先輩はときどきカワウソになる!?

渋川宙

第1話 先輩がカワウソ

 昔は動物とは化けるものだったらしい。狐や狸という有名どころはもちろん、猫も犬も化け、カワウソだって化けていた、らしい。そいつらが人間になりすまして驚かせるなんて説話は、古文の授業でも出てくるところ。

 しかし、逆に人間が狐や狸に化けるなんて話は聞いたことがない。いや、絶対にないだろう。ましてやカワウソなんて。


「おい、椎名。見た目がカワウソだからって生魚はいらん」

「――」


 が、目の前の事象を否定するのは果てしなく難しい。椎名美織は、テーブルにちょこんと座って生魚に不満を述べるカワウソに、沈黙してしまった。

「おい。世話をする気がないなら解放してくれ。俺だってお前の世話になりたくない。自分で解決する」

「いや、でも、秘密を知っちゃいましたし。それに、もしかしたら科学の力でその謎が解けるかもしれないんでしょ。協力します」

「――だったら、俺がカワウソとしての性質を備えているかなんて、馬鹿な検証は止めてもらえるか」

「す、すみません」

 しかも、しかもこのカワウソは先輩なのだ。美織の憧れ、大学四年になって知り合った研究室の先輩。今はキュートで可愛いカワウソ姿だが、人間に戻れば身長百八十センチ、すらっと長い足にイケメンな顔を持つ男なのだ。名前を占部史晴といい、今年で二十八歳。

 史晴は美織が世話になっている研究室、加藤研究室の一員で、二十八の若さで助教に抜擢されるほどの秀才でもある。でもあるのだが――

「本当に、解けるのかな。この呪い」

 史晴は不安そうに自分のカワウソボディを見つめる。そう、なぜかカワウソに変化してしまうのだ。それも、人間として活動出来る時間が大幅に制限されてしまっている。限界になると強制的にカワウソになってしまうという、非常に困った状況なのだ。

「解けますよ。私が必ず解いてみせます」

 美織はぐっと握りこぶしを作るが、しかし、まったく解らないのも確かだ。どうやら誰かに呪いを掛けられているらしいのだが、まったく解決の糸口はない。史晴自身も頑張って調べているそうだが、なんせ人間でいられる時間の十二時間は研究に費やしてしまっている。つまり、カワウソ姿で謎を解くしかなく困っているのだ。この姿でもパソコンが使えるのだというのに驚くが、効率はよくない。

 そこで、たまたま、そう、たまたまその秘密を知ってしまった美織が、史晴の手伝いをすることになった。憧れの先輩を手伝えるのは嬉しいが、仮にも物理学で学位を取ろうとしている人間が、呪いを解くお手伝いなんて。美織は今、大学院に進んで修士一年だ。そんな、世間で言うところのリケジョの美織が、よりによって物理学者に掛けられた呪いを解く羽目になるなんて。

 いや、そもそも物理学者たる史晴が、自然法則ガン無視のカワウソに変化してしまうというのも大いなる謎だ。ひょっとして、触れてはいけない自然の何かに触れてしまったのか。それとも本当に呪いで、誰かから恨まれているのか。

「前途多難ですけど」

「そうだな」

 言葉とは裏腹にどんよりする美織に、史晴も溜め息。協力し始めて一ヶ月。その難しさに嫌気も差してくるし、手がかりがなくて諦めたくなる。

「ともかく、普通の飯をくれ」

「はい」

 たまに先輩が本当にカワウソになってしまっていないかを確かめる美織は、今日も感覚は普通であるらしい史晴に安堵しつつ、今度はハンバーグを差し出した。すると、器用に端から囓り始める。その姿は可愛すぎる。

 でも、こうやってたまにカワウソ本来の生態として反応しないか試してしまうのは、何も先輩をからかいたいからじゃない。本人には自覚がないようだが、確実に、史晴はカワウソになってしまおうとしている。いや、人間でいられる時間は確実に減っているのだ。

 本人は疲れのせいにしているが、いや、気付いていても目を背けているだけかもしれないが、しかし、このままではいずれ、史晴は確実にカワウソになってしまう。そもそも、美織が手伝うようになる前は、まだ人間の時間の方が長かったのだという。それが今や、一日の半分はカワウソだ。

「な、何とかしないと」

 自分もハンバーグを食べつつ、決意を新たにする。しかし、ふと疑問が浮かんだ。

「先輩。私が手伝う前は、食事はどうしていたんですか?」

「え?人間姿の時に食いやすいものを買っておくんだよ。パンとかおにぎりとか。それを食ってた」

「な、なるほど」

 こんな具合で、美織は今、ときどきカワウソになってしまう先輩と同棲中なのだった。





 そんな同棲生活が始まるきっかけは、約一ヶ月前に遡る。いつものようにパソコンに表示されるデータを睨め付けていて、帰るのが普段よりも遅くなってしまった日のことだ。

「やっちゃった。早く帰らないと」

 研究室にはすでに自分だけの状況に、美織はびっくり仰天だった。というのも、普段ならば教授の加藤葉月や史晴が研究室に遅くまで残っている。その二人が知らない間に帰宅してしまっているのだから、驚くなというのが無理だ。

「片付けて出ないと。あれ?」

 しかし、史晴の机の上に、いつも持っているショルダーバッグが残っているのに気付いた。ということは、まだ大学の中にいるらしい。

「声を掛けてから出た方がいいかな」

 そう思って廊下へと出たことが、美織の運命を大きく変えることになったのだ。

「ぐっ、いっ」

 そんなうめき声が廊下に響いている。これは緊急事態だ。美織は声のする方へと駆け出していた。そして、薄暗い廊下の先、非常階段の手前で蹲る史晴を発見することになる。

「せ、先輩」

「近寄るな!」

 駆け寄ろうとした美織を、真っ青な顔をしつつも睨み付ける史晴。その必死の形相に、動きが止まってしまった。

「俺は、大丈夫、だ。あっち、行ってろ」

「で、でも」

「早くっ」

 史晴は必死にそう叫ぶが、こんな状態の人を放置できるはずがない。そう思って近づこうとしたが

「シャー」

 と、史晴から人間とは思えない威嚇する声が出た。しかも、口から覗く犬歯が異様に長い。そして、目が黄色く光っていた。

「ひっ」

 何これ。まさかホラー。先輩って吸血鬼なの。そんな想像が駆け巡り、美織は腰が抜けてしまった。

「――」

 襲われる。血を吸われる。そう思って美織はぎゅっと目を瞑ったが、しかし、そんな衝撃が襲ってくることはなかった。

「――」

 恐る恐る目を開けると、そこに史晴の姿はなかった。代わりに、ちまっとしたカワウソがいたのだ。しかも、先ほどまで史晴が着ていた服からもそっと出てくる。

「え?」

 こうして、予想外な形で美織は史晴の秘密を知ってしまったのだった。

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