第38話 魔法はマイナスの力

 伶人の思いが嘘だったらいい。そう願った。でも、この結末を願ったことは一度もない。

「今日はわざわざありがとうございます」

「いえ。こいつも、椎名も伶人とは知り合いで」

「まあ、そうなんですか」

「え、ええ」

 伶人の両親と交わす会話に嘘はないんだけど、どうやって出会ったかは言えない。お通夜に来てみたものの、美織は曖昧に笑うしかなかった。

「明日の葬儀には出れないんですけど」

「大丈夫よ。さあ」

 そう言って、伶人の母親が祭壇へと導いてくれる。あの日、家では会えなかった史晴の叔母さんはとても小柄な人だった。

 名古屋駅近くの葬儀会場。伶人が目の前で消えてから一週間後。遺体は無事にメキシコから日本に戻り、こうして葬式が行われることになった。祭壇に近づき、棺桶に収まった伶人を見た瞬間、美織は思わず泣いてしまった。

「綺麗な顔でしょ?まったく、十年間どこにいたのかしら。つい最近死んだように見えるんですもの。でも、お医者さんに言わせると十年前に死んでいるんですって。特殊な環境下にあったんだろうって、そう仰ってたわ」

「ええ」

 叔母さんの言葉に頷きつつ、これは異次元から戻ったせいだと言えない自分がもどかしい。棺桶の窓から覗くと、伶人の髪は黒色に戻り、あの角もなかった。そして、顔はとても満足そうな笑顔を浮かべている。きっと、史晴に本音を伝えることが出来たからだ。

 どうしてあの日に出会ったのか。たぶん、これ以上は無理だと伶人が気付いたからだろう。今ならば解る。だから、研究室に連れて行かれる可能性を考えて、学内のカフェに誘ったのだ。

 異次元に連れ戻され、そして、死んだ瞬間に戻されてしまった伶人。でも、やるべきことはやったと、彼は言うだろう。それでも、美織にはこの結末は避けてほしかった。二人が並んで研究する姿を見たかった。総てのわだかまりが解けた後だからこそ、より一層強くそう思ってしまう。

「最期は、俺たちを守ってくれたんだもんな」

「うん」

 叔母さんに聞こえないようにそう言い合い、祭壇から離れた。これ以上見ていると、もっと泣いてしまいそうだ。

 明日の葬儀の時間にはカワウソ姿になってしまう史晴は、この場での別れは最後だ。でも、史晴の顔は決意に満ちあふれ、絶対に仇を討つと伶人に宣言しているようだった。

「すみません。あまり長い時間いれなくて」

 会場を出る前に叔父さんに挨拶すると、構わんよと笑顔だった。目元がどことなく伶人にそっくりで、何とも言えない気持ちになるが、ここは堪える。

「あの、メキシコに行ったのは、何か予感みたいなのがあったんですか?」

 ただ、これだけは訊きたくて、美織はそう問い掛けた。

「そうだな。あの子が呼んでいるような気がしたんだ。もうすぐ見つかるよって」

「――」

 メキシコに行ったのは一年前から。そう、丁度、史晴が呪われた頃だ。時空を行き来する関係で、ひょっとしたら叔父さんにも虫の知らせがいったのかもしれない。こういうのもまた、科学では解明できないものだ。

「無事に戻って来れたんだ。めそめそするのは止めよう」

「そうですね。解っているんですけど」

 史晴の呪いを発端にして知った論文は、二人の命を奪ってしまった。それが何とも言えないのだ。科学が命がけだなんて、あの日まで思ったことはなかった。それはきっと、呪われた史晴だって同じだ。

「ともかく、ホテルに戻ろう。町中で変化するのは避けないと」

「ああ、そうですね」

 この一週間で、カワウソの呪いは進んでいる。人間になれる時間が確実に短くなっているのだ。カワウソの呪いは清野が史晴に死んで欲しくない、論文に触れて欲しくないと思った結果だ。それが伶人の託された呪いによって、捩れて現れたものだ。

「川や海には近づくな。カワウソという川辺の生き物なのは、水に関係するから、か」

 史晴がホテルへの帰り道、ふと呟く。すると、清野自身はカワウソの姿を願ったわけではないのだろう。これもまた困ったことだ。

「そうですね。結局、誰も先輩を恨んでいなかった。恨んでいるのは」

 どこか別次元で自分たちを見ている神、もしくは何か。解明されては拙い何かを隠すためだけに、そうやっている。美織は思わず夜空を睨んでいた。そこには上弦の月が浮かんでいる。

「神という名の異次元の存在か。それは果たして神なのか。宇宙人であるのは間違いないよな」

「ですね。でも、呪いを掛けてくるってところが人間くさいです」

 美織が唇を尖らせて言うと、確かにと史晴が苦笑した。そう、超常的な存在であるくせに、わざわざ呪うというのが人間らしいのだ。伶人のこともそう。罰として異形のモノにしてしまうという発想が、人間らしくて仕方がない。

「おそらくそれは、次元が違っても地球があって、神を信じる人間がいるってことだろうな」

「ああ」

「そしてそこでは、ファンタジーが常識なんだろう」

「あり得ますね。つまり文化は同じだけれども、物理法則が違うっていうか、魔法使いも神様も当たり前にいるっていうか」

「そういうことだな」

 同じ人間がやっているのだ。そう思うと、ちょっと気持ちは楽になる。さすがに神様を相手にしているというのは、精神衛生上よろしくない。

 そんな話をしているとホテルに着いた。一応部屋は二つ取ってあるが、夜は一緒にいる予定だ。その前に史晴は手早く礼服を脱いで美織の部屋にやって来る。

「じゃあ」

「早めにお願いしますよ。万が一、一人の時にカワウソになっちゃうと困ります」

 オートロックだしと、美織は注意した。すると史晴も、五分で済ませると約束する。あの日、伶人が死んでしまった日から、史晴は美織をより信頼してくれていた。

「私も五分で済ませないと」

 もう史晴の前で着替えるのも、史晴がいる状態でお風呂に入るのも慣れているが、出来る限り済ませておきたい。

「はあ」

 でも、そんな思惑とは反対に身体は疲れを訴えてきて、ベッドに座ってしまう。ああ、このまま寝たい。

「寝不足なのは私も同じだもんなあ」

 史晴のサポートをしている関係上、寝ている時間は少ない。そう思うと途端に眠くなる。

「ダメダメ。寝たら五分で起きれない」

 せめてメイクを落とそうと、メイク落としをカバンから取り出した。普段はちゃんとメイクをしていないだけに、顔に不快感がある。マスカラなんて何年ぶりだっけ、そんな状態だ。

「ああ、こういう時は理系で良かったって思うのよね。そういうの、気にしなくていいし」

 顔を拭きつつ、そんなことを思う美織だ。まだまだ男子が多い理系社会。化粧なんて気にしていられないし、服装も気遣っていられない。それは葉月を見ていれば解る。さすがに院生の美織はちょっとは見た目に気を遣っているが、世間でOLをやっている同年代の女性よりは雑だ。

「おおい」

 そうしていると、無事に史晴がやって来た。美織ははいはいと、顔を拭きながらドアを開ける。

「――ホント、お前で良かったと思う瞬間だな」

「え?」

 しかし、その素の美織に、史晴はしみじみとそう言ってしまう。カワウソになっても動じず、危険があると言っても諦めず、そして普通に過ごしている。これほど史晴にとって心強いことはない。

「ほれ、晩飯」

「あ、ありがとうございます。あれ、どこで?」

 史晴が部屋に入ってくると同時にコンビニの袋を差し出され、買う時間なんてあったけと美織は目を丸くする。

「新幹線を降りた時に買っておいたんだよ。お前がトイレに行ってる時だ」

「ああ。ありがとうございます」

 そんな史晴も美織を女子として扱っていないところがあって、美織は安心する都同時に落胆するのだが、ともかく、いいコンビになってきたというわけだ。

「昨日は八時でしたね」

「ああ」

 しかし、二人の目下の困りごとはカワウソに変化するタイミングだ。長い時間変化するようになったことで、タイミングが毎日のようにずれるようになってきた。どうやらこの呪い、人間になっている時間を基準に発動しているらしい。

「そういうところも人間っぽいのよ。一体誰なのかしら?異次元で神のポジションにいる人って」

「さあ。しかし、こっちの物理学と数学に精通しているのは間違いないだろう」

「ああ。そうですね。論文になったことを問題視したわけですから」

 つまり、あの伶人の論文を正確に読み解けるだけの数学力が必要というわけだ。そうなると、相手も史晴のような人なのか。

「さあね。それか、本当に何もかも見通せる神なのか。人間くさいのはわざとという可能性もあるからな。それに神様って無駄に試練を課すイメージがあるんだけど」

「ははっ。救いではなく」

 史晴の一方的イメージに笑いつつも、美織も神様に関して具体的なイメージはないなと気付く。それはそうだ。日本は一神教ではない。八百万と表現されるように、色んな神様がいるのだ。こういう神様だと、一つをイメージ出来なくても仕方がない。

 そんな和やかな雰囲気でベッドの上にコンビニのおにぎりを広げた時だ。

「あっ」

 ぶんっと、音を立てて電気が消える。変化の合図だ。

「ぐっ」

 そして続く史晴の呻き声。いつも、これを聞くとぎゅっと胸を締め付けられる。どうして、史晴だけが苦しまなければならないのか。ああ、だから史晴は試練だと例えるのだろうか。

 そんなことを思っている間にも史晴の身体はみるみると縮み、そしてカワウソになってしまう。同時に電気が戻った。

「せ、先輩」

 最近では本当にカワウソになってしまって喋れない時がある。まず確認する。この時もまた心臓に悪い。

「大丈夫だ。意識はある」

 史晴は服の間から出てきて、喋れると頷いた。途端に美織の身体から緊張が抜ける。

「はあ。よかった。ここでカワウソと一人だけって、結構辛いなって思ってました」

「自宅じゃないからなあ」

「ええ。それに加藤先生に助けを求められないですし」

 取り敢えずはほっとし、まずはご飯にしようと決める。チェックアウトをどうするかという問題は、朝まで棚上げだ。

「色々と不便になってきたな」

「そうですね。あ、先輩はどれを食べますか?」

「明太マヨ」

「はい」

 おにぎりの外装を剥いてあげつつ、タイムリミットが迫っているだとひしひしと感じてしまう。それは今日、伶人の死に顔を見てより強くなった。あれが、史晴になるかもしれないと思うと焦ってしまう。

「大丈夫だ。必ず線引きは出来る」

「はい」

 美織の焦りが解ったのだろう。カワウソ史晴はその小さな手でぽんぽんと美織の膝を叩いた。自分が支えなければならないというのに、支えられてしまっている。

「どうぞ」

「ありがとう」

 カワウソ姿で器用におにぎりを受け取り、もぐもぐと食べ始める。ううむ、いつ見ても凄い。

「それで、論文の読み解きですけど」

「ああ。時空の穴に関してだな。それは数学でいうところの虚数に該当するようだ」

 史晴はもぐもぐとおにぎりを食べ終え、手に付いたご飯粒を舐め取ってから言う。

「虚数ですか。もともと、ブラックホールの一番奥は特異点だって話ですもんね。でも、ゼロではないってことですか」

「ああ。ゼロだったら、向こう側と繋がらないしな。しかし、虚数というのは曲者だ。数学の概念上は存在するが、実在はしない。物理で言えば仮想粒子や反物質だ」

「そうですね」

 虚数。それはマイナスの世界と言えば解りやすいだろうか。ともかく、実世界を現すものではない。

「ただ、これが反転するらしいんだよな。マイナス掛けるマイナスはプラスというのは、数学の基本だろ?そういうことが、時空の穴を通ることで起きるみたいだな。そしてそれこそ、すり抜けられる要因でもあるってわけだ」

「あっ。だから死ななければ向こう側に行けないんですか」

 閃いたという美織に、史晴はカワウソながら怪訝そうな顔をする。

「ええっと。つまり、生きている状態ってプラスですよね。こちらの次元で成り立っていられる条件ですから。しかし死んだらマイナス。マイナスの状態だと、次元の穴を潜れちゃうと。で、潜っちゃうと生き返るわけですよ。マイナスの世界にはプラスで働くわけですね」

「まるで死後の世界の話のようだな」

「ええ。でも、それが一番考えやすいですよ。だから、関口さんはこちらに戻ってくると死体になってしまったんです。操られている状態、つまり神の手先になっている間は、何か特殊な力で干渉できるようになっていただけってことです」

「なるほどね」

 別次元は反転した世界であり、生きている限りは干渉できない世界。たしかにそれは考えやすい。

「そもそも、虚数は実数がなければ意味がないですし」

「そうだな。それこそ、別次元があってもおかしくないってことに繋がるんだろう」

「ええ」

 ずいぶんと理解しやすい部分まで来た。美織は梅おかかおにぎりを食べつつ、理論が見えてきた実感が生まれる。

「こちらでは理解できない現象も、マイナスの干渉の結果だと考えれば解りやすいわけか」

 そして史晴も、本質が見えてきたとビックリした。虚数であり、ブラックホールの向こう側で反転するとは思っていたが、こうもすっきり説明できるのか。思えば、魔法として史晴たちの前に現れた現象は総てマイナスだ。

「ええ。呪いも死に向かうもの。関口さんが消えてみせたのもそう。記憶を一時的に消すというのも、あるものから引く行為です。加藤先生の記憶を改ざんするのもまた、マイナスです。つまり、この世界に対してマイナスに働くことが、魔法として使える」

 魔法使いに関しても説明できてしまった。ああ、だからかと気付くこともある。伶人の姿が鬼っぽかったのも、この日本においてマイナスだからだ。鬼は陰。魔法使いだろうと悪魔だろうと陰だ。つまりはこの世界にとってマイナス。ここでも理論は成り立っている。

「後は、何が禁忌なのか、か」

「ええ。そこを間違えて欲しくないんですもんね」

 向こう側にいる誰かは。美織はそれが誰なのか、知るのが怖く思えていた。

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