――女神の恋(天王寺父母)
「どうしてよ、どうしてわかってくれないのよ、本当にポンコツなんだから!」
高一の秋、部活のテニスコートで僕は学院の女神に白薔薇の花束を投げつけられていた。買った薔薇ではないらしく、棘が腕をかすめて痛みが走る。
でもその痛みより、僕は激怒しながらぽろぽろ泣いている女神から目を離すことが出来なかった――。
白一色の花束、この意味を知らない生徒はK学院にはいない。
初等部の高学年になるとその噂を聞くものだ。
『あなたのことを一番大切に思っています。』
そうか、そうだったのか。
初等部の時、貴子がいつもドッジボールで死ぬほどキツイ豪速球を僕にぶつけてきたことも(たまに掃除のぬれ雑巾をぶつけてきたのも)、中等部の体育でバレーボールやバスケットボールを男子の方まで投げつけて僕の後頭部が激痛に見舞われたのも(たまに掃除のぬれ雑巾をぶつけてきたのも)、高等部のテニス部で対戦相手でもないのにスマッシュやサーブや、結構な頻度でぬれ雑巾をぶつけてきたのもみんなそういうことだったのか。
好きな子に嫌がらせをして気を引くっていうやつ。
って、わかるか――!……ずっと嫌われているのかと思っていた。
せめて乾いた雑巾にして欲しかった。そういうことなら。
僕に白薔薇を投げつけた学院の女神は、
名字は僕、
お互いの
べつに本家のお嬢様にお仕えせよとかの使命はなく、田中とか佐藤っていう名字が同じやつの関係と同じ、友達程度だと思っていた。
貴子が僕を気に入っていたとは――。
「ちょっと
貴子の友人、南森女王が
はっとして、花束を拾い上げる。これ、受け取っていいのか。
受け取ったら『私もそうです』ってことだよな。
「ごめん、取りあえず受け取っとくけど、少し考えさせてもらってもいいかな?」
「いいわけないでしょ!今すぐ『僕もだよ、今まで気がつかなくて悪かった、僕から花束を渡せなくてすまなかった。大好きだよ貴子。』って言いなさいよ、セリフ教えてあげたから!」
「いいのよ、女王。取りあえず受け取ってもらったから……。高生、ごめん。嫌なら断ってくれてもいいわ。別に呪い殺したりしないから。」
貴子なら呪い殺せそうなんだけど……。
「君のことをそういう風に考えたことが無かったから、戸惑っているんだ。」
そして――考えても考えてもわからない。誰か教えて。
「何を悩むことがあるのかしら。女神のこと嫌いなの?別に婚姻届けに署名捺印しろって言ってるわけじゃないから、つきあってみなさいよ。女神とつきあうと、きっと面白いわよ。」
噂話が大好きで、天然パーマがうまいことふんわりしている北浜さんが、僕が一人でいる隙を見て話しかけてくる。
「人のことだと思って気軽に言うなあ。地獄耳クイーン、もう知っているのか。さすがだね。」
「当然でしょ。私は誰よりも早く多くの噂を知りたいの。ただそれだけ。」
「貴子のこと、知ってた?」
「もちろんよ。もうずいぶん前からね。多分みんな知ってると思うわよ。知らないのはあなただけ。」
最後の部分をニンマリとした顔で言いながら、嬉しそうに僕を見る地獄耳クイーンは性格が少し歪んでいるんじゃないのか。
「普通好きな人にぬれ雑巾ぶつけるか?それともぬれ雑巾をぶつけると恋が叶う言い伝えとか、おまじないでもあるのかい。まったく。」
「ちゃんと新品の雑巾を固く絞ってあったでしょ。びたびたじゃなくて。雑巾の訳は特別に教えてあげるわ。女神ね、あなたが呆気にとられる顔がとても好きなんですって。いつも取り澄ましてる高生君が『え?』って顔するのがたまらないって。変な趣味よね。じゃあ私、中等部の後輩と噂話交換に行くから。進展したらすぐに教えてよ。」
「君もマドンナ長瀬先輩のお兄さんをゲット出来たら教えろよ。」
呆気にとられる地獄耳クイーンの顔。ただ面白いだけじゃないか。
――貴子のことは嫌いじゃない。今までいろいろとぶつけてこなかったら、勢いや成り行きでつきあっていたかもしれない。しかし、数々の恨みを晴らさずにこのまますんなりつきあえるほど彼女のことを好きでもない。今までごめんなさい、がないならこっちだって仕返ししてやりたいくらいだ。
そうだ、まず仕返ししよう。その結果、つきあうかどうか決めよう。
どうやって仕返ししよう。ボールというボールを貴子にぶつけまくるのは……、それだと僕がいじめをしていると勘違いされて困るか。本人に当たればいいけど、そばにいる友達に当たったら大変だしな。となると、ぬれ雑巾もダメだ。
どうすれば意地悪でなく貴子に呆気にとられた顔をさせられるんだろう。
――そうだ。地獄耳クイーンが言ってた。婚姻届けに署名捺印するってやつ。あれを渡して呆気にとられたところを笑ってやろう。大人がやったら完全にアウトだが、高一だった僕はそこまで気が回らなかった。『冗談に決まってるだろ、アハハ、今の貴子の顔ったらおっかしい!』これで激怒されたり、引かれたりしたらそれでもいいや。そこまでつきあいたい相手でもないし。
僕は婚姻届けを手に入れて、署名捺印をして白い封筒に入れた。
貴子の目が点になった顔が浮かんで笑いがこみ上げる。
いくら何でも学院で渡すのは気が引けて、貴子の家のすぐそばで下校してくる彼女が一人でいるところを狙って呼び止めた。
「天王寺貴子さん。」
「何?」
振り向いた彼女は少しも動揺していなくて堂々としている。今のうちだけだぞ。
「この前の返事。今読んで欲しい。」
貴子の白い指が封筒を開けて中身を取り出した。
さあ、呆気にとられるがいい!!そしてその顔を笑ってやる!
「…………。」
彼女は全く表情を変えずに紙を元通りたたむと、封筒に入れ、それを制服の襟元から中にしまい込む。何してるんだ?
「ふふふ、あはは、あーっはっはっは!ブラに挟んだから取り返せないわよ。今すぐには役所に提出できないけど、あなたの将来は私のものよ。女王は無理って言ってたけど上手くいったじゃないの。高生、こんなにも私のこと好きになってくれてありがとう。相変わらず呆気にとられた顔がとっても好きよ。」
「えっ、冗談のつもりだったのに。なんですんなり受け入れてるんだよ、おかしいだろ、貴子!」
「私と高生の将来はまだ分からないけど、今、兄さんがうちより格上のお嬢様と結婚したくて名字を変えるって両親と大バトルして騒いでるの。姉さんの彼は一人息子だし。この紙一枚あれば当分うちは平和になるわ、あーっはっは、家族の悩みが一瞬で消えたわっ!ナイスよ、天王寺高生。あなたってなんて、くっくくくく……。」
彼女の高笑いを聞きながら、僕は今までの呆気に取られたどの時よりも長く呆気に取られた。
押し切られるようにつきあいだしてからも、そして結婚後も、貴子にはその後何回も呆気にとらされる。
貴子がカキに当たって、救急搬送された病院で第一子の妊娠が判明し、『旦那さん、奥さん妊娠してますけど一枚だけレントゲン取らせてください。』って言われたときは本当に呆気に取られて返事が出来なかったな。
わが子の出現をそうやって知ったお父さんはそういないだろう。腹痛に耐える辛そうな貴子の口元は僕の唖然とした表情を面白がっていて、いつも通り呆れた。
でも、貴子の大切なものを入れておく箱に、白い封筒――中身はあの時の婚姻届け――を見たときは彼女の気持ちがとても嬉しかった。(役所には結婚した時に書いた、別の婚姻届けを提出している。)
さらに僕だけの署名捺印だけじゃなくて貴子の署名捺印までしてあって、僕が食べようと楽しみにしていたお菓子を彼女が食べてしまった恨みや、大切な書類をうっかり捨てられてしまった恨みや、テレビのクイズ番組で僕がわからない解答をスラスラ答えて自慢気な顔をした忌々しさは帳消しにしようと思った――。
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