第2話 カワウソ先輩との初日
「え?うそ?え?」
目の前で起ったことが信じられず、美織は混乱する。だって、先輩が服だけ残して消えて、後にはカワウソが残っているなんて。
「騒ぐな」
「っつ」
か、カワウソが喋った。しかも、先輩の声で。え?
「知られてしまったからには仕方ない。ちょっと手伝ってくれ」
混乱する美織に、カワウソに変化してしまった史晴は近づくと、美織の膝をぺちぺちと叩いた。その感触はまさしく動物。
「せ、先輩なんですか」
「ああ、そうだ。これでも、占部史晴だ」
「――」
非常に遺憾だという顔を浮かべながら、カワウソがそう認める。つぶらな目を持つカワウソ。しかし、仕草や表情は間違いなく史晴のものだった。
「あの」
「ともかく、俺の服とカバンを持ってくれ。それと、出来れば君の家に行きたいのだが」
「へっ」
目の前にいるのはカワウソ。しかし、中身は紛うことなく史晴。そんな相手が自分の家に行きたいと言い出す。それは動揺する。激しく動揺する。散らかった家を見せていいのか。というか、憧れている先輩を自分の家に招くのに掃除も出来ないなんてと、激しく動揺する。
「おい。何を考えているのか知らんが、元の身体に戻れるまで身を潜める場所が必要なんだ。その間に説明するから、頼む」
動揺してわたわたする美織に、カワウソの史晴は器用に頭を下げた。それに、美織も何故か頭を下げ返す。
「ち、散らかってますが」
「大丈夫だ。俺の家は足の踏み場がない。本来ならば俺の家に行ってもらうのがいいんだが、ゴミ屋敷で君を招くわけにはいかん」
「は、はあ」
まさかの気を遣っての美織の家だったのか。それでようやく、美織の動揺は収まった。ともかく、早急にこの事実を隠さなければならないだろう。
「ああ。これ以上こんなトンデモ秘密を知られるわけにはいかん」
「自分でトンデモって言っちゃうんですね」
「他にどう表現しろと?仮にも俺たちは物理学を信奉する者同士だぞ。それがこんな」
そう言って、史晴は自分のお腹を撫でる。紛う事なき獣のボディに、凄くがっかりしている様子は可愛らしい。
「キュンとしちゃいます」
「は?ともかく、移動しよう。俺のことは俺のバッグに入れてくれればいいから」
「りょ、了解です」
こうして史晴の指示により、美織が一人暮らしをするマンションへと移動することになった。
「はあ。助かった。しかもミルクまでごちそうになってしまって」
「い、いえ」
そしてマンションにて。良ければどうぞと、お皿に温めたミルクを入れて差し出すと、史晴は嬉しそうにそれを飲んだ。ぴちゃぴちゃと舐めて飲む姿はまさしくカワウソなのだが、しっかり感謝を述べるので史晴で間違いないと確信させられる。
「あの、先輩はどうして」
「カワウソになったか、か?それは俺だって訊きたいところだ。が、どうやらこれは呪いらしい」
「の、呪い」
それもまた非科学的なことですねと言おうとしたが、すでに目の前に非科学的なカワウソがいるので飲み込んだ。
「ああ。つい一年前だったかな。多分だと思うが、すれ違った男に掛けられたらしい」
史晴はカワウソ姿だというのに、器用に腕を組んで言う。
「すれ違った男、ですか」
「ああ。どういうわけか印象に残っている男だ。知り合いではないのは確かなのだが、妙に脳裏にこびりついている。おそらく、犯人はそいつだ」
「はあ」
それって呪われる状況にしては変な気が。そう思って美織は詳しくと頼む。
「ふむ。いつものように大学に向かっていた時のことだ。朝早く、いつものように人気の無い道を歩いていた時、反対側からやって来た男が妙に気になったんだ」
カワウソの史晴は、髭を撫でながら言う。可愛い見た目と語られる内容の薄気味悪さが乖離しているなと、美織はそんなことを思ってしまう。
「男は、多分俺と同い年か僅かに上くらい。顔は目深く被られた帽子のせいでよく解らなかった。全体的にクラシックなスタイルだったな」
「ああ。帽子って野球帽ではなく」
「中折れ帽というのかな。そういうものだ。スーツも三つ揃いの固い感じで」
「へ、へえ」
それって呪いというより魔法使いのようなと、美織は想像たくましく考える。イケメンな魔法使いが、同じくイケメンな史晴に嫉妬して――凄くいい。そのまま恋愛にでも発展しそうな展開。道ならぬ恋って感じだ。
「おおい。お前今、不気味な想像をしていただろ」
「ぶ、不気味って何ですか」
「ふん。お前はたまに夢見がちなことを言うからな。どうせ魔法使いじゃないのとか思ってたんだろ?」
「ぐっ」
ず、図星だ。先輩、よく理解していらっしゃる。可愛いカワウソ姿でも容赦ないところは史晴だ。ひょっとしてその先の部分まで読まれているのかと、ドキドキとしてしまう。
「ま、魔法云々に似たようなものだろう。ともかく、俺はその時からカワウソに変化するようになってしまった。そして、徐々に人間である時間を奪うように、俺はカワウソになる時間が長くなっている」
「え?」
「だから、呪いだと思ったんだよ。俺をよく思わない奴が、何らかの方法を用いてこんなことを仕掛けたに違いない。初めて変化した日は、二時間ほどだったと思う。もう混乱していてどうしたらいいんだろうと、そう思った頃に戻った。ひょっとして寝不足のせいかと思ったが、そこから毎晩、変化するようになってしまった。そして――今や一日の半分近くはカワウソだ。今日は不覚だった。もう少し早く家に戻るべきだったんだが、いつか研究が出来なくなるんじゃないか。そんな恐怖もあって集中しすぎた。大学で時間切れになるなんて、なんと不覚」
そう言って器用に額を押えるカワウソ史晴だが、それよりも大問題を聞いてしまったではないか。
「じゃ、じゃあ、呪いがこのまま解けなければ」
「カワウソになってしまうんだろうな。そして、死ぬんじゃないか。カワウソって寿命が短そうだし。そもそも、呪いなんだし」
さらっと、史晴は自分の最悪の運命を述べるのだった。
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