまま尾骶辺りまで線を引くようになぞる。曲線を美しく描く腰回りは、絵画そのものだ。

 その臀部の真上辺りに紋章の刺青がある。

 黒の十字架にカバラで言う所の生命セフィロトの樹。組織によってガバラ由来の樹は、セフィロトの樹と生命の樹は別物だと考える組織も多々あるが、この刺青の組織は、混同して考えられているのか。

 中心には二十二枚の肌色と炭色の花弁、そこにヘブライ文字が刻まれている。

 それはかつて十九世紀末の英国イギリスにて創設された『黄金の夜明け団』を彷彿とさせる紋章。

 だが知って通り、黄金の夜明け団は、過去に幾重の分派を繰り返し、現代ではもう過去の組織・魔術結社と成り果てている。

 しかし、現代に至っても『アレイスター・クローリー』『マグレガー・メイザース』などの名だたる魔術師達を崇拝し、その形を継承する独立組織は、後を絶たない。

「だって連中ってば、もうあなたが日本こっちにいること、知っているみたいよ?」

 フフッと微笑し、口元の血痕をぺろりと濡れた舌で味わう女。

 ベッド床を中心に、白色のチョークで円が描かれたその中には、七芒星の図。円周内の所々に、凡そ一般者が見ればルーン文字だがヘブライ文字だが区別が付かない文字が書き込まれている。

 その魔術式を上塗りするかのように赤の飛沫が撒き散らされていた。

 それはまるで画家が究極の“美”を求め、塗料を派手にぶちまけたようだった。

 蜜毒は、激しく、弾けるようにして、童男と踊り、血に染めあげた。

 その匣は、まるで敷き詰められた曼珠沙華が咲いているようだった……。

「……フフッ……そうか。要約会えるのか……氷雪に」

 やがて夜は更けていく……。

 妖しく、艶めかしく、蕩けるように……深淵へと。

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