3-2 波の距離

 

 時刻は午後四時三十七分。

 雪愛は今日こそはと、一日中家でダラダラしながら韓国ドラマを一気見すると誓っていたはずなのに、海岸に足を運んでいた。

 空は赤く、染まるような夕映え。青い海は蜜柑色に照らされている。

 ぷちゃぷちゃと波が波を打つ。鼻に突く潮の匂い。ウミネコの囀り。

 人は少なめだが、疎らに釣り人が柵にもたれるように釣竿を垂らしている。

 その中に一人、雪愛を電話一本で「あ、いま暇?」などと呼び出した挙句、「缶コーヒーを買って来て」なんて言ってくるとんでもない愚かな人物がいた。

 雪愛はその者が吞気に柵にもたれ掛かりながら、ぼうっと海を眺めているのを見て無性に怒りがこみ上げてくる。

 雪愛の殺気に感づいたその青年は、振り返りニッと嬉しそうな無邪気な表情をした。

「休みの日に後輩を振り回すなんて、本当に最低ですね出夢先輩」

 ムスッとした雪愛は、缶コーヒーを出夢に投げた。

「よっ、と。サンキュー雪愛」

 いつもの見た目出来る風の若者スタイルとは違い、ラフなTシャツにジーンズ姿は、いつも背伸びしているせいかどことなく幼くも感じた。いやそのスタイルこそが歳相応なのかもしれない。

「よっ、じゃないです!」

 反対に雪愛の方は、ブラウンのシャツにネイビーのレーススカート。黒のヒールに、白のバッグを肩から掛けている。見た目大学生というか年齢はまだ大学生に入るので、それも歳相応な服装だった。

 周りから見れば大学生カップルといったところだろうか。

「どうした? そんなムキになって。あ、お金渡してなかったな……悪い今」

「お金なんていいです。もう、せっかく私の貴重な休日が……」

「え、そんな大事な予定あったの?」

 出夢は能天気な物言いで、餌を付けた釣竿を後ろに引きつけ、円弧を描くように投げた。

 シュルルルルル、ポチャンとエサのついた錘は海の底へと沈んでいく。

 雪愛は貴重な休日が韓国ドラマ一気見なんて言えないと、無駄なプライドが芽生えた。

「あ、ありました! 出夢先輩のせいでもう断ったちゃったけど……」

「えぇ、そんな大事な予定があるなら別に無理して来なくても良かったのに……」

 ムカッ。

 額に青筋が浮かび上がる。雪愛は顔を引きつらせた笑顔で魔力マギアフォースを練り上げる。

「……それが呼び出した人の台詞ですか……そうですか。はい。分かりました。もういいです。やはり最低ですね……出夢先輩のゲス、出夢先輩のクソ、出夢先輩のボケ、出夢先輩のナス」

 ぶつぶつと呟く雪愛の異質な空気に出夢は、咄嗟に振り返った。

「お、おーい雪愛さーん。どうした、そんな情緒不安定なヤンデレヒロインみたいな」

「出夢先輩のあんぽんた―――――んッツツ!」

「う、うわぁあああああ」

 雪愛の狂気に満ちた氷弾は、出夢目掛けて射出する。

 慌てて出夢は、小さな結界を作り氷弾を弾いたものの、柵に置いていた缶コーヒーに流弾し海の藻屑となった。

「あ、あぁあああああ、俺の缶コーヒーがぁあああ」

「フン。自業自得です。それに私が買ってきたやつです」

 雪愛は頬を膨らませながら柵に手を置き、こっそりとバッグから取り出した炭酸オレンジジュースの缶を開けた。

 プシュっと気の抜けていくような音。ごくごくと勢いよく喉を鳴らす。プハッと綺麗な口元から漏れ出る吐息。

 まるで上司のストレスを晴らすように飲む、若手社員の飲みっぷりだ。

 出夢はそんな雪愛を見て、困惑しつつ頭を掻いてた。

 二人は、暫く無言で沈み掛けていく西日を眺めていた。

 周りにいた数人の釣り人は、今日は釣れないのかもう誰もいない。

 当の出夢すら坊主だ。

「あ、の……雪愛さん?」

「…………」

「あの」

「何ですか」

「釣り、する?」

「…………はい」

 少し予想外の返答に驚いた出夢だが、これが名誉挽回のチャンスだと思い、釣竿を雪愛に渡した。

「あ、あの出夢先輩……」

「うん、どうした?」

「私……魚釣りとかしたことなくて……そのどうしたらいいんですか?」

 頬を朱色に染める雪愛は、夕陽のせいか、恥ずかしさのせいか分からない。リールを意味も分からずクルクルと回している。

「あ、あぁ。それはな、こうやって……」

 出夢は雪愛の手に触れるように腕を回した。

「ちょ、出夢先輩……」

 最早隠し切れない程に紅潮した頬を、隠すように俯く雪愛。出夢は無意識だったものの、雪愛のリアクションに自分も急激に恥ずかしくなって手を放した。

「わ、悪い……」

「……いいです、から。早く教えて下さい……」

「……あ、ああ」

 何故か妙な雰囲気の中、出来るだけ肌が触れ合わないように二人は釣りを楽しんだ。

 結果、一匹も釣れなかったが。

 すっかり陽は暮れ、残照が薄っすらと空に映える。

 出夢は釣竿や道具の片付けをしていた。

「あの……出夢先輩」

「どうした?」

 一時片付けを中断し雪愛の方を向く。

「今日、私を呼んだのって……もしかして」

「別に。それは自意識過剰ってヤツだ。雪愛に気なんて使ってないから」

「そう、ですよね……」

 俯きがちに呟く雪愛。出夢は片付けを再開しながら言葉を続ける。

「俺が呼びたいから呼んだだけ」

「えっ……」

「ま、悩みがあるならこの出夢大先輩が聞いてあげてもいいけどな。ニッ」

 いたずらな笑みを口元に浮かべる出夢。

「プッ……フフ。そうだよね……出夢先輩だもんね」

「えっ、なに、どういうこと?」

「ううん。何でもありませーん」

 雪愛は口元の笑みを出夢から隠すように、もう一度柵に手を置いて暗闇の海を眺めた。

「は、はあ? やっぱ女って意味分かんねぇよな……」

「……ねぇ出夢先輩。私が特殊犯罪こっちの部門に来た時のこと、覚えてます?」

 突然の問いかけに出夢は一瞬手を止めたが、すぐに手を動かした。

「ああ。それがどうした?」

「その時の私ってどうでした?」

「どうって……それゃあ、あの時の雪愛は、『死人』みたいだったな。生きてるのが不思議なくらい『廃人』寸前っていうか」

「フフッ……勝手に私を殺すなんて酷い……でも、間違ってないと思います」

「? ああ……」

 出夢は雪愛が何を言いたいのか全く見えてこない。

「当時の私は、どうせこのまますぐに死ぬんだろうなーって思ってましたから。でもそこで、ある一人の私より弱っちい男の人が任務中の私にこんな事言ってきたんです―――――『俺がお前を守るから。お前は泣きたい時に泣け! 笑いたい時に笑え! 甘えたくなったら甘えろ!』って凄い恥ずかしい事を惜しげもなく……フフッ」

 出夢はその話を聞いて一気に全身がむず痒くなった。

「へ、へぇ……そんな寒いこと言う奴もいるんだなぁ……ハハ」

「でもまだその広言は、果たされていません……」

「そ、そうなのか……そいつは結構頑張ってた方なんだと思うけどな……ハハ」

「特に一番初めの事はまだ果たされていません……フフッ」

 雪愛はイタズラに楽しむようにくつくつと忍び笑いをする。

「そ、それはいくら何でも実力的に無理なんじゃないかな……と俺はそいつに同情する」

 片付けを終えた出夢を見て、雪愛は一人勝手に歩き出す。出夢も自然とそれについて行く。

 海際を暫く歩けば、砂浜海岸がある遊泳区域があった。

 その周囲には、年頃のカップルと思われる何組かが石畳の階段で並んで座っている。大方の目的は、夜にライトアップされる舞咲大橋だろう。

 夜の砂浜を二人して歩く。

 雪愛が前で、

 出夢は後ろ。

 雪愛はヒールを脱いで裸足で砂浜を踏んでいる。

 出夢はその足跡を辿るように踏んで行く。

 ザザーッと波が寄せては、引いていく。

 互いに無言で歩き続けること十分。

 時刻は十九時になった。

 途端、ライトアップされた舞咲大橋は、虹色に輝き始める。

「あっ……レインボー」

 雪愛は足を止め、暗闇に輝く虹の橋を眺める。

「……だな。ってことはもう七時か」

「久しぶりにちゃんと見ると綺麗……」

「それは分かる」

 それから一分、二人は虹色の橋を眺めていた。

「あのさ……」

 沈黙を破ったのは出夢。

 雪愛は虹の橋を眺め続けている。

「何ですか出夢先輩?」

「さっきの話なんだけどさ……」

「……さっきの話、ですか?」

「多分そいつさ、いつかその最初の約束果たしてくれると思う……って言ってた」

「……ふふ。それは楽しみですね…………でも知ってます。だって、私、ずっと……」

 雪愛はようやく出夢を見た。自分よりも数十センチは大きい。

 その出夢の男らしい大きな手を柔らかい肌の手で軽く握る。

「――っ⁉」

「…………もう五年以上も待ってる……から」

 ザザーッと虹色の波は、一度だけ大きく寄せて、引いていく……。

 二つの影はこの時、少しだけ重なった……。

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