第36話 カフェラテと魔法使いと死について
呪いについて、ついにはっきりとした輪郭を掴んだ。その充足感を得たのも束の間、翌日には思わぬ事態に発展してしまう。
「まさ、あ呪いがまた進んだ?」
「みたいだな」
いつもだったらもう人間に戻っている時間。それなのに、史晴はカワウソのままだった。困ったものだと髭を撫でる。
「ど、どうしますか?」
「ともかく、俺は論文の解明を急ぐことにするよ。お前は先生たちに説明してくれ」
「了解です」
「それと、伶人と清野の情報、もう少し集めてもらえるか」
「解りました。あ、家の鍵は置いておきます。それと、何かあったらすぐに連絡をくださいよ」
「解ってるよ」
昼の一時。こんな会話を交わして美織は家を出た。しかし、一抹の不安、いや、ものすごい不安がある。
「あの論文を読み解いて欲しい関口さんと、読み解かせたくない清野さん。その二つの力が、先輩をどんどん窮地に追いやっているのよね」
大学に向かいながら、不安の理由に思い至る。どちらにしても、史晴は消えてしまうことになる。それが否定できない。そして、それを覆す手段が見えてこない。一体、どうすればいいのだろう。
「関口に会うことが出来ればなあ」
「年上を呼び捨てにするとは感心できないな」
「ぎゃあ」
飛び上がるほど驚き、そしてまさかと振り向いた。すると、そこには中折れ帽に三つ揃いのスーツの伶人がいる。
「ふふっ。いい反応だ。君が史晴のパートナーというのは、かなり面白い組み合わせだね。あいつは目の前で爆発が起っても動じないタイプだというのに」
くくっと、伶人は面白そうに笑ってくれる。それに、美織は顔が真っ赤になった。しかし、この男の冗談に付き合っている場合ではない。
「ちょっと、呪いを解くにはどうすればいいの?」
「さあね」
「本当にあなた、時空を行き来したの?」
「ほう」
呪いに関してはすっとぼけた伶人だが、論文に辿り着いていることを匂わせると態度が変わった。にやっと、あの嫌な笑みを浮かべる。
「あ、あの」
「大学の中にあるカフェで少し話そうか?」
「えっ?」
「色々と訊きたいんだろ?」
「は、はい」
まさか伶人からお茶に誘われるとは思っていなかったので、美織は驚いてしまった。しかし、頷いてから罠だったらどうしようと悩む。まあ、いいか。その時は思い切り机を蹴飛ばすなり何なりして、伶人を攪乱すればいい。この変な魔法使いのせいで、妙な度胸がついてしまった。
こうして大学の中にある、学食とは別のカフェに入ることになった。その前に、美織は抜かりなくここにいることを葉月にメールしておくのを忘れない。
「警戒しているようだな」
「当たり前でしょ。あんたは敵なんだから」
入り口でメールを打っていたところを見ていた伶人が揶揄ってくるが、美織は毅然と言い放つ。すると、ますます伶人は笑った。
「いいね。ガッツのある子は大好きだよ」
「あ、あんたに好きになってもらっても嬉しくない」
揶揄われているだけだと解っていても、腹が立つので反論してしまう。すると、伶人は酷いもんだと苦笑するだけだった。完全に遊ばれている。
「それで、話って?」
「それはもちろん、あの論文について」
「つまり、あの論文のせいであなたが変化したってことは認めるんですね」
「ふふっ、結構きつい性格だ」
煩い。と、思わず出そうになった言葉を必死に飲み込んだ。が、その様子を伶人はますます面白そうに見ている。まったく困ったもんだ。
「それで、ペンローズの理論を用いて解明することが、時空の穴を行き来できることと関係があるんですか?」
このままだと埒が明かない。そう判断してあの論文の核心を問い質した。するとようやく、伶人の顔も真剣になる。
「そう。まさにそういうことだ。そこまで理解しているとは素晴らしい」
「巨大質量のブラックホールも、その時空の穴が原因だってことですよね」
「そのとおり。そもそも原始宇宙では恒星を、それもブラックホールを生み出すほどの恒星を作るだけの物質が存在しない」
「ええ。でも、高エネルギー状態ではありますよね」
「そう。だから、それがポイントなんだ」
「――状態が不安定だから、ですか」
「そのとおり」
よく解ったなと、伶人はにこっと笑う。そこでようやく、目深に被った帽子を軽く上げた。その目はきらきらと輝き、ようやく議論できる相手を見つけたと楽しんでいるようだ。
「エネルギー状態が不安定であるということは、量子は励起状態にあるということ。ここで起こるのは」
「不確定」
「そういうことさ」
にこにこと笑うと、伶人は注文していたアイスカフェラテを美味しそうに飲む。その姿はどこも普通で、相手が時空を潜り抜けて妙な技を使えるようになっているとは、とてもではないが思えなかった。
「あの、それと魔法とどう繋がるんですか?」
だから、思わずそう問い掛けてしまった。すると伶人はきょとんとした顔をし、次に大笑いを始める。
「あ、あの」
「それを解き明かすのが君の仕事だろ?いや、史晴のやるべきことか」
「でも、あなたはそれが不可能であることを知っている」
「まあね。俺自身が証明であると言うべきかな」
「――」
ふざけているのではないことは、さっきと違って笑っていないことからも、そしてその目が真剣であることからも解る。解るが、それでは困るのだ。
「だったら、お前を解剖してやろうか」
「っつ」
そこに不穏な声がして、はっと顔を上げると、伶人の後に葉月が立っていた。にやっと笑い、マジで解剖しかねない顔をしている。
「おや。最近の理論物理学者は物騒になったものですね」
「お前に言われたくねえよ。理論物理学者から魔法使いなんてもんに転身した奴にはな」
さすがは葉月。どこのヤクザだと言いたくなる言葉遣いで応酬している。完全に女性を捨てている気がするが、それはいいのか。しかもがっちり伶人の肩を掴んで、逃す気はない。
「おや。魔法使いと知っているなら、逃げられますけど」
「ほう。ここでやっていいのか。目撃者を大量に作ることになるぞ。大騒ぎだな」
「――解りました。で、何ですか?」
葉月はそう簡単には撒けない。そう理解した伶人は両手を挙げて、降参とアピールした。しかし、葉月がそれで油断するわけもなく、肩に手を置いたままだ。
「解ってるだろ?あの呪いを解く方法は何だ?」
「さあ。俺も予想外のことが起こってますんで、こうすればいいなんて答えは持ち合わせてませんよ」
「清野さんですね」
横から割って入り、美織は昨日の夜、史晴と分析したことをざっと伝えた。すると、なぜか伶人も真剣に耳を傾けている。
「なるほどね。解読させたくないか。面白い」
そして、そんなことを言うのだから怖い。邪魔されて腹を立てているのは間違いなかった。
「確かにあの姿じゃあ、色々と制限があるからな。それに、占部は科学的に理解できないことはやりたくない性格をしている。それを知っていれば、有効な手段であるというわけだ」
葉月もよく気づいたもんだなと鼻を鳴らした。こちらは別の意味で、純粋に馬鹿なことをするなと腹を立てている。
「というわけで、完全にカワウソになる前に論文の謎を解明しなきゃならないのは確かなんですよ。だから関口さん、協力してください」
「は?」
なぜそこで協力しろになるんだと、伶人は不快感たっぷりに睨んでくれた。相変わらず捻じ曲がっている。
「あの論文、未完成なんですよね。というか、理論に穴があるんじゃないですか?だから、あなたは不可解な現象に巻き込まれることになった。それは清野さんと同じ、解明されたくないから、ですよ」
「――」
「完全に解明できれば、あなただって元に戻るんじゃないんですか?」
ここぞとばかりに詰め寄ったが、無理だねと伶人は冷たく笑った。
「無理」
「すでに俺はこの世のものではない――この世界では成立しない存在だからだ」
「――」
伶人の挑むような目に、咄嗟に答えが出てこなかった。つまり、完全な解明は伶人が死ぬことになるということか。史晴が解明できない段階で死んでほしいのは、自分の死を免れるためだったと。
「ふうむ。複雑になったな」
葉月は困ったもんだと、よりぎゅっと伶人の肩を掴むのだった。
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