第37話 再会は別れの合図

 ここで出会ったのだから帰すわけにはいかない。そう葉月が主張し、伶人は研究室に連行された。伶人は抵抗するかと思いきや、葉月の強引さを面白がっているのか諦めたのか、素直に研究室まで付いてきた。

「さて。お前が別の時空から来た。それはその顔だけでも証拠なんだろうけど、他に何かあるのか?」

 葉月は伶人を自分の席に座らせ、一体どこから取り出したのか、手錠で伶人の手と椅子を繋いでしまった。その早業に、さすがの魔法使いも対応できず、苦笑する。美織も呆れた。というか、なぜ物理学者が手錠なんて持ってるんだろう。玩具なのだろうが驚くばかりだ。

「証拠ですか?見たいですか?」

「もちろん」

「では、帽子を取ってください」

 伶人はちょんっと自分の被っている帽子を指差した。それに、美織はまず警戒してしまう。

「それを取ったら煙がぼわって出るとかですか?」

「出ないよ。よほど実家でのことを恨んでいるのかい?」

 伶人はどんな状況になっても美織をおちょくってくる。完全に舐められているのだ。仕方ないとはいえ腹が立つ。

「じゃあ、取ります」

 美織は葉月に伶人を押えておいてもらって――手錠で動けなくしてあるが葉月は伶人の肩に手を置いたままだ――その間にそっと中折れ帽を取った。

「えっ」

「これはまた、解りやすく」

 帽子の下から出てきたものに、二人揃って驚いた。髪は黒くなく真っ赤、そして、頭頂部付近には鬼を思わせるような小ぶりな二本の角が生えている。

「ほ、本物?」

「触っていいよ。俺は、この世を司る何かに触れて、こんな姿にされたってわけ。魔法はおまけ」

 つんつんっと角に触れてみると固かった。ちょっと失礼して髪の毛をかき分けてみると、それは頭の骨が変形して出来たかのようにしっかりと頭蓋骨とくっついている。間違いなく本物だ。

「なるほど。悪魔にされたというわけか」

「ええ。日本人だからか、ちょっと鬼のイメージが入ってますけどね」

 伶人は何でもないように肩を竦めた。なるほど、これを隠すために目深に帽子を被っていたのか。思えば、正面からは髪の毛は見えていなかった。後ろ姿は、思い出す限り目撃していない。

「じゃあ、ひょっとしてお洒落に目覚めたわけじゃなく」

 美織はこの帽子に合わせてそのスーツを選んだのかと、思わずそんな確認をしてしまう。

「非常に失礼な発言だが、そうだよ。帽子で隠さないと町を歩けないわけだが、この帽子というのは非常に曲者だ。野球帽だと角は隠れないから、こういうちゃんとした帽子を被らなきゃならなくてね。となると、格好もラフなものじゃ合わない」

 伶人は困ったものだよと肩を竦める。なるほど、本人もお洒落ではない自覚はあったのか。

「おいっ。どうして電話に出ないんだ?」

 そこに不機嫌な声とともに史晴が現れた。しかし、部屋の中の状況に固まる。てっきり美織と葉月が喋っているだけかと思えば、真ん中には伶人がいた。しかも、伶人は真っ赤な髪に角まである。

「ははっ。史晴があんな顔をするなんてね。いやあ、捕まった甲斐があったよ」

 伶人はそのぎょっとして固まった史晴の顔に大笑いだ。本当に楽しそうに笑うので、あんな呪いの言葉を吐いた人と同一人物とは思えないほどだ。

「本当に、伶人なのか?」

「ああ。君に呪いを掛けた張本人だよ。どう?この格好ならば、さすがの理科馬鹿なお前でも納得するか?」

 しかし、やっぱり呪った本人だ。ちょっと気を許そうとすると、しっかりそんな皮肉を吐いてくれる。美織は思わず伶人の頭を叩いていた。この人の意地悪の理由が、こうやって対面したことで理解できてしまった。

「いってえな」

「もう。あなたは、助けて欲しいんじゃないんですか?」

「――」

 予想していなかった指摘だったのか、伶人が目を丸くする。いや、それは史晴も同じだ。

「先輩があなたより数学の能力があることは知っていたんです。だから、あの論文が原因であるのならば、先輩だったら、不可思議な現象さえ乗り越えられると思ったんじゃないですか?だからあなたは、先輩にあの論文を解き明かさせるために呪いを掛けた。違いますか?それを予想外の形で邪魔したのが清野さんだった」

「――」

「下手すれば死ぬ賭けに、清野さんは反発した。だから、あなたは清野さんが死んだ時間まで巻き戻したんじゃないですか?実際は死んでいることを、この時空ならば死んでしまっていることを、あなたは知っている。それって、清野さんのことがあるから知ってるんですよね」

 美織の指摘に、伶人が思い切り舌打ちする。それはその通りだと認めたようなものだ。

「出たな。椎名の唐突な洞察力の発動」

 そこで黙っていた葉月がくくっと面白そうに笑った。確かにいつも唐突に閃くけれども、笑わなくたっていいじゃないか。

「関口さん。何がどうなっているのか。きっちり説明してください。あなたは、死ねという言葉で先輩を挑発しただけですよね?自分が変わってしまったことを、まだ超常現象を理解していない先輩にその姿を見せても納得してもらえないから、人格が変わったと思わせたかったんじゃないですか?」

 美織は気を取り直してそう指摘すると、伶人の顔色が悪くなった。どうやら図星を指されたらしい。

「そ、そうなのか。伶人」

 そして、その反応は史晴を安心させる効果があった。ふにゃっと、史晴はその場に頽れてしまう。

「史晴」

 その反応は伶人をもってしても想像できなかったようで、ぎょっと驚いた。思わず立ち上がろうとするが、手錠が邪魔で無理だった。

「俺、お前に本当に嫌われたんだって。数学が出来ること、これほど恨んだことはなかった。でも、論文が出て来て、なんとかしなきゃって」

「――」

 それは、今の今まで吐かなかった弱音だった。カワウソになっても研究を続けてきた、前だけを見ることで何とか耐えてきた史晴が初めて見せた弱さだった。

「記憶がないことにビックリして、ノートが出てきた時はやっぱり仲が良かったよなって思い直したり、ホント、俺」

「――悪かったな。俺も、どうしたらいいのか。解らなかったんだよ。呪う以外にこの世界に干渉する術はなかったんだ。何としても、俺はお前を憎むしかなかった」

 ようやく伶人から吐き出された本音も、とても辛いものだった。つまり、異次元へと追いやられた伶人が戻るための手段は、史晴を呪うためという口実の元でしかなかったと。

「そうさ。俺をこんな姿に変えた存在は、解りやすく神としておくか、そいつはあの論文に書かれている内容を本気にし、解き明かされることを恐れているんだ。その能力があるのはお前しかいないからな。清野が中途半端に、それもお前への当てつけとした解いたことで、証明もされていることだ」

「じゃあ」

「遠からず、お前は俺と同じ運命を辿るはずだった。それを止める方法は、これしかなかったんだ。お前が憎いと、その感情を溜め込むことで、俺は魔法を付与されてここに来た。実際、途中までは操られている感じで、本気でお前を呪うことしか考えていなかった。が、清野だ」

「ああ」

「あいつが最期の気力を振り絞って介入したことで、予想外にお前はカワウソに変化した。すぐに呪いの効果が確かめられなかった俺は、ちょっとその操られているものが薄れたんだ」

 そして今、こうやって喋っていられるというわけか。しかし、それって凄く危険なことではないのか。

「ああ。こうなった以上は仕方ないと、俺も腹を括ったんだよ。どうせ、俺は海に溺れて死んだはずなんだ。いや、時空をすり抜けるためにここでは死んだ。いや、違うな。俺はもうすぐ死ぬんだ。だから、こうやってちゃんと伝えることが出来るのか。お前たちがあの論文に辿り着いたから」

「えっ」

 急に何を言い出すんだと美織は驚いた。しかし、伶人の顔が今までとは全く違う、写真で見かけた面差しになっているのに気付いた。今の伶人は魔法使いの伶人じゃない。本当に関口伶人なんだ。なぜか、そう直感した。それは史晴も同じだろう。

「史晴。時間がない。俺が言うこと、信じられるか?」

「ああ」

 伶人の確認に、史晴は躊躇わずに頷く。

「あの論文には時空のある秘密が隠されている。俺は無自覚にそれを導き出していたらしい。実際、世間の受け止め方も、数学的にはあり得るが実際はどうか解らないという受け止め方だった」

「そうだろうな」

「その、秘密に関わる部分を探すんだ。それが、呪いに対抗できる唯一の方法のはずだ。呪ったのは俺自身だが、俺が消えても呪いは有効だ。神は、物理学では証明できない部分は、すでにお前の行動を見張っているぞ」

「っつ」

 解っていても、そう告げられるのは衝撃的で、史晴は息を呑む。それはそうだ。これは完全に物理学を越えた戦いなのだ。それに、史晴は図らずも巻き込まれてしまった。

 論文を作ったのが血縁関係の伶人で、その論文に踏み込んだのが史晴に負けたくないと思った清野だったから。

「もう見て見ぬ振りは出来ない段階だ。お前が出来るのは、何がそういう現象を引き起こすか。そして何に触れてはいけないかをはっきりさせることだ。これはもちろん、発表できる類いのものじゃない。でも、お前がそれを証明することが大事なんだ」

「それって、神を認めることになるからですか?」

 思わず美織が確認すると、あんたは本当に鋭いなと、初めて伶人に褒められた。そして、美織を見てにっと笑う。

「どうやら、あんたは呪いを躱したり、違う方向に導くことが出来るらしい。それはたぶん、あんたが理論の前に人間と向き合っているからだろう。これからも、史晴を支えてやってくれ。俺にはもう、無理だから」

 そしてそんなことを言う。美織は不覚にも泣きそうだった。そうだ。こうやって告げてしまうことは、伶人が死を受け入れたということ。もう、どんな形でも自分は支えられないから、それを解って美織に託そうとしている。

「いいか、史晴。ちゃんと線引きをするんだ。それが、呪いを逃れ、時空を越えなくて済む方法だ。しかも、数学的に完璧に証明するしかない。でも、お前なら、いや、お前とこの椎名って子ならば出来る」

「伶人」

「それと、校舎裏に埋めておいたのは、俺からの餞別だ。こうやって意識がはっきりすることが、お前と出会った後にもあってな。大急ぎで用意したんだ。いいか、ヤバいって思った時に蓋をこじ開けろ。それと川とか海には近づくな。清野の意思もねじ曲げられてカワウソになったのは、水辺に関係するからに違いない」

 そう言った瞬間、伶人の身体が透け始める。駄目だと葉月と美織はその身体に取り縋ったが、透明になることには抵抗できない。

「これで本当に最期だ。俺は、お前が生き残るって信じてる」

 その言葉を最後に、伶人の身体がふっと消えてしまった。からんっと、伶人と椅子を繋いでいた手錠が落ちる音が研究室に響く。

「そんなっ」

 結局、伶人を救うことは出来なかった。呪いも残ったままだ。それに、美織は呆然としてしまう。

「あっ」

 そこにバイブ音が響き、史晴がスマホをズボンのポケットから取り出した。そして頷く。

「解った。そうじゃないかって、そんな予感はあったから」

 そう答えて電話を切ったので、誰からの何の電話か、美織にも葉月にも解った。

「うん。伶人の死体が見つかったって。もう、十年も経ってるのに、綺麗な状態で。叔父さんは、奇跡が起きたんだなって」

 そこで、史晴の目からぽろぽろと涙が零れた。ようやく思い出して、ようやく和解して、ようやく伶人の身に何かあったか知れたのに。それが、永遠の別れのためだったなんて。美織もつられるように泣いてしまった。

 葉月はそんな二人が落ち着くまで黙って待っていてくれた。そして気持ちが落ち着いたところで、コーヒーを飲みに行こうと誘ってくれた。美織はまだ床に座っている史晴に手を差し出した。

「そうですね。何の因果か、最後に関口さんとお茶しちゃいましたし」

「そ、そうなのか」

「ええ」

 史晴は驚いたが、そういうものなんだなとすぐに苦笑した。そして、美織の手をしっかりと握って立ち上がる。

「お前が、必要らしい。助けてくれるか?」

「もちろんです。それに、初めから、私は最後まで先輩に付き合うつもりでしたから。必ず、呪いを解きましょう」

「ああ」

 打ち破るべきは論文の曖昧さだ。そして、この世に不思議があると認めること。目標がはっきりした二人はしっかり手を握り合い、笑っていた。

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