8話 ウルズの泉

 御手洗の両腕には凄まじい熱量の白い蛇を模した複数の炎が絡みついている。それを見た梨愛の目がみるみると大きくなっていく。


 一方でゲオルクは固唾を呑む。わかるのだ。


 地獄の火炎というものが、自己の未来を断絶する絶望の業火であることを。


「朽ちてなるものか、余の野望のため。やむを得ん!」


 ゲオルクは素早く場を離れて距離をとり、拳を地面に突き刺した。御手洗は攻撃するのを止め、様子をうかがう。


「目覚めよニズヘッグ。今こそ我らがひとつとなるとき、黒竜となりて敵を討つ!」


 と言ったゲオルクの足元が石化していく。

 石化は徐々に上半身へと移動していき、とうとう苦悶の表情を浮かべたまま完全に石化した。目元からは黒い液体が頬伝いにぽとり、ぽとりと地面に垂れ、黒く染まっていく。

 そうして黒の澱みがゲオルクの肩幅まで出来上がった時、鋭い爪に黒い鱗で覆われた手が澱みより這い出て淵を掴んだ。


「暗い。狭い。寂しい」


 もうひとつの手が澱みの淵を掴む。


「光の指す方は行きたくない。女王ヘルに代わり王となり、この人間界ミッドガルトがじわりじわりと闇に滲む世界を余は眺めたいのだ!」


 巨大な影が澱みより飛び出した。

 御手洗は鋭い視線を宙にやる。そこには、大きな翼をはためかせ真紅の瞳を燃えたぎらせる黒竜がいた。黒龍は大きな顎を動かす。


「流石はニズヘッグ。聖なる大樹ユグドラシィールの根を齧り続けただけある。パワーが、世を統べる力がみなぎってくるではないか」


 自信が溢れる。野望をひと飲みにできるほどに。

 どんな敵をも倒せる。死界ヘルヘイムの住人、黒龍ニズヘッグと融合したこの肉体で。あとはヴァルキュリアを殺してブリュニーの泪を手中に収める――しかし。ゲオルクの思惑は浅はかで愚かであった。


「白き地獄の煌きを」


 御手洗がなんら感情を持ち合わせない呟きを発したかと思えば、既に地に堕ち、体から白煙をあげるゲオルクの姿があった。


「お静かに。所詮は傀儡、あなたは力というものを全く理解していない」


 御手洗の両腕に絡みついていた白い蛇が消えていた。梨愛を封じていた異形の手も消えた。ようやく自由の身となった梨愛は片膝をつき息を乱しながらも、経験したことのない憤りを憶えていた。


死界ヘルヘイムの力を得た所で陳腐なものにしかならないのですよ。ねえそうは思いませんか、原木さん?」


「・・・あなた、一体何者なの」と梨愛が訊ねるも御手洗は肩をすくめ、ため息をついた。


「おやおや。躾がなっていませんね」


「言いなさいよ。あの白い蛇は、あなたが使った、【誠実シンシア抱擁エンブレイス】は・・・なのよ!」


 かつて自慢げに白蛇を見せてくれたオーディンの姿が重なる。

 梨愛は落ちていた纏通エーテルに覆われたままスクレーパーを拾い上げ、喚き散らしながら刀身を突き立てて突進。しかし御手洗になんなく躱され、手首を掴まれた。


「離しなさい、離せ!」


「これは心外ですね。この力は、あなた方神々よりものですよ?」


「正式に譲り受けたですって、デタラメを言わないで!」


「やだなぁ。もうお忘れなのですか、仕方がありません、人間として暮らしていたあなた方にとって500年という時は長すぎる」


「あんたが何を言ってるのか全然」


「ではこう言えば思い出してくれるでしょうか・・・


「今なんて!?あれはオーディンさまが決死の覚悟で自らを犠牲にして・・・そんなはずは・・・痛い!なにするのよあんた!」


 意表を突かれたその隙に、梨愛は頭を鷲掴みにされた。あくまでも優雅に振る舞っていた御手洗の表情に、ここに来て初めて、悪魔的な微笑みが宿った。


に知らない事などありませんよ?」


「ウルズ!?っぅああああああああああ!」


 膨大な情報量が梨愛の頭の中に奔流してくる。500年分の人間と暮らしてきた映像だ。それはジェットコースターより目まぐるしく、戦闘機にかかるGより重たい圧力。15768000000秒の動画を、光の速さで15768000000回見せつけられるような。銀河系を埋め尽くさんとする情報過多であった。


 だが最後の映像だけはゆったりとしていた。それは、御手洗が梨愛にトイレ清掃を教えている映像であった。面倒くさそうに作業する梨愛とは対称的に、身振り手振りを交え一生懸命に教える御手洗。映像が終わりを迎えた時、地面でもんどりを打つ梨愛へ御手洗が優しげに語りかけた。


「働いてください、原木さん」


「・・・ふざけないで」


「働いてください、ヴァルキュリア」


「やめて」


「働いてください、オーディンのため」


「・・・やめろ」


「働いてください、あなた神なのでしょう?ヴァルハラの和約を守りま」


「やめろって言ってるでしょ!」


 梨愛は素早く身を起こし、首筋めがけてスクレーパーを突き立てた。が、これも難なく躱され、衝撃波を浴びてふっ飛ばされてしまう。悪魔姿の御手洗を睨みつけ、痛みを堪えつつふらふらと起き上がる。


「・・・もう一度聞くわ。あなた、誰?」


「誰と言われましてもね。私は、ウルズの泉そのものですから」


 このように。と言った御手洗は腕を液状化させた。そこから溢れ出すのは清らかな纏通エーテルのせせらぎ。荒廃した世紀末感を醸し出す纏通空間グラズヘイムと対称的に、御手洗の周囲は生き物が躍動する植物の楽園となった。


「バカじゃないのと言いたいところだけど、信じがたいけど、あなたの纏通エーテルを見ればわかるの。わかってしまうの。オーディンさまやトールやフォル姉、たくさんのアース神族の纏通エーテルがあなたに・・・それに梨愛の纏通エーテルだって」


「ええ。あなた方の力は全て、私の中にあります」


「500年前からずっと、梨愛たち見ていたのね。全部」


「私はあなた方を監視しなければならなかった。すなわち、ヴァルハラの和約の遵守。それがあなたたちに課せられた使命であり、仕事です。さあ働きましょう原木さん」


「梨愛の仕事は、梨愛の使命は・・・オーディンさまの復活と神界アスガルトへの帰還よ」


「・・・残念です」

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