第22話 魔法使いは海にいたのか?
早い話が、関口伶人という人は学者としては普通の人だった。何やら壮大なことを考えているわけでもなく、奇妙な学説を確立しようとしていたわけでもなく、ごくごく普通にブラックホールの謎を解こうとしていていた人だった。
「そうなんだよ。特に今、ブラックホールはホットな話題でもあるからね。銀河の中心にある超巨大ブラックホールも、どうやら活動周期があるって解ってきて」
「え、ええ」
という感じで、教えていた橋本もなかなかのブラックホール研究者だった。熱心に考えすぎて、生活の総てがブラックホールを中心にして回っているに違いない。
「伶人がいなくなったのはメキシコですけど、何か変わったところはなかったですか?」
史晴がブラックホールはもういいと、そう話を伶人本人に切り替えるまで、橋本は伶人と追い掛けていたブラックホールについて語っていたわけだが、ここで急に歯切れが悪くなった。
「あの?」
「関口が急に海を見に行きたいって言ったのは覚えているんだ。夕方に海を見に行く。別に不思議な行動じゃないだろ?散歩だろうと思って許可したのが――それが、最後になるなんて」
「――」
それで美織は気付いた。この人は十年間、あの時にどうして止めさせなかったのか。それを後悔していたのだと。そこまで心配してくれる人がいるというのに、伶人は物理学を捨て科学を捨て、そして魔法使いになってしまったのか。何とも不思議な話だ。
「海を見に行く、ですか。それだけでしたか」
「ああ。それだけだったね。で、夜になっても戻って来ないだろ?おかしいってなって捜索したんだが、見つからない。丁度、遠洋で地震があったらしいから、波にさらわれてしまったのではってなったけど、その日は捜索できずだ。そして翌日、海にまで捜索範囲を広げてみたけれども、どこにもあいつの姿はなかった」
橋本が語った内容で、ようやく欠けていたパーツは繋がった。津波も別に勘違いではなく、多分あったのだろうという憶測だからこそ、みんなの記憶が曖昧だったわけだ。
つまり、伶人はメキシコでどういうわけか姿を消した。これが真相となってしまう。
「どうして、そのまま姿を消したのか、だな」
橋本の研究室を辞した後、史晴は呟くように言った。たしかにそれが最大の謎であり、それこそ魔法使いになった原因のはずだ。そして、史晴を恨む原因でもあるのだろう。
「橋本先生との仲が悪かったってこともなかったようですし、物理学者としても普通だったようですし」
突然人が変わってしまった。今、美織と史晴に言えるのはそれしかない。いや、他にも考えられる。
「伶人もまた呪われた」
「そして魔法使いの手下にされてしまった」
史晴の呟きに美織がそう続けると、史晴がはっとした顔をして美織の肩を掴む。
「えっ」
「それだ。それしか考えられない」
「ええっ」
つまり今、二人が出した結論が、事実と今の伶人が異なる理由だということか。
「えっと。そうなると魔法使い本体はメキシコにいることになりますが」
まさかこのままメキシコに行くとか言い出すのか。美織がそう問うと、違うとあっさり否定される。
「あいつが唯々諾々と魔法使いの弟子をやってるとは思えないからな」
「弟子」
「ああ。もしくはもう一人前なのかもしれないけど、奴はおそらく魔法使いに出会った。そして何らかのことがあったんだろうけど――今、俺に呪いを掛けているのは奴の意思のはずだ」
「――」
史晴は何かに気付いたのか、歯ぎしりしてそう言い切った。だから、美織はどういうことかと問えなかった。
それってつまり、伶人は魔法使いになった後、本気で史晴の死を望むようになったということか。それってあんまりだ。
「伶人にとって、人生の転機として何かがあったんだろう。でも、何があったんだ」
そして史晴も、どう考えるのが正しいのか悩んでいる。しかし、伶人が誰かの命令で呪ったのではない。そう確信したのだ。
「ともかく、名古屋に移動しましょう」
「そうだな」
そこから実家までちょっと距離があるしと、史晴も頷いた。しかも伶人の家はさらに遠くだ。時間を確認すると午後三時。色々と急がなければならない。どういう理由とどういう経緯があろうと、史晴は確実に毎晩カワウソに変化してしまうのだから。
「別人になるほどの経験だったんでしょうね」
新幹線の駅に向かいつつ、美織は思わずそう問い掛ける。
「それはそうだろう。俺だって、自分がカワウソになるなんてトンデモなことが起って、色々と揺らいでいる。伶人には、もっとでかいことが襲ったんだろうな」
「先輩も?」
毎日変わらずに研究を優先しているのにと、美織は驚いた。
「当たり前だろ?お前だって、こんなことが起こり得る世界で、果たして数式で書き下せることが総てだと言い切れるか?」
「それは」
「カワウソになる数式でも探すか?量子力学でも応用するか?」
「やけくそですね」
「ああ。つまりは、そういう気分になるんだよ。目の前に、あまりに理解できないことがあるってのはな」
そう語る史晴を見て、美織は気付いた。伶人もまた被害者なのかもしれない。その可能性が、史晴の認識を変えようとしているのだ。それがいい方に傾くか、それとも悪い方に傾くか。それは今のところ解らない。
でも、必ず史晴と、そして出来ることならば伶人を助けたい。美織は真っ直ぐに歩く史晴の背中を追いながら、自分の気持ちも変化していることに気付いたのだった。
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